イリスの野のように盗賊団に襲われる事もなく、馬車は国境付近のアリアスにまでやっ
てくる。
 戦争の被害を一番に受けたこの街も、頑張って復興していた。
 戦争中は前線の基地として使われたこの領主屋敷も、幼い少年と後見人とが、どうにか
こうにか維持していた。
 ネルはここで仕事があり、そしてお別れである。
 食事も終わり、ネルとロザリアは話し込んでいたようだが、体力のあるネルと違い、続
く馬車の旅に疲れていて、ロザリアは早々に眠ってしまった。
 ロザリアの寝顔を眺めて、ネルは優しい顔を浮かべる。そして、物音をたてないように
そっとこの部屋を後にする。
 眠る前に、ネルはとりあえず屋敷内の見回りをするべく、部屋部屋を軽く点検していく。
 頼まれたわけではなかったが、この広い領主屋敷に対し、住む人員があまりに少ないた
め、多少物騒な気がしていたのだ。
 点検のために廊下を歩いていると、アルベルにあてがった部屋の扉が薄く開いており、
わずかに光が漏れていた。不意にのぞきこんでみると、彼が一人で晩酌をしていた。
 別にアルベルが一人で酒を飲む事は珍しい事でもないようなのだが、その酒がペターニ
でロザリアが買っていたものだとわかって、好奇心もあってネルは部屋に入ってみた。
「晩酌かい?」
「あ?」
 風土の関係で、アーリグリフは習慣的に酒を飲む者が多い。アルベルもその一人で、ア
ルコール度の強い酒をわりと平気で飲む。ワインはそれほど飲まないが、これはこれで美
味い。
「まあな」
 なんという事はない客間。ベッドやテーブルセットなどのわりと品の良い調度品が置か
れた、アルベルも寝泊まりした事のある部屋だ。
 部屋の真ん中にあるソファに腰掛け、アルベルは酒をゆっくり味わっていた。
 酒は、偽物ではなく本物で、確かに美味かった。
「それって、ロザリアが買ってたヤツじゃないか? なんであんたが飲んでるんだい?」
「もらった」
「なんでまた?」
「今回の護衛の礼だとよ」
「仕事なのに?」
「ああ」
「どうして?」
「俺が知るか」
 それもその通りだと思った。ネルは腰に手をあてて、小さくため息をつく。アルベルと
違ってロザリアは礼節を重んじる娘だ。彼女なりに感謝の印かもしれないと思った。時々
突拍子もない行動をする事も知っていたし。
「てめえも飲むか? 銘酒だと聞いていたが、確かに美味い」
 誘われて、ネルはアルベルにしてみれば気まぐれかもしれないと思った。それとも、か
なりの美酒ぶりに彼の機嫌も良いのか。きっとその両方だと思った。
 ネルも気まぐれを起こす事にした。
「じゃ、少しもらおうかな」
 扉を閉めると、ネルはアルベルの向かい側に設置されているソファに腰掛けようと近づ
いて、グラスがない事に気づく。
「グラスは?」
「ん」
 アルベルが顎で差し示す先に、棚に並べられた食器がある。捜してみたが、ワイングラ
スは無いようなので、普通のグラスを取り出し、ネルはソファに腰掛けた。
 テーブルの上にグラスを置くと、アルベルは惜し気もなくなみなみと注いでくれる。
「ちょ、ちょっと多いんじゃないかい?」
「所詮は貰い物だ。飲める時に飲んでおけよ」
 まあ、アルベルならそういう理屈になるのだろう。ネルはグラスを口につけた。
「美味しいね。まろやかでジャムみたいだ」
「ああ」
 ロザリアの方は試飲していたが、ネルは護衛という仕事もあるので口にしなかったが、
これは確かに美味しかった。
「けど…。どうしてロザリアはあんなにアーリグリフ王に惚れてるんだろう…」
 しばらく二人は無言で酒を楽しんでいたが、不意にネルが口を開いた。
「知るかよ」
「ま、そうだけどさ。不思議でしょうがない」
「それはな」
 珍しくネルに同調するアルベル。ペターニで見せたあの強い意志を秘めた瞳を思い出す。
あれは尋常なものではなかった。
「……でも、エレナ女史にフラれなかったら、あの男、ロザリアからの申し出も受け入れ
なかったのかな」
「そうじゃねえか? くそ真面目すぎるんだよ。結局、なんだかんだと甘いんだ」
「あの男が?」
 切れ者で、野心旺盛で、腹も座った男だ。いざという時には冷酷にもなれると思ってい
たが。
「ああ。ジジイの方がよっぽど冷淡だ。よく戦争に踏み切ったもんだと当時は思ったがな」
「…結局は、戦争をけしかけたじゃないか」
「だから甘いんだよ。あの戦争好きにけしかけられて、不作の追い打ちをくらって。民の
ためだと押し切られてよ。民を笠に着られると弱いくせに、結局はその民衆とかいうクソ
ワガママなもんに振り回される。ヤツら、あの男が苦労して役立たずどもと戦って考えぬ
いた施政も、甘い空気みたいなもんにしか思わねえ。その甘さに満足もしねえでもっとも
っととせびりやがる」
「…………………」
 ネルは思わず無言になって、酒を一口飲む。
「まあ、本人がそれで良いって言うんだから、俺が口出すもんでもねえけどよ」
 ぐびっと飲み干してから、空になったグラスをしばらく見つめる。
「人づてに聞いたけど。アーリグリフ王がきっぱりふられる原因を作ったのは、フェイト
なんだってね」
「そうなのか?」
 自分のグラスに酒を注ぎながら、アルベルは宙を睨みつけるネルを見る。
「あんたが加わった時、シランドとアーリグリフを往復した事があっただろ? あの時に
あの男の私用の書簡をフェイトが運んでてさ。内容なんて知ったこっちゃないと思ってた
けど。それがきっかけで有耶無耶した関係が清算されたんだってさ」
「そうか」
 あまり興味もなさそうに、アルベルが相槌をうつ。他人の色恋沙汰など、正直言ってほ
とんど興味がない。
「ロザリアがあんたんとこの国に嫁に行ってしまったのも、それが原因だと思うとね。な
んとなくやるせないよ」
 あまり飲める口ではないはずなのに、急にネルの飲む量が増えてきた。
「どうあれ、あの女が望んだ事じゃねえか。城に行くと、いつだってやたら笑顔で過ごし
てやがるぞ」
「私もノロケられた。本当に趣味がよくわからない。注いで」
「………………」
 飲み干されたグラスを突き出されて、アルベルは無言で酒を注いでやる。最初はなみな
みと注いでやったのだが、量はグラスの半分より多いくらいに減っていた。
「考えてみれば。フェイトってなんであんなに寄り道ばかり好きなんだろう」
「知るかよ」
 それには同意するものの、だからといってそんなの知った事ではない。アルベルは呆れ
た声を出す。
「あいつの寄り道のせいで、ロザリアがあんたんとこに行っちゃったんじゃないの!?」
「論法が飛びまくってるぞ」
 アルベルの突っ込みにもとりあわず、ネルはあおるように酒を飲み出した。
「突然、あそこへ行きたいとか、どこどこへ行き忘れたとか。いなくなったと思ったら可
愛い女の子連れて来てるし!」
「……………」
 ネルの目が座りはじめてきた。顔も真っ赤だ。脳にまで酔いが行っているのではないだ
ろうか。
 ロザリアの護衛も、ネルは今日で終わりである。それの安心感もあって、気が抜けたの
か、疲れが出たのか。疲れは酔いを早く回させる。
「酒!」
「いや……。飲むのか…?」
 どんっ!
 ネルは無言でグラスの底を机に叩きつけた。アルベルは渋々グラスに酒を注ぐ。こんな
に美味い酒をがばがば飲まれてはもったいないというか、なんというか。
「確かに…私はソフィアみたいに可愛くもないし、マリアみたいにキレ者じゃないし。な
により住む世界でさえ違ってるけど!」
「……………」
 どうしたもんかなと、アルベルは酔ってくだをまきはじめるネルを眺めた。ネルが無自
覚ながらもフェイトに惚れているのは、彼にとっても既知ではあったが。
 とはいえ、面白くはないのは確かで、なにかぶつぶつつぶやいてるネルを、半開きな眼
で眺める。
「お酒…」
「やめとけ」
「お酒!」
「…………………」
 アルベルは深いため息をついた。ネルがフェイトを想って管をまく所など、見ていて気
持ちの良い光景ではないし、良い酒を自分よりも早いペースでがばがば飲まれるのも面白
くなかった。せっかくの美味い酒も、不味く感じはじめてきている。
 しかし、アルベルは酒を注いでやった。断ったら暴れだしそうで、面倒な事になりそう
だったからだ。
「年上だし、男と付き合った事もないし、ぶっきような仕事人間だけどさぁ!」
 よくわかってんじゃねえかとか、思いながら、アルベルはちびちびと酒を飲む。
「ううう…クレアぁ…。なんでこんな事になっちまったんだろうね…」
 今度は親友の名前を呼んで、やっぱりなにかぶつぶつ言っている。
「はあああ…。なんで…」
 ネルは言葉を切る。だいぶ長く切っていたので戯言と思っていたが。まぁ酔っ払いの言
うことなどまずほとんどが戯言なのだが。
「なんで、人の顔見るなり結婚しろだの見合いしろだの行き遅れだの言われなきゃなんな
いんだいっ!?」
 一瞬、アルベルは自分の事を言われているのかと思ったが。どうやらネルも似たような
境遇らしい。
「もっと」
 もはやアルベルは逆らわずに酒を注いでやる。アルベルの方も酔ってきたのか。酔いつ
ぶして襲うという、古典的な方法も悪くないかと思いはじめてきた。
「えーえー、クリムゾンブレイドは二人そろって行き遅れだよ。それがどうしたって言う
んだい! ずっと真面目に仕事してきただけじゃないか!」
 もう吐き出させとけとか思って、アルベルは無言で相変わらずゆっくり酒を飲む。
「うっく…。……はあああああぁぁぁぁぁー……」
 酒を飲み干し、盛大にため息をつきながら、机に突っ伏した。
「……あんたさ…」
「なんだ」
 ほとんど思考が働いてなかろうと思いながらも、とりあえず返事をしてやる。
「ペターニで、ロザリアと何話してたのさ」
 心臓が跳ね上がるかと思ったが、アルベルの顔は彼が思っているより変わってなかった。
まぁ、相手が今の状態のネルでは小さな変化も、気づかれないだろうが。
「たいした話じゃねえ」
「本当にー? 随分長い間、帰ってこなかったけどー?」
「あのな。大体、あの女にゃ惚れた相手がいるだろうが。てめえが勘ぐるような関係にな
ってたら、すぐにバレるだろ」
「……まあ…それはそうなんだけど……。あの娘はね、王族の育ちだから、ちょっと世間
知らずな所があるんだよ…。……ったく、夜の夜中に、あんたみたいな男の部屋に一人で
行くなんてもー…。あんたの部屋に行ってたって知った時はもー…」
 そういえば、あの後、ロザリアの部屋からネルの怒鳴り声が聞こえてきたような気がし
た。高級ホテルだし、壁の厚さと空間の広さが防音効果になったらしく、よくは聞こえな
かったのだが。実はあの時にこの酒を差し入れに来たのだと知ったら、ネルはもっと怒っ
たに違いない。
「ちょーだい…」
 今まで聞いた事のないような甘い声を出して、ネルはグラスを机の上に置く。アルベル
は無言で酒を注いでやる。その様子をぼんやりと見つめ、注ぎ終わると、また一気に飲み
干した。
「はあ……。熱い……」
 酒で身体が熱くなってきたのだろう。ネルはマフラーを外し、胸元を掴むとばさばさと
仰ぎ始めた。脇のあたりの白い肌がちらちらとのぞく。
 そんなものを見せられて、アルベルの方もためらいが失せてきた。
 ネルが晩酌に付き合いだしてから、それはずっと心の隅にあって、思ってはいても実際
に行動にまで移すにはかなりのためらいがあって。
「おまえな…。襲うぞ」
「は?」
 アルベルの低い声に、ネルは酔っ払ってとろんとした目を向ける。いつもの彼女からは
考えられないような体たらくである。
「なにが?」
「てめえが酔い潰れるようなら、俺はおまえを襲うぞ」
 言われても、ネルはどうにもピンとこない顔をしていたが。
「やれるもんならやってみな」
「ほう……」
 アルベルの目付きが危険な色に変わった事など、今のネルにわかるわけもなく。
「文句は言わねえな」
「言うものか」
 売り言葉に買い言葉のいつもの調子で言って、ネルはグラスの底に残るわずかな酒を飲
もうとしていたが、あきらめた。机の上に倒れ込むように、グラスを置く。
「フン」
 アルベルは左手のガントレットを外し始めた。どうも自分が思っているよりも酔ってい
るようで、いつものように手早くは外せなかったが、それでもわりとあっさりと外した。
 椅子から立ち上がると、ぐったりした様子のネルを軽々と抱き上げる。
「ん…ふぅ…」
 抱き上げられて、ネルが少し体を動かして、甘い声を吐き出す。酔っているせいなのか、
ちょっとした仕草にも色がある。
「…………………」
 アルベルは無言でネルをベッドの上に横たわらせる。
 最初に靴を脱がし、がっちりとした胴締めを外し、衣服を一枚、一枚はがしていく。ネ
ルはまったく抵抗しない。
 酒で酔いつぶして襲うなど、今までのアルベルにとってはプライドが邪魔する所であっ
たが。
 手段は選ばずに、結果良ければすべて善しとか宣ったロザリアの影響を受けたのだろう
か。
 ネルと晩酌をしている時点ではずっと迷っていた。晩酌に誘ったのだって、気まぐれと
言えば気まぐれだったのだ。
 こうなる事を期待していなかったと言えばウソになるけれど。
 現実的な所にまでなるとは思っていなかった。なにより、ネルがここまでスキを見せる
とは思わなかった。
 しかし、ネルの衣服をはいで行く度に理性の箍が外れていく。止めようにも止まらなく
なってくる。
 ここまで来たら止まるわけなどない。
「はあ…」
 ネルのため息が異様に艶っぽい。身をよじらせる姿がなまめかしくて。白い肌に浮かび
上がる刻まれた施紋が美しかった。アルベルは自分の衣服もはぎとった。

 唇を重ね合わせると、先程の酒の味しかしない。
 酒臭い息が気にならないという事は、自分も結構酔っているのだろう。あれぐらいの酒
で酔うとは、思っているより疲れていたようだ。
 ネルの中はキツかった。横目で確かめると、シーツに血が滲んでいる。処女を、もしか
すると唇でさえも奪った男は自分が初めてかもしれない。
 そう思うと、意地の悪い笑みが浮かんでくる。
 熱くて柔らかい肉体を抱き締めて、アルベルはさらに深みへとはまっていく。
「ふっあっ…」
 痛みからか眉をしかめ、ネルがうっすらと目を開ける。目を覚ましたのだろうか。吸い
込まれそうな紫色の瞳を見つめると、彼女もぼんやりとしながらも見つめ返してくる。
 だが、覚醒にまでは至らなかったようで、ネルの瞳はまたゆっくりと閉じられていく。
 いま、自分のしている事が、彼女を文字通り身も心も傷つける事であり、また自身のプ
ライドから反する行為である事などもわかりきっている。
 罪悪感も、背徳感もあるけれど、沸き上がる欲望は押さえられない。我慢しようと思え
ばできたのかもしれないが、未だにフェイトを想う彼女の荒れた姿など見てしまっては、
その気も起きない。これが、苛立ちや、悔しさやによる当てつけである事も自覚している。
 恋い焦がれて苦しむ自分など、自分が一番認めたくなかったのに。それさえも今は肯定
してしまっている。
 酒のせいだ。
 全部酒のせいにしてしまおう。
 やはり思っているより酔った頭は、そんな事を考えながら、女の肉体を貪った。
 しかし、女を抱いていてこんなにも色々な感情が沸き上がってきたのは初めてだ。ひど
く空しくて、切なくて、恋しくて、悔しくて、憎くて、そして、ひたすらに愛しい。
 女など、肉欲を処理するくらいの存在にすぎなかったのに。
 この女は、この想いは、自分を狂わせる。
 それなのに、この狂気は悪くない。今更ながら、世の男どもが女に狂う理由がわかるよ
うな気がした。


                                                          to be continued...