「っう………く〜……」
 がんがんする頭を押さえながら、ネルはひどく不機嫌そうにまぶたを開ける。
「飲み過ぎた…」
 青い表情で額を押さえ付ける。ため息をつきながら、ぼんやりと薄目で目の前の白いシ
ーツを眺めた。飲み過ぎたせいか、体の方もなんだか疲れている。
 どういうわけなのか、アルベルの夢を見たのだ。内容も何もさっぱり覚えていないが、
以前、シランドの中庭で手合わせした時と、なにか似た感じを受けた。
 彼の紅い瞳がこちらをじっと見つめているもので、それがまたものすごく間近で。その
映像しか記憶にないのだが。
 変な夢を見たなぁなどと思いながら寝返りをうつ。そして、寝返りをうった先で見たも
のに、ネルは心臓が飛び出るかもしれないくらいに驚いた。
 なんで。アルベルが。同じベッドで寝ているのか。
 鼓動がえらい勢いで鳴り出した。冷や汗が流れ落ちてくる。しかも、自分が何か着てい
るという感覚がまったくない。
 この感覚は………。
 おそるおそる布団の中をのぞき込んでみると。
 自分は間違いなく真っ裸だった。そして、下半身の方は暗くてよく見えないものの、ア
ルベルの方も間違いなく裸で。
 もしかして。
 もしかしなくても。

 ネルはそのとき、どんな言葉を口走ったか覚えていない。

「…っんだよ〜……」
 ベッドから蹴り落とされて、アルベルはさすがに目を覚ます。不快指数ぶっちぎりな表
情で起き上がり、ベッドに乗ろうとすると、自分の体を布団で巻き付けたネルと目が合っ
た。
 幸か不幸か、アルベルにあてがわれた部屋は領主屋敷の端の方で、みなが寝泊まりする
場所とはけっこう離れていた。前に、みんなで来た時の名残で、そんな部屋割りとなって
いたのだが。
 ネルの叫び声もアルベルがベッドから蹴落とされた振動も、みんなに伝わる事もなく、
静かなものであった。
「な……、なんでっ…、なんで、あんたがここにいるんだいっ!?」
「あー…? 俺の部屋だからだろうが」
 頭をわしゃわしゃかいて、大きなあくびをする。
「俺の部屋って……」
 ネルは慌てたように周囲を見回した。間違いなくアルベルに割りあてた部屋であり、間
違ってもネルの部屋ではなかった。
「じゃ、じゃあ、なんで…私が裸で、あんたもその…それで…同じ…ベッドで…」
 激しくうろたえまくるネルをしばらく見ていたアルベルが、喉の奥をふるわせて低く笑
いだした。
「くっくっくっ…。てめえの考えてる通りだよ。そのへんを見てみろ。てめえの血が付い
てる」
「!」
 慌てて布団をめくって見ると、ベッドのやや中央に血の跡が染み付いていた。もちろん、
ネルは生理中というわけではなかったし、それが始まる時期でもなかった。そして、改め
て意識してみれば、下半身に残る確かな違和感。
 愕然とするネルの表情がおかしくてアルベルはまだ笑っていたのだが。
 げしっ!
「んぐっ!」
 ネルに再度蹴られて、アルベルがよろめいた。
「なにがおかしいんだい!?」
「そんな事で蹴るな。さみい。なんかよこせ」
「っ!」
 アルベルが裸である事に今更気が付いて、ネルは布団の下にある毛布を引っ張って突き
出して見せる。
 その毛布を肩からかぶると、アルベルはベッドの上に乗ってくる。彼の体重でベッドが
きしむ。思わず後ずさるネル。
「い……いったい、なんだって…こんな事…」
「あ? 覚えてねえのか?」
「なにが」
「俺が襲うぞとか言ったら、やれるもんならやってみろとか言われたからな。実行したま
でだ」
 ネルが口をあんぐりと開ける。言われてみれば、そんな事を言ったかもしれない。記憶
が曖昧だが、微妙に思い出す。
「じ…実行したまでって…実行なんかするな!」
「あ? ああまで言われて黙ってられるかよ」
「なっ…んなっ………そんな……」
 愕然としたまま、ネルががっくりとうなだれる。そこまでショックを受けられると、ア
ルベルの方も悲しかったりするのだが、表情には出さなかった。
 男性経験の無かったネルには、これはやはりショックな事だ。なかなかすぐには立ち直
れそうにない。
 しかも、彼女にとってアルベルはそういう対象ではなかったのだ。確かに、出会った当
初のような憎悪や嫌悪は、今はしていないが、かといって、そういう関係を結んで良いわ
けではなく。
 自分の気のゆるみが引き起こした事とはいえ、アルベルを恨みたくもなってくる。
 少し居心地悪そうに、アルベルはベッドの上にあぐらをかいたまま、前髪をかきあげる。
どう言葉をかけても怒らせるだけなのは目に見えていたのだが、自分のした事とはいえ、
罪悪感は確かにあったから。
「あー…。ま、犬に咬まれたとでも思っとけよ」
 思わず適当すぎる言葉をかけてしまった。
 背後に炎でも燃やしてそうなほど怒り狂ったネルに、激しく睨みつけられて。
「あんたが言うな!!」
 手加減もなにもあったものではない、渾身のパンチを顔にくらう事となった。


 それっきりネルはアルベルと口も聞かなかった。
 なにかあったのだろうとは思うのだが、何があったか聞けないロザリアは、何度もちら
ちらと二人の顔色をうかがっていた。
 なんだか気まずい朝食を済ませ、ロザリア王妃一行はアーリグリフに帰って行く。
 ネルはアルベルの方を見向きもしないで、ロザリアや侍女や御者をねぎらい、一応見送
ってくれた。
 完璧にアルベルの事は無視していた。
「その…あの…ごめんなさい!」
「なにがだ」
 アリアスを出発してから終始無言だったロザリアが、アルベルに向かって頭を下げた。
何があったかなどわかりやしない侍女は驚いていたが、口もはさめずにいた。
 本来王妃が臣下の者に頭を下げるなど、普通あるはずないのだが。
「えと、その………私のせい…ですよね?」
「何故そう思う?」
「………顔に…拳の跡が……残ってますけど……」
「…………………」
 あまり気持ちの良い朝ではなかったから、よくよく鏡も見ていなかったようだ。ロザリ
アはため息をついて、呪文を唱えはじめる。
 手のひらをアルベルに向け、治癒施術をほどこすと、顔につけられたアザが消えていく。
同時にひりひりした痛みもひいていく。
 落ち込んだ様子のロザリアを横目で見て、アルベルはほお杖をついたまま窓の景色をな
がめている。
「おまえもわかってんだろ? おまえがどうしようが、結局は俺の問題だ」
「……………申し訳ありません。調子に乗り過ぎました」
「うるせえ」
「……………」
 そっけない調子でそう言って、あとはロザリアにとりあおうともしなかった。ぶっきら
ぼうで無愛想なその優しさが、余計に悲しい気持ちにさせてくるが。彼の気持ちも受け取
って、ロザリアももう何も言わなかった。


「どうした?」
 手にした編み物もそのままに、ため息を繰り返すロザリアを見て、アルゼイは本から目
をあげて彼女を見た。
 執務も終わり、国王夫妻は私室でくつろいでいたのだ。読書家のアルゼイが本を読んで
いるのはいつものことで、ロザリアは彼の側にいられるだけでも幸せで、静かに趣味の編
み物だの刺しゅうだのよくしている。
「ちょっと…。かなり…人に対して申し訳ない事をしてしまいまして…」
「ん?」
 いつも幸せそうにほほ笑んでいた彼女が憂えるのは、嫁入りしてきて初めての事なので、
アルゼイの方も気になった。
「俺に話せる事か?」
 ロザリアはそう言われて、だいぶ長い間、夫を見つめていたが、やがてため息を吐き出
した。絶対的に夫を信頼しているから、静かに口を開いた。
「その……内密にお願いしますね。シランドへ行った折、あなたがアルベル殿を護衛につ
けて下さいましたよね」
「ああ」
「最初は無口で怖い方だと思っていましたけど、案外そういう方ではないというのはわか
りまして。それはそれで、良かったのですけど」
「ふむ」
 アルゼイはとにかく、話の続きをうながした。
「それでですね…。本当は、こういう事は口外すべき事ではないのですけれど。そのう、
本当に失礼な事なんですけど。あの方、その、懸想している方がいらっしゃって」
「ほほう?」
 思わずアルゼイは手にしていた本を閉じて、興味深そうな声をあげてしまった。
「その相手の人が、私の友人なものですから、その…、もし結婚でもして、彼女がアーリ
グリフに来たら嬉しいなとか、思っちゃいまして。ええと、力いっぱいアルベル殿をたき
つけてしまいまして」
「そんな事をしたのか」
「申し訳ありません。浮かれすぎていました。そしたら、あー…あの、その……」
「フラれたのか」
 すぐに察してアルゼイがそう言うと、ロザリアは暗い表情でうなずいた。
「はっきりとは聞きませんでしたけど…あの様子は………」
「はー…。あいつがねぇ…」
 アルゼイはむしろ喜ぶような表情を見せて、口元に手をやった。
「あの方には、申し訳ない事をしてしまいました。……はー……」
 ロザリアのため息は止みそうもない。
「そうは言ってもロザリア。結局は二人の問題なのだろう? どうあれ、おまえがそこま
で気に病むものなのか?」
「原因を作ってしまったのは間違いなく私です。あなたの方がよほどご存じかと思います
けど、あのアルベル殿が女性に言い寄るタイプに見えますか?」
「いや、全く」
 アルゼイはあっさりきっぱり言い切った。確かにアルベルに意中の女性ができたとして
も、言い寄ったりするタイプではないのだ。彼にそこまでさせた原因として、ロザリアは
そこを気にしているようだ。
「ふむ…。言われてみれば、どことなくあいつに覇気が無かったような気がしたが、なる
ほど、なるほど…」
 むしろアルゼイは嬉しそうな顔をして、笑いをかみ殺しているようだった。
「しかし、これはまずいな。あいつの顔を見たら笑ってしまいそうだぞ」
「あなた…」
「いや、わかってはいるのだがな。あのアルベルに惚れた女がいたとはな。一度会ってみ
たいものだが」
 もう会ってますとまでは言えなくて、ロザリアは黙り込む。もしかすると、頭の良いア
ルゼイの事だから、ネルの事だとばれてしまうのは時間の問題かとも思ったが。
「しかしな、ロザリア。さっきも言ったが、結局は二人の問題だ。たとえ、アルベルがも
う二度と女に懸想する事がなくてもだな。その想いを抱えたまま年老いていくより、一度
砕けてみるのも悪い経験ではないと思うがな。人生、何が起こるかわからないしな。おま
えからの求婚も、正直寝耳に水だったし」
「あなた…」
 ロザリアは思わず頬を赤らめる。
「アルベルにそういう女がいたというだけでも、ヤツにとっては良い経験なんじゃない
か? まったくそういうものに興味もないと思っていたが…。そうか…。ああ、それで見
合いも何もかも蹴りまくっていたんだな」
「あの方、外見通りの方じゃないですね。そんなに悪い人でもないのに、どうしてああい
う態度を崩さないのかしら…?」
「…昔、色々あってな。…まあ、何にせよ…。可愛いところあるじゃないか」
 苦笑しながら、アルゼイはほお杖をつく。また側近に甘やかすなとか苦情を言われたり
するのかなとか思いながら、物思いにふける。
「笑い事じゃありませんよ。ふー……」
 ロザリアのため息はしばらく止みそうになかった。


 ロザリアが気まずい思いを引きずったままなのに対し、アルベルはいつもと変わらない
ように見えた。
 ああは言っていたものの、アルゼイの様子も普段と何一つ変わらないもので、一人、気
まずい思いをしているのは自分だけだったのかと、ぼんやりと思い始めた頃。
 ロザリアのシランド旅行から3カ月も過ぎた頃だろうか。
 アルベルは相変わらず忙しい毎日を送っていた。こうも忙しいと何も考えないで済むの
は逆に有り難かった。
 王妃の申し訳無さそうな瞳は、あのときの事をいちいち思い出させるので、正直うんざ
りしていたのだが。
 かといって責める気にもなれないので、ともかくほったらかしにしていた。
 いつものように、カルサア修練所の執務室で、書類の束に目を通していた時だった。
 元あった遺跡を改築してできたのがカルサア修練所だ。アルベルの執務室も、昔の城主
が使っていたと思われる部屋で、広めである。執務に使用する本を納めた書架と、大きな
執務机。壁に飾られたアーリグリフ国旗やら、武具やらが軍事施設らしい。
 そこで、アルベルは秘書のような仕事をしている騎士と、デスクワークを片付けていた。
 最初はわからなかったのだが、何かが近づいてくるらしく、だんだんと表の騒ぎが近づ
いてきた。壁は厚いので、ちょっとやそっとの騒ぎでは聞こえないのだが。
 男の低い悲鳴がわずかに聞こえ、それに伴って伝わってくる壁や床を伝わる振動で、机
の上の水差しの中の水が、微かに波紋を作る。不定ながらもそれは続き、そして、その波
紋のゆれが大きくなってくる。
「なんだ?」
「何でしょう?」
 近くにいた騎士に聞いてみるが、もちろん彼も知っているわけがない。首をかしげなが
ら書類に目を戻すと、今度は衝撃が随分近くでした。誰かの悲鳴でさえもはっきり聞こえ
る程だ。
「何ですかね? ちょっと見てきます」
 騎士は不審に思って、執務室の扉を開け、顔だけを出そうとした途端。
 バンッ!
「ぶおわっ!?」
 突然、騎士が勢いよく開いた扉に吹っ飛ばされて、しりもちをついた。何事かと思い、
アルベルはすぐそばの刀に手をやり、椅子から立ち上がった。そして、やって来た人物を
見て絶句した。
 短くした赤毛に、整った顔立ち。いつもの隠密服ではなく、普通のブラウスにスカート
という一般女性と変わらぬ格好をしていた。蹴り上げた足から、スカートの中の下着が丸
見えでも気にならぬほどの怒りようで、少し冷たい感じのする美しさが彼女の特徴だった
はずなのだが、今日ばかりはその特徴は微塵も無かった。
 扉ごと騎士を蹴っ飛ばし、鬼かなにかのような凄まじい形相をしたネルが、怒り狂った
様子で、ゆっくりと足を下げた。


                                                          to be continued...