はたして、父親だけで子育てができるものだろうか。
 幼いアルベルを抱きながら、グラオはこの腕に眠るわが子を眺めた。おそらく、母方の
方に似たのだろう。すごく可愛らしい顔をしていて、まるで女の子みたいだ。けれど、よ
くよく見ると、目元が自分に似ているかもしれない。
 眺めていると、思わず頬がゆるんでくる。息子の顔は何時間見ていても飽きないくらい
に可愛い。
 その寝顔を見つめながら、グラオはかたく決心した。
 とにかく、やれるだけやってみよう。精一杯に。強い子になるように。心も身体も。


「もっと腰を入れてください! 剣に振り回されてはなりません!」
 厳しいグラオの声に、アルゼイは歯を食いしばり、剣を振り回す。アーリグリフでもは
ずれにある邸宅の庭に設置された稽古場で、剣の稽古の真っ最中である。
「脇が甘い!」
「うわっ!」
 ガシッ!
 びしっと脇を打ち付けられて、アルゼイは思わず木剣を取り落とす。木製とはいえ、や
はり叩かれると痛い。
「いったたたた…。やはりグラオは強いな…」
 痛みにわずかに顔をゆがめながら、アルゼイは取り落とした木剣を拾い上げた。
「アルゼイ様もなかなかです。ドラゴンライダーの王族もそう遠くはありませんぞ」
「そうなると良いけどね」
 肩をすくめて、アルゼイは力無く笑って見せる。アルゼイ・バーンレイド。現国王の親
戚にあたる男で、若いながらも王家にしては珍しく文武両道に秀でた人物だ。もっとも、
まだまだ若いため、周囲は若造としか見ていないし、甘くみている。身分は高いが、箸に
も棒にもかからない、どうでも良い存在。それが、今のアルゼイの状況だ。
「こうやって稽古をつけてもらうのもあと数回か…」
「何ですと?」
 アルゼイの寂しそうなつぶやきに、グラオは片方の眉を跳ね上げた。
「隣国シーハーツに留学する事に決まったんだよ。どれくらいの期間かわからないけどね」
「何と、それは…」
 表向きは留学であるが、裏を返せばただの厄介払いである。アルゼイの身分を使っての、
シーハーツとの友好関係を築く手段にすぎないのだ。
「国家間の友好のためにね。血が遠いながらも王族が留学するっていうのは、あっちにと
ってもハクになるからな。…シーハーツは施術の進んだ国だ。機械技術はグリーテンに劣
るものの、施術学は世界でも抜きん出ている。…きっと、自分が思ったもの以上のものが
つかめるさ」
「アルゼイ様…」
「なに、無期留学というわけじゃない。そのうち帰ってくるさ。その時は、みっちり稽古
を頼むよ、グラオ」
「…それは…喜んでお相手いたしますが…」
「…歯痒いな…。俺にはもう少しどうにかできるだけの力があると思っていたが…。なか
なかうまくいかないものだ…」
 遠い空を見上げ、アルゼイは冷たい風に目を細める。
「この国はおかしい…。人民あっての国だのに、それを蔑ろにして、貴族や軍人が贅沢な
生活を送る…。地盤をしっかりしないまま、こんな事を続けていてはいつか地盤が崩れて
しまうというのに…」
 側にはグラオしかいない事を知っているから。アルゼイは風に乗らないくらいの声量で
つぶやく。
「アルゼイ様」
 彼は王族にしては血が遠いため、現国王一派の華やかな生活とは無縁な境遇であった。
また、そのために、遠巻きに馬鹿にもされていたようだ。それでいて、現国王達はハッキ
リ言うと無能の分類で、大臣や宰相、取り巻きの貴族達に褒めそやされ、国民に目をむけ
ず、失策も平気でやらかす。そのような状態を目の当たりにして育ったせいか、アルゼイ
は非常に努力家で、真面目な若者となっていた。
「おまえの事だってそうだ。グラオ。おまえほどの実力を持ちながら、おまえの待遇はど
うだ。あれでは、せっかくの剣技がなまってしまうというのにな」
 そんな事を言われ、思わずグラオは少し遠い目をした。グラオの方こそ、アルゼイのよ
うな若者にどうでも良いような事しかさせないという、お上の所業を憂えていたのだ。
「私の事はよいのです。男やもめにはちょうど良い」
 そう言うと、アルゼイはふっと笑う。まだ若いのに、端々に妙に達観したところを見せ
る。頭が良すぎる所以だろう。
「アルベルは元気か? 前にあった時は随分人見知りしていたようだが」
「はっ…」
 思わず恥ずかしくなって、グラオはかしこまってごまかした。
「未だ人見知りのクセが治らず、あまつさえひどいきかん坊で…」
「人見知りをするのは賢い証拠だと母上がおっしゃっていた。唯々諾々と従うのは良策で
はないと幼いながらも知っているのだろう。今度連れて来ると良い。……シランドに行っ
たら当分は会えなくなるからな」
「はっ…」
 そうか。一度、シーハーツに行ってしまったらこちらに帰ってくる事は容易ではない。
表向き平気そうな顔をしてはいるが、内心は寂しがっているようだ。やはり、まだ若いと
いうことなのだろう。
「アルゼイ様。ヴォックス様がお呼びです」
 稽古場で一息ついている二人に、兵士が敬礼をしながらやって来た。
「叔父上か…」
 アルゼイの顔が少し曇る。貴族出身ながらも、ヴォックスは戦士としての能力が高い。
それだけの自負心からか、どうにも鼻持ちならないきらいがある。国を思うのは良い事だ
が、いかんせん、国粋主義すぎて、アルゼイはどうにも苦手なのだが。
「ではな。グラオ。稽古をつけてくれてありがとう」
「はっ」
 グラオは頭を下げ、アルゼイは少し手を振ると、そこの兵士と共に行ってしまった。そ
れをしばらく見送って、グラオは遠い青空を見上げる。雲はあんなに遠く、風は冷たい。
もう少しすれば、アーリグリフは雪に包まれる。長い冬の到来である。

 エアードラゴンを使えば、アーリグリフからカルサアまでの距離などあっと言う間だ。
自分の屋敷へ帰って来て、グラオはほっと一息をつく。
「ただいま」
 疾風の副団長にいながら、給料はそれほどではない。名前ばかりの団長がその分だけ吸
い上げているのだ。だから、自宅も身分に似合わずあまり大きな屋敷ではない。それでも、
一般民衆に比べれば随分良い暮らしをしている。
 生活にそれほど大きなものを求めていないというのもあって、グラオは給料の額自体を
特にどうと思う事はあまりない。
 しかし、主が帰って来たというのに、誰も迎えこないとはどういう事だ。
 少しいぶかしげに思いながらも、自分でドアを締めて歩いて行くとすぐに原因がわかっ
た。
「いけません、アルベル様! 危ないですから、お降りなって下さい!」
「アルベル様!」
 使用人達の悲鳴が聞こえてきて、グラオは思わずため息をついた。
「今度は何事だ?」
「あ、だ、旦那様、お、お帰りなさいませ! 出迎えにもあがりませんで、失礼いたしま
した!」
 執事の慌てた顔。メイドも慌ててかしこまる。あと、もう一人メイドがいたはずだが、
ここにいないという事は、買い出しにでも行っているのか。
 そう広くもないので、住み込みの使用人が二人、通いが一人でどうにかなるような屋敷
だ。よく働いてくれるので、留守がちのグラオも安心してはいるのだが。
「旦那様。アルベル様が!」
 あたふたとした執事が指さす先に、幼いアルベルが柱を伝い、なにやら天井によじ登っ
ている。
「アルベル」
「ふえ?」
 登るのに夢中になっていたのか。アルベルはようやっとグラオが帰ってきた事に気づく。
「何をやっとるんだおまえは…」
 思わず呆れ果てると、アルベルはにかっと笑って見せた。
「だってバーゼルが外に出ちゃだめって言うんだもん。おれ、木登りしたいのに」
「アルベル様! お昼ならともかく、もう陽が落ちているのです! そんな中、お外で遊
ぶなんて、危険です!」
 泣きそうな執事の声。遊び盛りのアルベルは、昼も夜も構わずに走り回る。元気なのは
結構な事だが、まだ子供では夜の危険さはわからない。
「バーゼルがやるなと言うには、ちゃんとした理由があるんだ。猿のまね事なんぞしとら
んで、降りて来い」
「…………ちぇっ。わかったよ」
 さすがに父の言葉には従うつもりがあるらしく、アルベルはちょっと口をとがらせて、
降りようともがいているようだったが、やがて動かなくなった。
「…どうした?」
「どうやって降りれば良いの?」
 思わず脱力する面々。ほどなくして、はしごが運ばれてきて、アルベルは救出された。

 父親に抱き抱えられて、アルベルは嬉しそうだった。まだ幼いし、少しでも一緒にいて
やりたいと思うものの、仕事も蔑ろにはできず、いつもジレンマに陥る。母親がいれば、
任せられたのかもしれないが、いないものはいないのだ。
「腹が減った。夕飯にしてくれ」
「はっ、ただいま」
「おれ、けーき食いたいー」
「夕飯にそんな甘いものを食わんでいい」
「ええー」
「アルベルの言うことなんぞ聞かなくて良いからな」
 グラオの言葉に、執事は苦笑しながら頭を下げる。まだ子供だからだろう。アルベルは
甘いものが大好きで、油断すると食糧庫の蜂蜜や砂糖を食べられてしまう。それゆえ、彼
の手の届かないところに置かれたり、隠されたりしてしまっている。
「おれ、さいきん、あまいもの食べてねえ」
「たまに食うからうまいんだ。毎日食えば虫歯になる。ちゃんと歯を磨いとるのか、おま
えは」
「んがー」
 息子の口の中に指をつっこんで、開けてみる。どうやらきちんと歯を磨かされているよ
うだ。グラオは少し満足した。
「夕飯までどれくらいかかりそうだ?」
「申し訳ありません。一時間ほどお時間がかかると思います」
「さっきまでの騒ぎで準備できんかったのだろう。まったく。おまえが騒ぎを起こしたり
するから」
「だって外に出ちゃ駄目ってつまんないんだもん」
 いつもはきかん坊のアルベルも、こうやって抱き上げると結構素直になる。口をとがら
せて見上げるわが子が無償に可愛くなる。
「エアリアルの世話をしてくる。できあがったら呼んでくれ」
「はっ」
 エアリアルはグラオが乗るエアードラゴンだ。メスドラゴンで、頭が良く、おとなしい。
それでいて、戦闘時は鬼神のような強さを見せ、こんなに良いドラゴンは他にいないとグ
ラオは自負している。
 ドラゴンの厩は屋敷の領地に対しかなり広めにとっていて、グラオのドラゴンに対して
の気持が表われている。
「アルベル。手伝ってくれるか?」
「うん!」
 本当のところ、こんなに幼いアルベルでは仕事にならないのだが、小さな頃からドラゴ
ンに慣れさせて、触れさせて、将来は立派な疾風の騎士にする事が、グラオの夢だ。
 グラオはあまり他人にドラゴンの世話を任せたがらない。忙しい時は仕方がないが、で
きるかぎり自分で世話をしたいと思っている。
「アーリグリフも冷え込んできたからな。カルサアも寒くなるぞ」
「おれ、さむいのきらいだ」
「私は平気ですけどね」
 ドラゴンにしては珍しく丁寧な口調で、はじめは驚いたものなのだが。エアリアルは舌
で前足をなめ、顔をこすりつけている。
「えありあるは、そんなにごっついからだしてるからだろ」
「私の素敵な鎧です」
 毛づくろいをしながら、すました様子で応える。
「んしょ、んしょ」
 おおきな農機具に振り回されながら、アルベルはわらをかき集めようと必死だ。それを
彼の背後からとって、グラオは息子と一緒にわらをかき集める。わらが急に軽く感じられ
るとアルベルはにこっと笑う。
「そろそろ新鮮なわらに変えないと駄目だな。そちらはどうだ?」
「こちらはまだ新しいですから。平気です」
「そうか。おまえはちょっと遠慮しすぎるからな。変えてほしければすぐに言え」
「わかっています」
 ドラゴンの赤い瞳が細くなる。毛づくろいが終わると、エアリアルは仲良くわらをまと
める親子を眺める。
「今度は水を変えるんだよね?」
「そうだ。だが、おまえには重いだろう」
「重くねえもん! おれ、持てるもん」
 言って、アルベルは桶を持って駆け出す。小さいながらも負けず嫌いで、できないだろ
うと言えば大概やりたがる。
「やれやれ。また重くて引っ繰り返すんじゃないだろうな」
「ありえますね」
 ふうとため息をついて、グラオはアルベルが駆け出した方へ歩きだす。
 ドラゴンの世話はなかなか重労働だ。ねわらのかき集めや、水場のとりかえ、えさやり、
なにより大変なのが身体をふいてやることで、図体がでかいので、一苦労である。
 専用のたわしでごしごしふいてやると、エアリアルは目を細める。下の方でアルベルも
こすってやっているが、もちろん、役に立ってはいない。
「どうだ?」
「すっきりしました。ありがとう」
「すっきりしたか?」
 役に立っていないが、エアリアルはいつも気持だけ受け取っている。
「あなたもありがとう、アルベル」
 長い首をのばしてきて、舌でアルベルの頬なめると、彼はくすぐったそうな顔をした。
微笑ましいと思う反面、グラオは少し心配になる。エアリアルはドラゴンにしては非常に
珍しくおとなしくて優しい。もちろん、いざ戦闘となればその非情さや、力強さを見せて
くれる。その使い分けというか、切り替わりはそら恐ろしくなるほどに違う。
 大体、ドラゴンは普通気性が荒く、なかなか扱いにくい。たまたま、エアリアルはドラ
ゴンなのにおとなしいが、これをドラゴンだと思ってもらっては困るのだ。
「旦那様。お夕食の支度が整いました」
 ちょうど良く、執事が夕食の準備ができた事を伝えに来た。
「そうか。今、行こう。じゃあな、エアリアル」
「おやすみなさい。グラオ、アルベル」
「じゃあな、エアリアル!」
 手をちょろっと振って、アルベルはグラオのすぐ横に来る。ちょこちょこと歩くアルベ
ルの手をとり、グラオは執事の後について歩いた。

「アルベル」
「んー?」
 ソースで口の周りをべたべたにしながら、アルベルはハンバーグのかけらを口に入れる。
それをナプキンで拭いてやりながら、グラオは話を続ける。
「今度アーリグリフまで父さんと一緒に行こう。アルゼイ様がシーハーツにご留学なさる
前祝いパーティに、おまえもどうだと誘ってくれたのだ」
「あるぜいさまって、あのお兄ちゃん?」
 この様子だと、人見知りするアルベルは、アルゼイの事を嫌ってはいないようだった。
ヴォックスの時は嫌悪の表情を隠しもせずに、父親の後ろに隠れっぱなしだったが。
「そのお兄ちゃんだ」
「うまいもん、いっぱい食えるかな?」
「多少はな」
 そういう贅沢な事は好まないアルゼイの事だから、わりと質素なパーティになることは
予想がつく。それにまあ、贅沢な事をしたくても、経済上できないだろうとは思うが。
 疾風副団長のグラオでさえ、嗜好品は滅多に口にできない。決して貧乏ではないし、む
しろ裕福なノックス家だが、国全体で貧しいのである。隣国シーハーツから輸入する野菜
と、自国生産する野菜の大きさの何と違う事か。
「じゃあ、いく」
「そうか」
 どうやら、アルゼイの事を気に入ったようだ。人見知りの激しいアルベルは、人の好き
嫌いも激しくて困ったのだが、アルゼイまで嫌ってしまってはと心配していたので、ちょ
っとほっとした。



                                                             to be continued..