「クソッ」
 悪態をつきながら、アルベルは自分に治癒施術をかけていた。4人も私室から出て来て、
隣の執務室に集まっていた。
「あの…、私がやりましょうか?」
「あー?」
「こんなヤツ放っときなよ、ロザリア」
 未だ怒り覚めやらぬ口調で、ネルは腕を組む。さすがにもう服を着ている。そんな事を
ネルに言われたロザリアだが、彼女が治癒施術をかけると、一発でアルベルの傷も怪我も
体力の消耗や疲れでさえも回復していく。
 魔物の掃討が思ったより随分早く終わったので、早々に帰って来たのだが、その時の疲
れでさえも癒していく。
「どうですか?」
「…………えらい効くんだな……」
 まさか王妃にこんな得意技があるとは知らなくて。アルベルは少し驚いているようだっ
た。この前、かけてもらった時は顔のケガだけだったので、これ程の効き目だとは思わな
かった。
「ロザリアは女王陛下を伯母に持ち、大神官を母親に持つ神官だったんだよ。本格的に攻
撃施術を学んでいたら、クレアとも肩を並べられる。…もしかすると、その上をいったか
もしれないくらいさ」
「クリムゾンブレイドと?」
「攻撃系は会得していませんが、回復や治癒等なら得意です」
 そう言って、王妃はにっこりとほほ笑んで見せた。王妃の意外な一面に、驚いていたア
ルベルだが、やがて小さく鼻を鳴らした。
「それじゃ、ネル。できあがり次第届けるから」
 アルベルの方が落ち着くとわかると、ロザリアはそう行って立ち去る準備をした。侍女
がさっとその用意をする。
「うん。悪いね」
「いいのよ。じゃあ、私はこれで。行きましょうか」
「はい」
 侍女に声をかけると、ロザリアはネル達に会釈をしながら、執務室を出て行った。
「あ、あー、じゃあ、その、私、夕食準備の手伝いをしてきますね。なにかあったら、呼
んで下さい」
 少し居心地悪そうにしていたマユはそう言って、とってつけたようにぺこりと頭を下げ
ると彼女も部屋を立ち去る。
 そして、部屋にはアルベルとネルだけになる。
 思わず、無言で見つめ合う二人。話さなければならない事があったはずなのに、こうし
て本人を目の前にすると、それが何なのか思い出せない。
 アルベルは小さく息を吐き出した。
「早かったね」
「あ? ああ。案外早くに片付いたんでな」
 話しかけようと思ったら、ネルに先手を打たれてしまった。何を言おうものか、アルベ
ルは少し、頭をかく。
「王妃が来てたんだな」
「あんたが呼んだんだって?」
「まあな。この国でてめえの知り合いっつったら、あの女くらいしか思いつかん」
「知り合いじゃないよ。友人だ」
 ため息混じりにネルが言う。その表情に今朝までの鬱々とした表情はない。友人と話し
た事で少し元気が出たようだった。アルベルは内心ほっと胸をなでおろす。
「メシまでに時間があるな。水でも浴びてくる」
「え? あ、うん…」
 アルベルはネルを通り過ぎて、自分の私室へと向かう。そう言われれば、若干返り血を
浴びていたようだ。
 面倒くさがりのアルベルはお湯ではなく水を浴びて済ます事も多いようだ。カルサアは
火山であるバール山脈と近いせいか、掘るところを掘ればぬるい水も出るため、それを使
っているせいもあるようだが。それにしたって、ぬるい水でも浴びた後は寒いだろうに。
 寒いのを嫌がるくせに、なんだかんだと寒さへの耐性は強いようである。
 そこで、ネルは母親と親友への手紙を書かなければならない事を思いだし、執務室から
アルベルのインクとペンを失敬して、隣の私室へと向かう。さすがにこの執務机にむかっ
て手紙を書く気にはなれなかったのだ。ついでに紙も失敬した。
 どうやら良いペンに良いインクらしく、紙の上の走りが良い。ともかく、手紙の下書き
を繰り返しながら、考え考えしながら、ネルは顎の下に手をやる。
「なに書いてんだ?」
 ラフな格好で、タオルで頭をごしごしやりながら、アルベルはテーブルの上でなにか書
き物をしているネルの手元をのぞき込んでくる。
「家族と友達にね。手紙。何も言わないで飛び出してきたから心配してると思って。あ、
ペンとか、借りてるよ」
「……それは構わんが…。おまえ、どれくらいここにいるつもりなんだ?」
「え?」
 アルベルの言葉にネルは驚いて顔を上げた。
「どれくらいここにいようと、俺は構わんがな。まぁ、てめえの体がそんなんじゃ、しば
らくは動けねえと思うが」
「……………」
「それも考えてなかったのか?」
「…考えてなかったわけじゃないけど。これからどうなるか、どうするのかわからなかっ
たから」
「そうか」
 それを話すためにここにいるんだなと思い直して、アルベルはタオルで髪の毛をふいた。
長いので、こういう時は面倒くさいが慣れてはいた。おそらくネルがつけたであろう暖炉
の前に椅子を引きずって動かすと、髪の毛を乾かしはじめる。
 どれくらいここにいるのか。とにかく見当がつかないのだ。手紙の文面も考えられなく
なって、ネルはため息をついで、組んだ手の上に顎を乗せる。
「おまえ…」
「え?」
 暖炉から顔をあげて、アルベルがこちらを見ている。ネルは少し顔をあげた。
「なんなら、ずっとここにいろ」
「へ?」
「アーリグリフに来い」
「? 来てるだろ?」
「………………」
 思わずアルベルの顔が不機嫌そうな顔になる。
「もうちっとその頭使って考えろ」
「どういう意味だい! なに………」
 そこでようやっと、アルベルの言いたい事に気づいたらしく、黙り込む。そして、その
言葉の意味に、かぁっとばかりに顔を赤らめた。それを見て、アルベルは暖炉の方に顔を
向けてしまった。
 火照る顔のまま、どうにかこうにかネルは考えを巡らす。別に彼の事は好きではないが、
言葉の意味にはどうにも照れる。
「私は……。私は、仕事を辞めたくない」
「…そうか」
 アルベルの声がいつもより低い。暖炉の方に顔を向けたままの彼を見て、ネルは言葉を
続ける。
「あんたがシランドに来な」
「は?」
 まるで予期していなかった言葉に、アルベルはネルの方に顔を振り向かせた。
「そうだよ。そうしなよ」
「おい、ちょっと待て。そしたら、俺はどうなるってんだ」
「構う事はない。私が一生養ってやる」
「おいコラ」
「戦いたきゃ警護団とかに所属すれば良いし。あっちもあっちで魔物が出るからね。あん
たみたいに腕っ節が強いのはシランドには少ないから調度良いよ」
「勝手に話を進めるな!」
「良い話じゃないか」
 腕を組んで、ネルは一人で頷いている。それなら、両親そろって子育てだってできるし、
自分の母親の面倒だってみれる。
「どこかだ、オイ! そしたら俺が仕事を辞めろってのか?」
「そうだよ」
 あっさり頷くネルに、頭を押さえてアルベルはため息をついた。
「俺だって仕事を辞めるつもりはねえ」
「……そう……」
 どうせそうだろうとは思っていたが。ネルは腕を組んだまま、ふっと息を吐き出した。
正直、アルベルと一緒になる事はあまり本意ではなく、気は進まないものの、子供の事を
考えると、片親で育てるより両親そろっていた方が良いと思うのだ。親権の事でもめる事
もないだろうし。
 ネルも子供が嫌いではないし、欲しくなかったわけでもない。色々と考えてみて、子供
ができた事自体は、そんなに嫌でもなかった事に気づいたのだ。相手については未だどう
こう言いたくはなるのだが。
 しばらくはお互い無言だったのだが。ネルも手紙の文面をもう考えられず、インクつぼ
にペンを戻す。
「やっぱ、てめえが隠密やめろ」
「嫌だよ」
「おまえ、性格的に隠密向いてねぇじゃねえか」
「な、ど、どこかだい!?」
「自覚ないのか? 甘すぎるんだよ」
「そ、それは…」
 痛いところをつかれて、ネルも言葉に詰まる。能力的には、アルベルもネルの実力は相
当なものだと認めているが。優しくて、感情的になりやすいネルの性格は隠密向きではな
いのだ。冷静で冷血な隠密を自分に課しているが、生来の性格はそう簡単に変えられるも
のでもない。
「てめえの命どころか、回りの命も危うくするぞ」
「………っく……」
 悔しくて、言い返せなくて。ネルは歯を食いしばる。なにしろ彼女には思い当たるフシ
がありすぎるのだ。今までは能力と運でカバーしてきたが。
「…それでも、私はあの仕事に誇りを持っている。中途なところで辞めたくはない」
「そうか」
 ネルの低い声で出した言葉に、アルベルはもうそれ以上言おうとはしなかった。
 しばらく、沈黙が支配する。やがて、髪の毛が半分くらい乾いた頃、アルベルはやおら
椅子から立ち上がり、ゆっくりとネルに近づいてくる。
「な、なんだい」
「腹、触らせろ」
「え? あ、ちょ、ちょっと」
 ネルの答えも聞かずに、彼女の側にくると右手をネルの腹に乗せる。アルベルの端整な
顔が間近に来て、ネルは思わず身を引いた。
 半乾きの髪のすきまから、紅い瞳が見えた。アルベルの横顔はネルの腹に向けられてい
る。まだそんなに膨らんでいないので、医者でもないアルベルが触ってもよくはわからな
いのだが、不思議な気持ちにはなってくる。
「不思議なもんだな。この中に人間が入っているのか」
「………赤ちゃんって言っとくれよ。そう言われると大人が入ってそうで怖い」
「そうか? まあ、小さいのが入ってるんだろうがな…」
「もっと、大きくなるよ。そのうち腹を蹴ったりするってさ」
「ほお…。元気なもんだな」
 アルベルの紅い瞳がうっすらと細くなる。いつもの厭味な様子のないその微笑みに、ネ
ルは目を見開いた。
 その時、私室の扉がノックされる。
「団長さん、ネルさん、お食事を持ってきました」
 扉越しにマユの声がして、アルベルも顔を上げた。離れた手が一瞬だけ、寂しく感じた
のは気のせいだったのか。

「けど、あんたの部屋って本当に殺風景だね」
「そうか?」
 ネルの意見に、アルベルはまるで無自覚な事を言う。
 部屋の面積自体が広い上に、家具などの調度品も必要最低限くらいしかない。壁には何
も飾っていないので、さらに殺風景だ。一応、ガラス張りのキャビネットには武具が飾ら
れていたが、あれはおそらく飾ってるだけのものではないのは察しがつく。
 窓にあるカーテンも、質は良いのだろうが、いかんせん、他の家具との調和はとれてい
ない。
 自分達が食事に使っているこの円卓も、他の調度品とはどこか趣味がずれている。
「そうだよ」
 言って、ネルは豆のスープを口に入れる。少し味が薄いが、妊婦用の食事という事で、
かなり気を使ってくれているようだ。メニューも、アルベルのものとは半分ほど違ってい
る。
 今日はロザリアと会ったせいかわりと気分が良く、食事も前よりかは進む。
「そういや、その服、どうしたんだ?」
 アルベルがネルの白いマタニティドレスを目で指した。ネルの身長では短くて、少し不
格好に見える。
「ん。マユのお母さんから借りてね。ちょっと短くて恥ずかしいんだけど、他になくてさ。
まあ、貸してもらえるだけ有り難いけど」
 ネルがそう言うと、アルベルはしばし思案顔をした。そして、おもむろに口を開いた。
「ベッドのそこのサイドボード、あるだろ」
「え? うん」
 顎で指し示す先に、大きなベッドの横にちょこんと置かれてるサイドボードがある。水
差しくらいしか置いてないのだが。
「その下に金庫がある。鍵を渡すから、勝手に使え」
「え?」
 あまりに意外な事を言われ、ネルは食事する手を止めた。
「それでなんか買え」
「か……買えって…あんた…そんな、しかも金庫の場所なんかそんな簡単に…」
「俺の金だ。どうしようが俺の勝手だろうが」
「いや…その…。今日、ロザリアが来たろ? 王妃の。あの娘に頼んで服は調達してもら
う事になったんだ」
「そうか。ま、他に入り用なもんもあるだろ。勝手に使え」
「勝手に使えって、そんな…どれだけ使って良いのかもわかんないのに…」
 まだ戸惑うネルに、アルベルの方はあっさりしたものだ。
「好きなだけ使え。他にも金の置き場所はある」
「……………」
 まさかこんな事になろうとは。ネルはびっくりして目を見開いたまま、アルベルを凝視
する。彼は相変わらず無愛想な調子で食事をたいらげているのだが。
「い……いいの?」
「構わん」
 やっぱりアルベルは無愛想で低い声しか出さなかったが。

 その後、アルベルから鍵を渡されて、開け方を教わった。小さな金庫だが、けっこうな
額が入っていた。ネルも相当稼いでる身だが、もちろん、そういうものはすべてシランド
に置いてきている。
 本当のところ、こうやって自由に使える金を渡されて有り難かった。
 お礼を言ったが、アルベルは鼻を鳴らしただけだった。

                                                          to be continued...