「ん? 今日は機嫌が良いな」
 最近、アルベルの事で沈みがちだったロザリアが、今日は前のご機嫌さを取り戻してい
た。それに気づいてアルゼイが声をかけると、笑顔で振り返った。
「はい。友達に会いまして」
「そうか。…カルサア修練所に行ったそうだが、そこに誰がいたのだ? アルベルはグラ
ナ丘陵に掃討に行ったはずだが…」
 自分で言っておきながら、ロザリアとアルベルが友達関係などとは思えなくて、自分の
言葉にアルゼイは少しだけ眉をしかめた。しかも、当のアルベルがいないはずなのに、そ
れもおかしい。
 忙しすぎて、あまり王妃にかまってやれない後ろめたさから、アルゼイはあまりロザリ
アの動向に口出す事はほとんどない。それに、自他ともに認めるロザリアのアルゼイへの
傾倒っぷりと真面目な性格を信頼しているのもあった。
「……あ…。えーと……。その…いずれわかる事だと思いますけど、今のところは内密に
お願いできますか?」
「ああ」
 アルゼイはこういう約束はきちんと守ってくれるので、アルゼイに対してはロザリアの
口は軽かったりする。
「以前、アルベル殿の想い人の話はしましたよね? その方が来ておりまして」
「ん? ……なあ、もしかしてそのアルベルの想い人とやら。シーハーツのクリムゾンブ
レイドではないか? 闇の方の」
「…………ご推察の通りです」
 やはりアルゼイはすでに誰だかわかっていたようだ。そういう事はみだりに口に出した
りする性格ではないので、今まで黙っていたようだが。
「おまえの友人で、アルベルと面識というか、付き合いがあるのは彼女くらいのものだ。
そのへんの女にあいつが興味を示すとも思えんしな。…俺がアルベルを同行させろと言っ
た時はひどく嫌がっていたようだが…」
 あの様子ではフラれるのも無理はないなとか思いながら、アルゼイは言葉を続ける。
「しかし、いくら光のクリムゾンブレイドと違い国から動ける身とはいえ、なぜカルサア
修練所に? おまえが堂々と訪ねていける状況というのもわからない」
「あー……あー……えー……。その…、実は…」
「ふむ?」
 歯切れの悪いロザリアに、アルゼイは少しだけ不思議顔をする。
「その……。時間の問題かとは思いますけど。彼女…その、……妊娠してまして」
「は?」
 これにはさすがのアルゼイも驚いたようで、珍しく間の抜けた声をあげた。
「あ? まさか……あいつ……」
「手を出してました…。それでまあ…怒り狂ったネルが後先考えずにアルベル殿に殴り込
みに来まして…。つわりがひどいようで、勢いが削がれたらあとは動けない状態でして。
困ったアルベル殿が私を呼びに来たのです」
 ぽかんと口を開け、アルゼイはロザリアを凝視した。相当驚いたようだ。ロザリアがネ
ルの名前を隠さずに言ってももはやそれどころではない。
「なんと……それは………また…………」
 言葉も出ないほど驚いたようで、しばらくはほうけた表情をしていた。やがて静かに口
を閉じ、しばし考えた後。
「しかし、そうなるとどうなるのだ? 結婚するのか?」
「アルベル殿はそのつもりがあるようですけど。ネルの方がちょっと…」
「うーん…。ヤツが結婚するのは構わんが相手が相手だしな…。下手すると困った事にな
るぞ」
「え?」
「ネル・ゼルファー。シーハーツの封魔師団「闇」の部隊長であり、クリムゾンブレイド
の片割れだ。仕事は諜報活動が多いと聞く。そんな彼女を、シーハーツが手放すとは思え
ん」
「…あ……」
「どれだけの情報を彼女が持ってるか知らんがな。国家機密に関わる事もおそらく平気で
持ってるだろう。…おまえも持ってるだろうが、持ってる情報の性質が違いすぎる。そん
な彼女を、アーリグリフに渡すとは思えんのだが…」
「……………」
 ネルを身近に感じているロザリアだが、仕事に関してはくわしい事は知らない。もちろ
ん、そのような情報をあのネルが話題になどするわけがない。だから、そこまで考えが至
らなかったのだが。言われてみて思わずそうだったと思った。
「下手すると、アルベルをよこせと言ってくるかもしれないな」
「え? えええ?」
「婿入りだよ。まぁ、そんな事はさせんし、アルベルも拒否するだろうが」
 お互いに手放せば痛い人物同士の結婚は、めでたいというより困ってしまう。アルゼイ
はそれを考えて眉間にシワを寄せる。
「なによりクリムゾンブレイドだ。能力も高いだろう。人材豊かなシーハーツとはいえ、
なあ……」
「…………」
 今度はロザリアの方が驚く番だった。迂闊というか、自分の考えの浅はかさにいまさら
ながら、またも激しく後悔した。
「……ん? またおまえが気に病んでいるのか?」
 真っ青な顔のロザリアに気づいて、アルゼイは顔をあげた。
「だ、だって……。あのときたきつけたの…」
「手を出したのはアルベルだ。…まあ、妊娠するとは思ってなかっただろうが…。ともか
く、こちらとしてはアルベルは渡せぬ、それだけだ。後は両人の問題だぞ」
「け……けど………」
 急にオロオロしだすロザリア。
「おまえが気に病んでもどうしようもあるまい。…国家間の意向で結婚は無理だったとし
ても、最終的には、やはり二人の問題だ」
「え……ええ……」
 夫の言うとおりなのは頭ではわかっていても、自分のせいで二人を、不幸にしてしまっ
たのではと思い悩んでしまう。そんな妻を見て、アルゼイはため息を吐き出した。
 愛らしくておとなしそうな外見に似合わず行動力のあるロザリアは、割合やってしまっ
てから後悔する事も多いようだ。基本的にお嬢様育ちだし、人が良いのでいらぬ所で気を
病んだりしている。
「そこまで気に病んでも仕方あるまい」
 苦笑しながら、アルゼイはロザリアを見る。エレナとはまた全然違ったタイプだが、真
面目で頭も良く、なにより努力家で素直に自分を慕ってくれる姿は愛らしいと思っている。
エレナの時のように、あれほど一途に心から愛せないとはわかっているが、それでも、可
愛いとは思っている。
「しかし、随分気にするな。どういうたきつけ方をしたのだ?」
「あ…う……」
 さすがのロザリアも、これには引きつった表情を見せた。しかし、相手がアルゼイでは
隠し事もできなくなってしまう。
「……実は……そのう……」
 この日、ロザリア王妃は、初めて夫に厳しく叱られたという。


 ネルの体調も、近ごろはだいぶ安定してきた。つわりはおさまってきたし、腹のふくら
み具合も目立ってきた。だが、安定してきたとはいえ、そもそも妊婦なのである。普通に
言えば遠出などとんでもないし、ましてや激しい運動などはしてはいけないのだ。なもの
で、結局カルサア修練所に有耶無耶のままであったが、住む事になっていた。
 しかし、後で医者の話を聞けば聞く程、よく流産しなかったなと思い馳せる。妊娠して
いると気づくまではいつも通り仕事をしていたし、妊娠が発覚した時は怒りに任せてシラ
ンドからここまで強行軍でやって来た。危うい時期に、胎児に良くない事ばかりしていた。
 ネルもだいぶここの生活に慣れてきて、調子が悪い時は寝ているが、調子の良い時は私
室から出歩くようになっていた。
 まだ結婚もしていないのに、漆黒の兵士や騎士達の扱いはアルベルの妻扱いである。誰
が呼び出したか知らないが、いつのまにか「姐さん」で定着してしまった。
「いやー。姐さんがいると団長が言うこと聞いてくれますんで、助かります」
「だから……その呼び方は…やめろと…」
 整理の悪いアルベルを見かねて手伝ったりしてるうちに、半分くらい、アルベルの秘書
のような仕事もしてしまっていた。
 そろそろ呼び方の訂正に面倒くさくもなってきた。
 アルベルの執務も一段落し、彼が席を外していると、アルベルの秘書めいた仕事をして
いる騎士がにこにこしながら書類を持ち上げた。
「いやでも本当ですよ。アルベル様、面倒くさがりでデスクワーク嫌がりますから。姐さ
んがいるだけで仕事のはかどりも違うみたいで、本当に私としましては助かってます」
「あはは…」
 アルベルは飴でも鞭でも動く男ではない。ただ、ネルに言われると渋々ながらもやるよ
うで、この騎士はそのへんは本当に助かっていたのだ。
「では、私はこのへんで失礼します。あまり無理をなさらないように」
「ありがとう」
 騎士はかしこまると、執務室を出て行く。それを見送ってから、ネルは息を吐き出した。
「ふーっ」
 アルベルの椅子に勝手に腰掛けて、ゆっくりとせもたれに背中を落ち着ける。そして、
そっとにおなかに手をやる。
 日に日に大きくなっていくおなかは、どんどん愛しさを増してくる。どんな子が産まれ
てくるか、待ち遠しい。このごろでは、おなかの中で動いているのを感じている。元気に
してると思うと嬉しくなってくる。
 穏やかな午後で、うららかな日差しが窓から差し込んでくる。今日はやたら良い天気で、
風は冷たいが日差しは暖かい。外に出なければ気持ちの良い午後だ。
「ん?」
 席を外していたアルベルが執務室に戻ってきた。さっきまで部屋にいたあの騎士がいな
い事に少しだけ眉をしかめる。
「もう出てったよ。仕事が終わったから」
「そうか」
 合点がいくと、アルベルは小さく頷いてネルの方に歩み寄ってきた。
「今日は調子が良いみたいだな」
「そうだね。マユと買い物くらい行って来ようかな」
「あんまり無理するな。転ばれたらかなわん」
「はは」
 このまえ、転びかけて、すごく慌てた顔のアルベルに抱きとめられた。無愛想で無口な
アルベルだが、一緒に暮らすうちに彼の性格もわかってきた。
 前の旅で、アルベルの性格はわかっていたつもりだったが、彼はさらに違う顔を見せる
ようになってきた。もっとも、漆黒の面々も「姐さんが来てから団長が変わった」と口を
揃えている事から、実際に彼も変わってきたのだろう。
 アルベルはそっとネルの腹に手をやる。他に人がいるとしない顔だが、ひどく優しい眼
差しになる。ネルも初めて見た時は驚いた。いつもそっけない口を聞くくせに、なんだか
んだとネルを大事にしてくれる。
「あと…3カ月…くらいだったか?」
「3〜4カ月だって云ってたね」
「そうか…」
 ながれる時間がゆるやかで、優しくて。こういう時間は、嫌いではないとネルは思い始
めている。そして、こんな顔をするようになった男も。
「…は……動いてやがる…」
 鼻で笑うように言っているけど、声が喜んでいる。そんなアルベルをゆったりとした気
持ちで見ていたネルだが、不意に修練所の連中の様子を思い出した。
「そういや、なんかみんな慌ただしかったけど、どこかに出るのかい?」
 先程、修練所内を歩いていると、兵士たちが忙しそうに歩き回っていた。まるでどこか
に出掛ける準備をしているようだったが。
「ああ。バール山脈の方に魔物の群れが出たとかでな。風雷が行ってるんだが、増援が欲
しいと要請が来た。急遽やつらを引き連れて山登りだ」
「へえ。山登りかい」
「面倒くせえが仕方ない。一週間くらい、帰ってこねえ」
「……そう…」
 何故か、急に寂しい感情が沸き上がってきた。別にこの男がいなくたってどうなるわけ
ではないではないか。
「ま、せいぜい野垂れ死にしないように気をつけな」
「フン」
 いきなり沸き上がってきた感情を押さえ込もうと、ネルはそっけない口を聞く。アルベ
ルの反応も相変わらずだったが。


 修練所に兵士が残ってないわけではないが、ほとんどがいなくなってしまった。
 こうなるとなんだか寂しいものである。
「なんか、手伝ってもらっちゃって悪いですね」
「いいんだよ。たいした手伝いにもならないだろうけど」
 アルベルもいないし、彼の仕事を手伝う事もない。手持ち無沙汰となったネルは、台所
でマユ達と一緒に食事の準備を手伝っていた。たくさんの兵士達の食事をまかなうだけあ
って、台所自体もかなり広いスペースがあるのだが、今日ばかりはいつもの戦場のような
忙しさはない。
「…あれ? …これ…捨てる…わけでもないみたいだね?」
 大量の野菜のへたを指さして、ネルは戸惑った声をあげる。ネルも料理をするから、そ
れなりに勝手もわかるのだが、自分たちの所では、これは捨ててしまうものなのだ。だが、
ざるに集められているところを見ると、どうやら使用するらしい。
「そうですよ? もったいないじゃないですか」
「う、うん…」
「ギルドだと、新しい料理を作る事が目的ですから。こういう心配しなくっても良いんで
すけどね。ほら、ここは限られた範囲でまかなわないといけないですから」
 ネルの感覚はギルドの時のものと勘違いされたらしく、マユはそう言った。
 いつもの食事の量と違いすぎるので、今日はみんな動きものんびりだ。
「ネルさんって、シーハーツの人ですよね? シーハーツってギルドがあるんですよね。
そこでは、豊富な食材で料理作れるって本当ですか?」
 マユと同じ漆黒の家事を担当する少女が、包丁を握りながら、笑顔で話しかけてくる。
まだ新入りで、顔のそばかすが妙に幼い。彼女たちの仕事内容は、ようはメイドなのだが
ここでは制服がないので、そういう印象がない。とりあえず、みんな三角巾とエプロンを
つけているが、下は私服だ。
「あ? うん。そうだよ。場所は提供してくれるし、まぁ、食材は自前で用意するにして
も、どこに何が売ってるかとかいう情報は教えてくれるね」
 実は未だにギルドに登録されているネルで、もう行ってはいないが、今も元気に職人ギ
ルドは経営されている事だろう。
「良いなー。私も、たくさんの食材で料理してみたいなー」
「この子ったら、マユから職人ギルドの話を聞いて、羨ましがってんですよ」
 彼女たちを統括する、マユの母親が鍋の中身をかきまぜながら言う。今日みたいに仕事
が楽だと、気持ちも穏やかになってくるらしい。いつも忙しそうに怒鳴ってる姿とはギャ
ップが激しい。
「ナマのお魚とかあるよー。目の前でびちびちはねてビックリだよー」
「う…」
 マユがおどかすように、低い声で言うと、このそばかす少女は顔を青ざめさせる。どう
やら魚が苦手なようだ。その様子に周りの人間達が笑い出した。
「オマケに緑の顔した、コワーイシェフが奇声あげながら、包丁振り回してるんだから!」
「お、脅かさないでよ! あ、そ、そうだ。マユの言ってる事ってウソですよね!?」
 マユのおどかしに青い顔をさせて、でも信じたくないらしく、ネルに意見を求めてくる。
「…いや…。本当にいるよ。そういう人」
「ウソー!」
「本当。ドロウグリンって種族は…知らないかな。サーフェリオにいるんだけど。見た目
も行動も怖いけど、腕は確かなのがいる…」
「ええー!?」
「ほら、本当の事でしょー?」
 ネルの言葉に、勝ち誇ったようにマユが腰に両手をあてて少女を見る。
「ううう…。やっぱりギルドの登録は見送った方が良いみたい…」
 半泣きしながら、彼女は包丁にこびりついた野菜を指でぬぐう。
「はははは。怖がりだねーあんたは」
 マユの母親が笑うと、みんなも笑い出した。少女だけはちょっと口をとがらせていたが。
「さて、あとは、それを入れてこっちはおしまい。じゃ、それを使っちまおうか」
 マユの母親はさすがにてきぱきと料理をこなしている。料理の仕方を見ていると、ほと
んどゴミは出さないし、無駄も少ない。
 この台所にくると、この国の野菜をはじめ食材の乏しさや、食材そのものの貧しさにネ
ルはなんだか申し訳なくなってくる。貧しくても、彼らは工夫して頑張って生きているの
が、目の前で感じられる。
 言い掛かりみたいな理由で自国に攻めてきたアーリグリフ。その蛮行にネルは本当に憎
悪した。自分の父親さえも奪ったのである。だが、フェイト達と出会い、色々と旅をする
ようになり、自分の見方もだいぶ変わってきた。
 隠密業をしていたネルだから、アーリグリフの事情も知ってはいたのだが、だからとい
って、あの蛮行を肯定などできない。しかし、彼らの生活の辛さに思い馳せた事などあっ
ただろうか。隣国の豊かさとのギャップを見せつけられ、貧しくても慎ましければ、など
いうのは綺麗事だというのは、ネルにだってわかる。
 未だ、アーリグリフ自体は好きにはなれない。けれど、屈託なく暮らすここの女達とだ
いぶ仲良くなってきて、彼女達の事はそう思わなくなってきた。
「にゃー」
 その時、足元からの声に目をやれば白い猫が一匹、お座りして見上げている。ネズミ捕
りのために飼われている猫で、ネーミングセンスもないままシロと呼ばれている。一人の
兵士が言った、ここは漆黒だから黒い猫を飼うべきだという意見は、ここのみなに黙殺さ
れた。鼠さえとれば、猫の色なんぞどうでも良いのである。
「あらシロ。おなかすいたの?」
「シロってネズミは捕るけど、あんまり食べないわよね。なんか、殺してそのまんまだし。
このまえ、ネズミの頭だけが転がってるから悲鳴あげちゃった」
「ちょっとやめてよ!」
 あまりな話題にネルも苦笑する。結局、そばかす少女がシロのためにエサを用意してや
っていた。その様子をながめていたマユがハッと気が付いたようにネルに向き直った。
「そうだ、ネルさん」
「ん?」
「今日、手紙がきたんです。シーハーツから。なぜか私宛てになっていて、開いてみたら、
さらに手紙が入ってて、ネルさんに渡してほしいって」
「マユ宛ての中に?」
「ええ。ほら、私、ペターニの職人ギルドに登録してますから、シーハーツからの手紙っ
てそう珍しくないんですよ。あ、ちょっと待ってて下さい」
 忘れてはならぬと、マユはエプロンで手をふきながら台所を出て行く。ほどなくして、
一通の手紙を持ってやって来た。
「これです」
 マユが持ってきた手紙は、ネルの見覚えのある筆跡だった。それを受け取って、ネルは
片方の眉を跳ね上げた。

 食事を終え、ネルは執務室にやって来る。そして、執務机の引き出しに入っているペー
パーナイフを取り出すと、封を切る。
 思った通り、クレアからの手紙だった。自分はカルサア修練所にいる事。乗り込んだは
良いが体調が思わしくなくて動けない事。父親が誰かはあえて言わないがクレアにはわか
ってるんじゃないかという事。そして、子供は産むつもりである事などをしたためてロザ
リアに送ってもらってから3カ月くらい過ぎている。
 あちらも忙しいから、すぐに返事は来ないだろうと思っていた。距離もある事だし、国
も違う事だから余計に時間がかかった事だろう。
 クレアからは、ともかく無事で良かった事と、感情的に動いてしまった事への叱咤があ
って、思わず苦笑してしまった。ネルはさらに読み進める。
 それから、ネル。あなたのおなかの子の父親。個人的に言わせてもらうとすごく嫌な予
感というか、思い当たるけど、彼であって欲しくないというのが本音です。とにかく、非
常に驚きました。でも、彼との意思疎通がなかったからこそ、あなたが感情的に激しく憤
ったというのもわかります。
 今はあなたが休職中という事になっているけど、職場復帰を皆は望んでいます。もちろ
ん、あなたが子育てに専念したいというなら、それも悪くないと思います。問題なのは父
親とされる人物が、アーリグリフでも要職にいるという事です。もし、彼と結婚するとな
った場合、シーハーツとしては、ネル、あなたをアーリグリフに行かせるわけにはいきま
せん。あなたがそんな事をするとは思えないけど、アーリグリフにシーハーツの情報が漏
洩した場合、あなたが真っ先に疑われます。本来なら、彼に婿入りしてもらう所だけど、
アーリグリフ側もそれを許さないでしょう。
 まだラッセル執政官には話してはいないけれど、彼は真っ先にそこを心配するはずです。
また、人材の流出も懸念するでしょう。
 ロザリアのように、肩書が華々しい場合は国家間の友好になるのだけれど…。時期的に
も、あれは調度良すぎたしね。あなたもクリムゾンブレイドだから、表向きはそういう事
にできるけれど。アーリグリフがあなたの事をどう扱うかが心配でなりません。おそらく、
シーハーツに戻って来られるのはあなたの赤ちゃんが長旅に耐えられるようになってから
になるから、まだ先の話になるのでしょう。ともかく、あなたがたが結婚する場合、国家
が口をはさむ事になるでしょう。
 あなたがたがどうするのか。それは私にはわかりません。私はあなたが幸せであるなら、
どの選択肢でも、ネルが選べば良いと思う。けれど、ネル達の意志に関係なくに、どちら
かが子供と離れて暮らす可能性が高いという事を、覚悟していて下さい。
 都合ができたら、私もアーリグリフに向かいたいと思います。その時は早馬を使って連
絡します。どうか健やかに過ごして下さい。
 最後にクレア・ラーズバードと彼女のサインが入っていた。
 最初は笑顔で読んでいたネルだが、読み終わった後は張り詰めた表情をしていた。結婚
するかどうかでさえ有耶無耶であるため、そこまで頭がまわらなかったのだ。
 もし結婚したらどうなる、とかいう所までは考えていなかった。アルベルとの結婚は気
が進まない。そこで思考が止まってしまっていた。というより、考えたくなかったのだ。
ただ、考えないように目の前の日々を過ごしていた。
 今は諜報活動から離れているとはいえ、性格的に向いていないというのもともかくとし
て、ネルの隠密としての能力は高い。妊娠中でなかったらシーハーツでもトップの戦闘力
を誇るのだ。
 アルベルはこの事に気づいていたのだろうか。ああ見えて、物事の見方は現実的で冷静
だ。何も考えていないのかと思いきや、考えていたりする。
 しかし、一番話し合いたい時にいないとは。ネルは奥歯をかみしめる。急に気分が悪く
なってきてしまった。
 椅子からふらふらと立ち上がり、ベッドに横たわる。
 結局、ネルの寝床はここのままだ。大きなベッドだから、二人で寝ようが、アルベルの
身長が高かろうが狭くなりはしない。別にアルベルはこちらに手を出してきたりしないの
で、二人の共有寝所みたいな感覚である。
 別にアルベルより先に寝るなんて、いつもの事だし、一人で寝るのだって初めてではな
いのに。この大きなベッドがやたら広く感じた。横を向くと、すこし遠くにいる寝顔がな
くて、どうにも物足りない気持ちが沸いてくる。
 寂しい感情をどうしても認めたくなくて、ネルは眉間にしわを寄せる。
「はぁ…」
 気分が悪かった。

                                                          to be continued...