「…遅いね…ミラージュ…」
「そうか?」
 やや顔を曇らせるネルだが、アルベルは相変わらず目を閉じたままだ。待っている時間
というのは、普通よりも時間の進み方が遅く感じられるもので。しかも時計をもっていな
いネルはミラージュが行ってしまってから、どれくらいの時間が経ったのかわからない。
「寝てろ。動いてもはじまらん」
「…わかっちゃいるんだけどさ…」
 動かない方が良いと頭ではわかっているのだが。膨れ上がる不安に、ネルはソワソワし
はじめる。
 職業柄、精神的にも鍛えられているネルだが、わけのわからない空間に連れて来られ、
それに対応しきれない事に加え、さらに仲間達とはぐれた不安のダメージはやはり大きい。
というか、あまり動じないアルベルの方が普通に言えば変だろう。
「参ったね…」
 こみあげるイライラをおさえきれず、ネルは自分自身に苛立った。自分がここから動い
てはならない事は百も承知なのに。
 ほんの小さく愚痴ってしまったネルの苛立ちを聞き、アルベルは目を開けて横目で彼女
を見る。静かな空間だから、いつもならまず聞こえないようなつぶやきだったのだが。
 何を思ったのか、アルベルは少し身をよじらせると、突然ネルの膝の上に頭をおろして、
床に寝そべった。
「な、なにやってんだい!」
 突然の事にネルは顔を赤らめた。
「俺は寝る。動くな」
 まぶたを開きもせずにそう言って。アルベルは勝手にネルのひざ枕で寝始めた。ネルも
いきなりのアルベルの行動に、立ち上がって頭を落としてやろうと思ったのだが。
 呆れた表情でため息をついた。
「ホラ。ちょっと頭あげな。このままだと私の足がしびれちまう」
 今まで足をのばした状態だったのだが。ネルはアルベルの頭を上げさせ、膝をおって正
座を崩したような格好になる。そして、彼の額を軽く手のひらで押して、自分の膝に落と
した。
「ったくもう…」
 呆れのため息をまたも吐き出すネルだが。その顔には笑みが浮かんでいた。
「……ワガママなんだから…」
 優しく彼の前髪を手で梳いて、余ったほつれ髪を耳の後ろになでつける。彼の寝顔は、
普段の不機嫌そうな表情や、戦闘時の凶悪な面構えとは打って変わった、あどけない顔付
きをしている。
 そんな彼を見てると、不思議と、先ほどまでの焦燥感が無くなってくる。
 ため息を吐き出しながら、ネルは壁に背をつけてもたれかかる。
 元は敵国の軍人で、憎むべき敵将だった男だったのに、そんな男のひざ枕をして安堵を
覚える自分に苦笑したくなったのだ。
 鏡がそこにあったら、自分自身も驚くような、そんな優しい笑顔を浮かべて、ネルはア
ルベルの寝顔を見つめていた。
 軽く髪の毛をいじってみるが反応しないところを見ると、どうやら寝入ってしまったら
しい。相変わらずの寝付きの良さにまた苦笑する。
 アルベルの長いまつげや、通った鼻筋。細面の整った顔立ちなどに見入っていたらしい。
 ふと、人の気配を感じて顔を上げると、いつの間に戻ってきていたのか、きょとんとし
た顔のミラージュと目が合った。ネルの瞳が真ん丸に見開かれる。
「あっ…、あ、その、これは…」
 一瞬で血流が上昇し、ネルの顔はみるみるうちに赤く染まっていく。慌てて立ち上がろ
うとするネルを軽く手で制して、ミラージュはにっこりほほ笑む。その余裕の笑顔が、ネ
ルの耳までもを赤くさせる。
「えと、だから…、その…」
「マリアから連絡が入りました。座標の設定…こちらの場所はわかったのですが、合流で
きるようになるまで、まだもう少し時間がかかるそうです。それまでは、ここで待機です」
「そ、そうかい…」
 アルベルをひざ枕している事など、まったく気にもかけていないような様子のミラージ
ュに、ネルは戸惑いながらも返事を返す。
「もう少し休んでいてください。今はとにかく休息する事です」
「あ、ああ…」
 ミラージュもすぐにネルの隣に腰を降ろし、壁にもたれかかる。そして、懐からクォッ
ドスキャナーを取り出すと、なにやら入力しはじめる。
 しばらくは、ミラージュがクォッドスキャナーに入力する時に生じる、小さな電子音し
か聞こえなかった。
「あ、あの…さ…」
 入力も一段落し、ミラージュが体を休ませていると、ネルの方から遠慮がちな声があが
った。
「なんですか?」
「その…、これ…変に思うかい…?」
 ミラージュは閉じていたまぶたをひらき、少しだけ身を起こしてネルの方を見る。ネル
はハッキリとは言えなかったが、明らかにひざ枕の事を言っているのは容易にわかる。
「少し不思議には思いますけど、変だとは思いません」
「…そ、そうかい…」
 赤く照れてしまっているネルの顔が可愛くて。ミラージュは思わず目を細めて彼女を見
た。
「そ…その、この事は…みんなには黙っておいてくれるかい?」
「構いませんよ」
 ミラージュはあっさりと返事をする。ものすごく親しいわけではないけれど、彼女の発
言は信頼がおける。ネルはほっと息を吐き出した。
「…けど、コレを見ても、驚かないんだね」
 しばらく黙っていたのだが、ネルは少しミラージュの方に顔を向けて静かな声で言う。
「驚きましたよ。そういうところを、あなたがたは他の人には見せませんでしたから」
「…驚いていたのかい?」
「ええ」
 その様子で本当に驚いていたのか。ネルには計れなかったが、ミラージュ本人はそう言
っている。
「…あんたとクリフには、感づかれてるかもしれないと思ってたけど…」
「気づいてましたよ。でも、他の人の前では、見せないようにしてらしたので。表立たせ
る理由もありませんから。黙っていましたけど」
「…そうかい…」
 やっぱりバレていたのかと、ネルはひいてきた頬の赤みがまた戻ってきた。
「…もしかして…、他の連中にも…気づかれてるんだろうか…」
 頬を染めて、かなり困った顔で、ネルは自分の膝の上で寝こけるアルベルを見下ろす。
「どうでしょうか? あなたがたの仲を疑っていても、確信を持ってるわけではないよう
ですよ?」
「そ…そうかい…?」
「おそらく、ですけど。この間、疑わしいと、ソフィアちゃんが話題にしてましたけど、
怪しいという事までで、それ以上に進展しませんでしたよ」
「怪しまれているのか…」
 憂鬱そうな顔付きで、ネルは遠い目をした。
「それは、そうですよ。女の子達はそういう話題が好きですから。彼女たちにとって身近
な年頃の男女が少し仲良くしているだけでも、そういう風にとります」
「…ああ、それは…そうだね…」
 ネルは、そういう話題にはあまり首を突っ込んでこなかったものの、周りの女の子がき
ゃいきゃいと騒ぎ立てている事はよく耳にした。
「それに、マリアがあなたがたをなにかと同室にさせますから。そう思いたい、というの
もあるのでしょう」
「…そっ…か…」
 ゆっくりと息を吐き出しながら、ネルはまた、膝の上のアルベルに視線を落とす。
「……やっぱり…変かな…?」
 しばらくの間、黙ってアルベルの髪の毛をいじくっていたネルが口を開いた。
「どうしてですか?」
「国の隠密が…。こんな所で、こんな事をしてるなんて…さ…」
 この男を想えば想う程、後ろめたさは膨らんでいく。誰かに知られたら、裏切り者の烙
印を押されそうで。
「あんたも、知ってるだろう? コイツと私の国が戦争をしていたのは…。表ざた、敵対
はしていなくても、心のしこりは根深いさ…。私だって、この男が嫌いだったし、憎んで
いたよ。郷里のみんなだって、元敵将を良く思えないだろう」
 寂しそうな笑顔を浮かべ、ネルはアルベルの前髪を指先で、軽くかきわける。
「こんなの…、こんな事は…今のうちだけだね…。帰ったら…、帰れれば、か…」
 少し言葉を切る。ネルは相変わらず寂しそうな笑顔のままだ。
「お互い、国の要職として会うだけで…。そんなに…会わなくなるんだろうね…」
 ネルの顔がほんの一瞬だけゆがむ。だが、その様子はすぐに打ち消して。曖昧な笑みを
浮かべて、壁に背を力無く預けた。
 そんなネルを、少し表情を曇らせて見ていたミラージュだが、やがていつもの表情に戻
る。
「…理屈で片付かないものなんてたくさんあります。……そうでしょう?」
 優しい眼差しで、ミラージュはネルをのぞき込んだ。
「会いたければ会えば良いと思います。言葉で言う程簡単じゃないでしょうけど。でも、
仕方がありませんよ。こうなると、人はわがままになってしまいます。私だって、本当は
実家に帰って親の跡を継がねばならないのに、今、ここにいます。…本当のところ、私は
あの人の考え方に共感はしていても、行動を起こそうとまでは思いません。それでも、行
動を共にするのは、私自身がそうしたいからです」
 いつものミラージュなら、こういう事を口にしないのだろうが。ネルは少し驚いて凛と
した彼女の横顔を見つめる。
「よく、人に聞かれました。どうして私があの人と行動を共にしているのかと」
「…確かに…それはすごくよくわかるよ…」
 思わず頷くネル。美人な上に格闘もこなし、ネルにはくわしくわからないが、その他の
領域に関しても著しく優れている事は見て取れる。
「理屈じゃありませんから。説明しろと言われても困りますけどね」
 ミラージュは今まで見せた事のない、少し照れた笑顔を浮かべた。そんな彼女を見てい
ると、ネルも笑いたくなってきて。お互い顔を見合わせて笑った。
「人の事言えないけど、あんたの趣味ってあまり良くないね」
「お互い様でしょう?」
「まったくだね」
 そしてまた、笑い合う。ミラージュとこんなに話した事などなかったが。わりと歳が近
いせいなのか、同性だからか。案外気が合うものだと思った。
「さあ、休んで下さい。合流する時に別の場所に移動します。そこで、モンスターと戦い
ます。それを倒さないとあの転送機を使うたびに、またバラバラにされます」
 ミラージュはすぐにいつもの落ち着いた表情に戻ると、これからの事を話す。
「そいつが、その「テンソウキ」とやらをおかしくさせてるわけだね?」
「そうです。座標場…、場所柄、私たちのところがそれに一番近い場所にいて、すぐに鉢
合わせする事になります。後でみんなと合流すると思いますが、私たちが最初に出会う事
になるでしょう」
 ミラージュはなるべくネルにも理解できるよう、言葉を選んで説明する。
「わかった」
「おそらく、あと一時間程でその時が訪れます。それまでは…ゆっくりしていましょう」
「ああ」
 ネルは目を閉じながら、頭をゆっくり壁にあずけた。
 さっきまでの不安感はなくなり、いつものネルに戻る。職業柄、必要な時にいつでもど
こでも寝られる。そういう訓練を受けてきたし、そうしてきた。
 ミラージュは寝ないで、クォッドスキャナーをなにやらいじくっているようだが。おそ
らく見張りも兼ねていてくれるのだろう。
 ここでは、ネル達は戦うしかない。しかし、それならばそれに尽くせば良いのであり、
他の役割分担はミラージュに任せれば良いのだ。
 だから、主力として尽力するためにも。見張りはミラージュに任せ、今は休むべきなの
である。


                                                            to be continued..