「…必ず、戻ってこいよ! ……待ってるから」
 タトローイへと向かう船に乗るシウスの背中に向かって声をかけると、彼はこちらをち
ょっと振り返り、あの無邪気な笑顔を浮かべた。
「おうよ。もっともっと強くなって帰ってくらあ!」
 軽く手を振って、それからすぐ船の向かう先に視線を戻してしまう。川を下る船は流れ
に従って、あの大きな背中はどんどん小さくなっていった。彼は、一度もこちらを振り返
らないまま。
「…………はあ……」
 少し泣きそうな笑顔で手を振って、彼を見送ったものの、フィアはため息を止められな
かった。
 いつだって前を見て、振り返らない。もう、ずっとずっと前から、彼の背中を追いかけ
続けていたのに。振り向けばすぐにいる位置に自分はいるのに。あんなに近くにいるのに、
実際には随分と遠い。
 結局、彼を止められないまま、また遠くに行ってしまった。
 このまま追いかければ良かったのだろうか? しかし騎士長という仕事があり、部下も
いる身で無責任にはなれない。
 孤児である自分をここまで育ててくれたライアスの恩に報いるためにも、この仕事を中
途で投げる事ができない。
 でも……。
 あっと言う間に見えなくなった川の向こうに目をやって、心に重くのしかかる自分の気
持ちに、フィアは再度ため息をついた。
 自分の身体がもう一つあったなら、絶対追いかけているのに。隣を歩けなくても、せめ
てまた背中を追い続けたい。
 魔王を倒した勇者の一人なのだし、以前のような中傷をはねのけるほどの実力はあるの
に。現に闘技場で乱入しては相手を打ち負かしたし、そこで最高ランクで優勝だってした
ではないか。
 だれもが認める程に強いじゃないか。
 なんだってまた飽くなき夢を追い続けてじっとしていられないのか。
 確かに、真っすぐに前を見て走り続ける彼の姿勢も好きだけど。
 約束は守る男だから、戻ってきてくれるだろう。…でも、またすぐに出掛けてしまうの
では? もうじっとしていてくれない? また一緒に暮らしてはくれないのだろうか。
 もう一度、並んで酒を酌み交わすあの一時は、もう二度とこないのだろうか。
 額に手をやり、フィアはまたため息をつく。
 近づいたと思った背中は、また遠くなってしまった。



 シウスが旅立ってどれくらい経っただろうか。
 風の噂でちらほらと剣豪シウスの名を聞く。前に家出同然で飛び出した時とは違ってい
るようで、武者修行の成果も出ているようだ。
 彼の名前を聞く度に喜んでいる自分がいる。
 しかし、今はどこで何をしているやら、だ。噂だから、その土地で起こった噂がこちら
に届く頃にはもうその場所にいない事だろう。
 仕事や責任の事なんかいっそ全て忘れて、探しに行けたらどんなにいいかと夢想する。
現実、そんな事は無理だとわかりきっているから、窓から空を見上げてはぼんやりと思う
だけだ。
 いい加減、自分も年頃を過ぎてきたから、縁談の話もあるけど、仕事があるからと断っ
てきた。
 もちろん仕事も大事だけど、なによりも彼以外の男性をそういう対象として見る事がで
きない自分がいる。
 もう何年も会っていないのだから、そこまで執着しなくてもとか、意地になっているの
かとか。ひどく遠慮がちにばあやから出た言葉に驚いた事がある。あのばあやがそんな事
を言うはずもないのにというのと、その内容にその時はひどく気分を害された。後で、そ
う聞いてくれと頼まれての事だと知ったけれど。
 執着とか、意地だとか、考えた事もなかった。
 確かに、彼の背中を最後に見たあの時はもう随分と前の話だ。距離と時間が遠くなれば
なる程、人はその心も遠くなっていくという。それを否定はしない。疎遠となってしまっ
た昔の友達だっている事を考えればそれは普通の事なのだろう。今では産みの親よりも育
ての親の方が大きな存在になっている事実だってあるのだから。
 でも、彼を想う自分の気持ちは全然別だ。
 無邪気な笑顔や、前向きな瞳。逞しい体つき。あの大きな背中が目の前を走っていたら、
自分はまた必死になって追いかけるだろう。
 引き取られてからは、ずっと一緒に遊んでいた。
 昔から悪ガキだったシウスは危険な所に行ったり、ケンカをしたり、突飛もない所に登
ってみたり。そんな事を数えあげたらキリがない。フィアはいつもそんなシウスの後をつ
いてまわり、シウスなら渡ってしまう溝に落ちたり、彼なら登ってしまえる木から落ちた
り、ケンカに巻き込まれて殴られたり。そんな事ばかりだった。
 そしていつもいつも泣いていた。
 泣き出す自分を見てギョッとする幼いシウスの顔。それからなんとかなだめすかし、時
にはおぶってくれたり、手をつないでくれたり。そんな事件の後で家路につけば烈火のご
とくライアスに怒られていた。
 ライアスはフィアには優しかったがシウスに厳しかった。
 でも、どんなに厳しく怒られてもシウスは絶対にフィアを責めなかったし、ライアスに
殴られてたんこぶを作りながらもフィアのケガの方を心配してくれていた。
 自分がトロいばかりにシウスはいつもライアスに怒られていると、幼い頃のフィアは常
に申し訳なく思ったものだった。
 だから、強くなろうと思った。
 少しでもあの背中に近づきたくて、修行を始めた。シウスのように大剣を振り回す筋力
はさすがに無かったから、女性の力でも扱える短剣を武器に武神流を学び始めたのは、い
つの頃だったからか。
 シウスが兵になるなら、自分も兵になる。彼が騎士になるというなら、自分も騎士にな
る。一緒にいられるなら、どんな努力だってする。
 生来の生真面目な性格と、天賦の才能も手伝って、フィアも若い騎士達の中でも目立つ
存在になっていたあの頃。
 あの騎士長のポストにやむなく空きが出て、そこに自分の息子を推した騎士団長の忘れ
もしない一件。
 どんな中傷があったのか、実はそんなに知らない。自分の耳には入らないように流れて
いたらしいと推測しただけで、実際にフィアはそれを聞いた事がなかったから。
 相談もしてくれなかったし、愚痴も言ってくれず、別れの挨拶さえもせずに消えた時は、
もう、何がなんだかわからず混乱した。
 その時は、ただただふて腐れるだけの子供ではなくなっていた。どこに消えたかわから
ない男を追うには自分は責任の伴う仕事をしていたし、代わりに騎士長になってしまって
はもう動けない。
 大恩あるライアスが推してくれた騎士長の仕事を蹴るなど、フィアには考えられなかっ
たし、それからは騎士長の仕事をとにかくがむしゃらにこなしていた。
 久しぶりにシウスの顔を見た時は、驚きと消えていた彼に対しての怒りが先立って、つ
いつい喧嘩腰になってしまったけれど。
 また身体が大きくなった事以外は、そんなに変わっていなかったのが嬉しかった。
 なにより、濡れ衣を着せられそうになり、誰もが疑いと戸惑いの眼で見ようと、一点の
曇りなく信じてくれていた。
 ライアスが重症を負い、焦心に混乱しそうなあの時、どれだけ救われた事だろう。
 また別れて、また出会って。
 近づいたと思った距離はまた離れて、時間も随分過ぎてしまった。
 フィアはまたため息をつく。
 シウスのいない日常は色彩も乏しくあくせく働くだけの日々として過ぎていく。仕事は
もちろん大切だ。大切だけれども。
 暗い部屋に一人、ベッドの上でぼんやりと窓から望む星空をぼんやりと眺める。
 同じ夜空を見上げているかもしれないのに、どこにいるやらさっぱりわからない。
 このまま、時間は過ぎていくばかりなのだろうか。
 とにかく、それがやたらと寂しかった。



「フィア様!」
 部下の騎士に訓練をつけていた時の事。切羽詰まった部下の声に振り向けば、ひどく慌
てた様子で息せき駆けてくる所だった。
「どうした?」
「ライアス様が……、急に、倒れられて……!」
 報告を聞いてすぐ、フィアは騎士団長の執務室へと駆け出した。

「…少し心の臓が弱っておられますな。しばらくは仕事はせずに安静にしておられるよう
に……」
「じゃあ、命に別条は……」
「ありませんよ」
 柔らかく微笑む老医師の言葉に、フィアは胸に手をあててほっと息をついた。
「……ただ」
「え?」
「心労がたたっておられるようですぞ。…なにか、心配ごとでもあるのではないでしょう
か?」
「う、うん……」
 真っ先に思い当たるのは、最近の騎士団で起きていたごたごたの事だ。ライアスはフィ
アには詳しい事は言わなかったけれど、汚職をしたとかどうとかで一時期かなり疑われて
いたのだ。つい先日、それの誤解が解けたものの、非常なストレスだったはずだ。
 昔のライアスならば耐えられる心労だったと思うが、疑惑と猜疑の視線は、シウスが家
出してしまった時のトラウマをかなりに思い起こさせたものと思う。あれはフィアにもシ
ョックだったが、ライアスにとっても相当こたえたのだ。
 今、シウスがいないのは別にライアスのせいではないし、父も納得の上で息子は旅に出
たのだが。それでも、この屋敷にはシウスはいないという現実がある。
 便りなど何一つ寄越さない放蕩息子だけど、その息子を誰より愛しているのは父親であ
るライアスである。彼の帰りを自分よりも負けないくらいに待っている事だろうに。
 便りがないのは元気な証拠などとどこかの誰かが言っていたけれど、それでも心配する
のだろう。時折入ってくる噂に目を細めていたけど、やっぱり会いたいのだろうと思う。
 他にもライアスの心労に思い当たる事がある。自分の事だ。
 すでに年頃は過ぎてしまった。なのに、自分は持ち込まれる縁談をことごとく断ってい
る。同世代の者達はそろそろ親に孫の顔を見せはじめている。友人の孫を見せられて、一
瞬、ライアスが寂しそうな顔をしたのを、フィアは見逃さなかった。
 結婚して、子供の顔を見せれば、ライアスも少しは安堵してくれるのだろうか…?
「フィア様?」
 老医師に話しかけられて、フィアは考え事を中断する。
「あ、ああ、な、なんでしょう」
「ともかく、ゆっくりとご養生なさるようにしてください。仕事はお控えになるように、
とも」
「…わかった。陛下にもそう申し上げておく」
「それでは、私はこれで」
「有り難うございました」
 老医師を玄関まで見送ってから、フィアは慣れた屋敷内を歩き、ライアスの部屋へとま
た戻る。
 主人の部屋では、ばあやがライアスの部屋の花瓶に花を交換しているところだった。
「ああ、フィア様。お医者様はなんと?」
「命に別条はないそうだ。ともかく、ゆっくりご養生なさるように、との事だ」
「そうでございますか。それは安心いたしました…」
 ばあやはしわだらけの顔をくしゃくしゃにさせて、微笑む。
「私もここのところ働きづくめだったし、少し休みをとろうと思う」
 ばあやだけに看病させるつもりなど毛頭ないので、フィアは少しまとめて休みをとろう
と考えていた事を話した。
「それはよいことでございますね」
 そう言って、ばあやはまた顔をくしゃくしゃにさせて微笑んだ。

 昔は英雄と讃えられ、武勇を語りつがれ、今もなお騎士団長として采配をふるうライア
スだが、倒れてからめっきりと覇気が弱っているように感じられた。
 ライアスにはいつまでも元気でいてほしいし、どんどん痩せていく姿を見るのはフィア
も辛い。
 ぼんやりとした不安は日々が過ぎるごとに膨らんでいくのに、これといった事もできな
いまま、ただただ時間が過ぎていく。
 ライアスが感じる不安事を取り除いてやりたいのに、自分は何をどうすれば良いかわか
らない。一体、どうすれば良いのか。自分にできる事はないのか。
 考え事をしながら、フィアは家路をたどっていた。
「……ん?」
 いつもは静かなライアス邸から、なにやら怒鳴り声が聞こえてくる。
 何事かと足を速めていると、誰と誰の声なのかがわかって、それがわかった途端、フィ
アは走りだした。




                                                             to be continued..