ふと気が付くと、カーテンの透き間から朝日が差し込んでいた。どうやら、あのまま眠
ってしまったらしかった。
 身重なくせして、怒りに任せてシランドからここまで、ぶっ通しで来たので疲れていた
のだ。だるい気持ちで横を見るとアルベルが寝ていた。
 この前のあの出来事を思いだし、ネルの内心からふつふつと怒りが込み上げてくる。そ
して、ハッとなって自分の様子を見た。
 別に服も脱がされていないし、何かされた跡はなに一つないようだった。
 それに安堵して、細く長いため息を吐き出して、天井を眺める。高い天井で、薄く茶け
た無機質な色をしていた。
 …これからどうしようか…。
 あまり働かない頭で、考えるのはそのことだけだ。これからどうするのか、どうなるの
か。皆目見当がつかない。
 どれくらいそうやって、うだうだしていたか、やがてアルベルの私室の扉がノックされ
た。
「団長! 起きて下さい。お時間です!」
「ん…」
「今日はアーリグリフ城で会議です」
「うん…。わかった…」
 ひどく眠そうなアルベルの声。隣でなにか動く気配。しばらくもぞもぞしていたが、ゆ
っくりと起き上がる。
「ん…。く…はああぁ…」
 大きくあくびをすると、伸びかなにかしているようだった。彼に背を向けて寝ているネ
ルは音やら気配やらで彼の動きをなんとなく把握していた。寝ぼけているのか、ベッドの
上で座り込んだまま、微動だにしていないようだ。
「起きてるか?」
 アルベルの低い声がする。それに反応して、ネルは寝返りをうつと、彼の方を見やる。
「どうする? 俺は今日一日中、ここにはいねえ」
「……帰って来るのは?」
「遅い」
「そう…」
「おまえとしては、話をしにきたんだろ?」
「まあね…」
 実際のところはアルベルを殴りに来たのだが、これからの事を考えると、ここに乗り込
んできたのは、むしろ調度良いかもしれないとは思った。
 ネルが乗り込んで来た後の修練所の騒ぎは大変なものだった。町を歩いていそうな一般
人ふうの美人が怒り狂った様子で修練所内の兵士をどつきまわし、アルベルの所在を尋ね
るのである。これが、クリムゾンブレイドのネル・ゼルファーとすぐにわかれば、対処は
また軍事的であったろうが、乗り込み方が尋常ではなかったのもあり、みんな唖然として
いた。中には、団長が浮気とか二股がけとかをしたので、それで乗り込んできたのだと勘
違いした兵士もいたそうだ。だから、面白がってあっさり団長の執務室を教えてしまった
のだが。
 とりあえず、ネルを私室に入れ、アルベルはその騒ぎをどうにかおさめて。昨夜の夕食
となったのであるが。
「…ま、おまえも体調があんまり良くねえみたいだし。今日はゆっくりしてろ。おまえの
世話に、誰か一人まわしておく」
「うん…」
「じゃ。寝てろ」
 今日の予定(?)が決まると、アルベルはベッドから起き出して、洗面所に歩いて行く。
ネルは再び天井に視線を戻す。
 とりあえず、シランドに手紙で書いておくべきか。父親がアーリグリフの人間だと今は
話さない方が良いのだろうか。でも、自分の安否を気遣ってくれる人々に対して申し訳な
い、等々と一人では決めかねる事ばかりで滅入ってくる。
 ベッドの上でぐずぐずしているうちにアルベルはここを出て行き、仕事に出たようであ
った。いつまでもこうしていられないとベッドから起き上がろうとした時だった。
 扉からノックの音が聞こえた。アルベルはもういないのにと思って多少慌てる。
「あのー、団長さんからあなたのお世話をおおせつかりました。その…開けてよろしいで
しょうか?」
 若い女の声がする。そういえば、自分の世話に誰かまわすと、今朝言っていたなと思い
出した。
「ああ」
 許可の声をあげると「失礼します」と言いながら、黒髪の可愛らしい少女が扉を開ける。
どこかで見た事のある顔だと思ったが、どうにも思い出せない。
「あの、ここで働いているマユと言います。よろしくお願いします」
「ああ…」
 ベッドで力無く横たわるネルを見て、マユと名乗った少女は少し首をかしげた。あちら
もこちらに見覚えがあるようだし、こちらもあちらをどこかで見たような気がした。
「このまんまじゃなんだね。ふう…」
 起き上がり、ネルは軽く髪を梳いて整える。そして、改めてマユを見た。
「あの、朝食をお持ちしますか? あの、体調がよろしくないと言う事でおじやとかが良
いでしょうか?」
 噂には聞いていたが、妊娠してみて、少し食事の嗜好が変わった。以前は平気だったの
だが、最近はしつこい味付けのものが苦手になってきている。
「メニューは問わないけど、なにかあっさりしたものをお願いできるかな」
「はい、わかりました。……あ、あのっ…」
 ちょっともじもじしていたマユが思い切ったように声をかけてきた。
「え?」
「あの、……お名前を、伺っても良いですか?」
「ああ。ネルだよ」
「ネルさん、ですね。わかりました。それで、あの〜…」
「なんだい?」
「えっと…、その、ネルさん、妊婦さんって……本当ですか?」
 もう好奇心いっぱいの眼差しで、マユがネルを凝視する。その視線に思わずたじろいだ
ネルだったが。マユを見て、ネルは逡巡する。隠したところでそのうちバレるのだろうし、
自分の世話をしてくれるのだ。知ってもらっていた方が良いだろう。
「……まあ……ね…」
「じゃ、じゃあ! 本当に団長さんの!?」
「…………………」
 アルベルの私室で、彼と同じベッドで寝ていたのである。ウソをついてまで否定する状
況でもない。
 ネルは深いため息をついた。
「…まあね…」
 自分のひたすら不本意な気持ちは、マユにはわからないのだろうなと思いながら肯定す
る。
「じゃあ、じゃあ、兵士のみんなが言ってた事って本当だったんだ…。…あの団長さんも
とうとう…。はー…。世の中、何が起こるかわからないわね…!」
 何にそんなに感動しているのかわからないが、マユは手を合わせて夢見る瞳で宙を見つ
める。一体、修練所内では、どういう騒ぎになっているのであろうか。
「あ、あの…」
 確かにアルベルの子を身ごもってはいるが、まだ結婚するとか決めていないのだと言お
うとした時。
「じゃ、お母さんと相談して、妊婦さん用の食事を持ってきますね。あ、なにか御用でし
たらそこにある呼び鈴を鳴らして下さい」
 一度頭を下げてから、マユはアルベルの私室に設置されてある呼び鈴を指で指し示した。
 ネルが、マユが職人ギルドに登録しているクリエイターで、何度か一緒にクリエイショ
ンした事があったのをやっと思い出したのは、彼女が去ってからだ。
 昨日、あれだけ大騒ぎしたのだ。アルベルが自分を孕ませた事はすでに伝わっているだ
ろう事は、さっきのマユの言動からでも見てとれる。故郷のシーハーツでは相手は知られ
てないというのに、ここではもうバレバレだ。自分で引き起こした事とはいえ、気が滅入
ってくる。
 しかし、このままではいられないので、ネルは起き上がり、ともかく洗顔をする事にし
た。


「……じゃあ、今回の事はそれで決行だ。各々準備を頼む」
 アルゼイはそう言って、会議を締めくくった。
 会議に出席していた面々は緊張が解けて、やれやれとくつろぎはじめる。
 アルベルが無愛想で無口なのは今日に始まった事ではない。いつもはかったるそうな態
度なのに、今日に限ってはなにか思い耽けるような顔付きであった。
「アルベル殿。よろしいでしょうか?」
「何だ?」
 貴族議員の一人が、物思いにふけるアルベルに話しかけてきた。
「今度のお休みの日、我が邸宅にて茶会を開きたいと思うのですが都合を…」
「断る」
 にべもなくそう言って、アルベルは席を立つ。どうせ、彼の妹との見合いだのなんだの
の話になるのは目に見えているのだ。
 この貴族議員は何度も断っているのにも関わらず誘ってきて、アルベルにとってはうざ
いことこのうえなかった。
 そのままこの男を無視して、アルベルは会議室を後にする。今日、王城で会議があった
のは、もしかすると都合が良かったかもしれぬ。
 アルベルはロザリア王妃の姿を捜した。いつもは彼女の事など興味も無かったのだが、
今日ばかりは別である。
 気は激しく進まないものの、ネルにとってこの国で唯一安心できる相手なのは、彼女以
外にいないのだ。
 王妃の私室の前でアルベルは深いため息をついた。だが、仕方がない。アルベルは、彼
にしては非常に珍しい事だが、ノックをした。
「なんでしょう?」
 ロザリアの少しおっとりした声。皆の評判はしとやかで少しおっとりした、心優しい王
妃という事になっているが。アルベルは彼女が、その見かけほどにおっとりしていないの
を知っている。
「あー…。その、俺だ。アルベルだ」
 しばらく返事が無かったが、ドアを開けたロザリアの顔から、とにかく驚いていた事は
わかった。
「どうしたんですか? 突然」
「ああ…。突然やって来てな…」
「?」
 アルベルの珍しい沈痛そうな面持ちに、なにかあると事情を察したロザリアは私室に招
き入れた。王妃の私室は、元神官だからか、白が好きらしく、それを基調とした調度品や
ら装飾品でまとめられている。どことなくシーハーツ国旗を思わせる色合いの部屋だ。
「お茶をいれますか?」
「いや、いい」
 ソファに座るようにうながしたが、アルベルは座るつもりはないらしかった。
「なんでしょう?」
「ああ…。実はな……」
 そこまで言って、アルベルはため息を吐き出した。なにかかなり困った事になっている
らしいのは伺える。
「ネルがカルサア修練所に来ている」
「え?」
 ロザリアの方も目が点になるほど驚いて、思わずアルベルを凝視した。
「ど、な、何かあったんですか? もしかして、ネルを口説き落としたんですか?」
「あのな…。ともかく、暇ができたら来てやってくれないか?」
「え?」
「あまり動ける状態じゃないんだ」
「…………本当に…何があったんですか?」
「来ればわかる。俺の話はそれだけだ。護衛が必要なら漆黒から何人か回すが…」
「いえ、それはよろしいのですけど…」
「そうか。それじゃ。頼む」
 そして、アルベルはやはりため息を吐き出しながら、ろくな挨拶もせずに王妃の私室を
立ち去った。後には、困惑顔のロザリアが残されるだけだった。


 行動が早いロザリアは、早速翌日にはカルサア修練所に来ていた。突然の王妃の来訪に
修練所は上へ下への大騒ぎになったのだが、王妃はそれにはあまり頓着しなかった。
 それでも一応、話は通っているらしく、すぐに団長の私室へ案内された。アルベルは魔
物の掃討仕事でやはり今日もここには遅くならないと帰ってこない。本来なら、主のいな
い所に訪れる王妃も王妃だし、留守にする主も主なのだが。
「こちらです」
 ネルの世話をしているというマユに案内されて、アルベルの私室の前にやって来る。
 ロザリアはこの部屋に入る前に一つ深呼吸をした。
「ネル? 入るよ?」
 一声かけてから、扉を開けると、ビックリした顔のネルがベッドの上に座り込んでいた。
彼女が普段は着そうにない、白いゆったりとしたワンピースを着ていた。
「ロ…ロザリア!? どうしたの!?」
「どうしたのはこっちのセリフよ。あ、あの方と話があるから、あなたたち、悪いけど席
を外してくれるかしら?」
「かしこまりました」
「は、はい!」
 侍女の方は慣れたものだが、マユの方は王妃を前にしてあがってしまっているようで、
どもりながらも、深々と頭を下げた。
「昨日、アルベル殿が突然私の部屋にやって来てね。あなたがここに来ているから、来て
くれないかって言われて。どうしたのかって尋ねても、来ればわかるとしか言ってくれな
いし。ともかく、心配だったから急いで来たんだけど」
 扉を閉めてから、ロザリアはネルの方へと歩み寄り、彼女の隣に腰掛ける。
「そう…」
 ロザリアから彼女が来た理由を聞いて、ネルは疲れたため息を吐き出した。昨夜のアル
ベルの帰りはかなり遅かった。少し待っていたのだが、あまりに遅いので、先に床に入っ
たのだ。一応、眠ってはいなかったのだが、話し合うような時間でもなかったので、その
まま眠ってしまった。
「どうしたの?」
 心配そうな瞳で、ロザリアはネルを見つめた。その優しい目と声に、泣いてしまいそう
な気がしたけど、どうにか我慢した。最近、どうにも情緒不安定だ。
「………あのさ…」
「うん」
「…子どもができた…」
「へ?」
 ロザリアにとっても寝耳に水だったのだろう。王妃はかなりおかしな声をあげた。


                                                          to be continued...