「じゃあ、クレア・ラーズバード氏が来たら、客間にお通しすれば良いんですね」
「ああ。頼むよ。くれぐれも粗相のないようにね」
「わかりました」
 修練所トップの妻扱いともなれば、たとえネルがシーハーツの人間で、クリムゾンブレ
イドであっても従わないわけにはいかない。門番にネルはクレアの事を話し、自分は客間
の様子を見に行く。広い面積に対し、なんだか寂しげにソファとテーブルがある部屋だ。
ほとんど使わないので、掃除はしているがあまりにそっけない部屋なので、慌ててテーブ
ルクロスをかけたり、机を持ち込んで、その上に花を生けたりした。
「こんだけ片付いてれば良いか」
「姐さん!」
「え?」
 もはやその呼び方の訂正もしなくなり、気にもならなくなってきた。呼ばれて振り返る
と、客間の入り口で、兵士の一人が慌ててネルを呼びに来ていた。
「お、王妃様がいらっしゃってます!」
「ロザリアが?」
 今日来るとは聞いていなかった。ネルも驚いて、なるべく急いで彼女を出迎えに行く。
が、その途中でばったりとロザリアに会った。
「ロザリア!」
「ネル! 走っちゃだめよ! 妊娠中なんだから!」
「あんたさぁ、もうちょっと自分の身分ってやつを…」
「今はあなたの体の方が大事よ。さ、行きましょう」
 ネルの背中に優しく手をまわして、ロザリアは歩きだす。仕方なくネルもそれに習う。
侍女は慣れたもので、おとなしく二人について歩く。あとは、そこに一人、おろおろした
漆黒の兵士が残されるのみであった。
「でもどうして?」
「私もクレアから手紙をもらったの。今日来るって言うから、手間は省いた方が良いと思
って。私も早く彼女に会いたかったし」
 王妃らしくなくロザリアは無邪気にほほ笑む。幼い頃からの親友相手ではどうしても素
の性格に戻ってしまうようだ。
「アルベル殿は?」
「執務室だよ。仕事がたまってるんだよ」
「どこも大変ね。こっちも、いつも忙しそうだわ」
 国王の仕事が忙しいのは当然だし、それに不満はないのだが、少しつまらないので、ロ
ザリアは小さくため息をつく。時たまやってくる王妃は、漆黒の兵士たちにとっては心臓
に悪い存在だ。軍事基地以外の何物でもない修練所に、王妃が私用で突然やってくるのだ
からたまらない。
 二人で歩いていると、背後から慌てた声に呼び止められた。振り返ると、急いで走って
きたらしい兵士が、息をぜいはあ吐き出しながら内容を告げる。
「姐さ…いや、あの、えと、ネル様。その、クレア・ラーズバードさんがいらっしゃいま
した」
「え? もう?」
「ええ。今、客間に案内させております。そのうち来るんじゃないかと…」
「じゃ、私たちもそこに向かいましょう。どこなの?」
「ああ。こっちだよ」
 そして、二人は仲良く歩きだす。それを茫然と見送って、兵士は長いため息を吐き出し
た。はるか遠い存在であるはずの王妃がこんな所にいると、調子が狂ってしまう。
「へえ、カルサア修練所の客間ってこうなってたのね」
 客間に入り、ロザリアは部屋をぐるりと見回す。すでに暖炉には火がつけられており、
内部は暖められていた。どっしりとした雰囲気のソファとテーブルが中央に置かれ、少し
不似合いな気もするテーブルクロスがかけられていた。
「ほとんど使ってなくて、なんか殺風景だったから、慌てて花とか用意してもらってね」
「この時期に、アーリグリフで花って大変だったんじゃない?」
「捜せばあるみたい。ここの娘に頼んで、急遽そのへんから取ってきてもらったよ」
 確かに、シーハーツにあるような色とりどりで大きな花ではなく、細い枝に白い小さな
花がぽつぽつとついたものだった。いかにも雪国らしい花である。
「ふーん…。でも、アーリグリフらしいかもね」
「そうかもね」
 その時、ノックの音が鳴り響いた。
「失礼します。クレアさんをお連れしました」
「あ、通してくれないかい?」
「はい」
 緊張した声がして、扉が開かれると、随分となつかしく感じる顔があった。
 長い銀髪に、聡明な瞳。シーハーツのクリムゾンブレイドの一人である、クレア・ラー
ズバードだ。思わずネルの顔に、ロザリアに顔にも笑みが浮かぶ。
「それでは。失礼いたします」
 しゃちほこばった礼をして、兵士はクレアが持ち込んだ大きなカバンを二つ、丁寧に床
の上に置くと、扉を閉めて立ち去る。クレアは会釈で彼をねぎらって、彼の足音が遠のく
のを確認すると、ネル達に小走りに駆け寄った。
「ネル! ロザリア!」
 クレアは駆け寄るなり、二人をいっぺんに抱き締めた。思わずネルでさえも涙が込み上
げそうになって、どうにか我慢した。
 そして、少し体を離し、クレアはネルをぎゅっとばかりに抱き締めた。
「もう! 心配したのよ! 突然いなくなっちゃって! 手紙が来た時は死ぬ程驚いたん
だから!」
「ごめんよ、クレア」
 手紙では随分冷静に感じたが、だいぶ文面を練り直しての上だったようだ。死ぬほど驚
くクレアというのは珍しいなと思いながら、ネルはクレアを抱き締め返す。
 しばらく、二人は抱き合ったままだった。ようやっと落ち着いたか、クレアはネルを抱
く腕をゆるめた。
「ロザリアも。どうしてここにいるのよ?」
「手紙をもらって、クレアの手間をはぶこうかと思って。ネルにも会いたかったし」
「んもう。ここの様子がどうにも落ち着かないと思ったけど、あなたのせいだったのね。
相変わらず元気そうで良かったわ」
「うん」
 今度はロザリアを抱き締めて、クレアはほうっと安堵の息をもらした。
「それで…そろそろなの?」
 落ち着いたクレアはネルに視線を戻し、大きくふくらんだ腹に目をやる。
「うん…予定では3週間後だってさ」
「そう…。こんなに立派なおなかしちゃって」
 苦笑して、クレアはネルのおなかを優しくさする。
「最近じゃよく蹴ってさ。おちおち動いてられないんだよね」
「臨月なら、おとなしくしてなさいよ……。でも、血色は良いみたいね? 最初に手紙を
もらった時はつわりがひどかったそうだけど」
 ネルの顔をなでて、クレアは彼女の様子を見やる。確かにネルがいなくなる前は体調不
良がひどくて、何が原因かもわからず、クレアも心配したものだ。まさか妊娠などとは夢
にも思わなかったが。
「ああ。無理してアーリグリフまで来たのがこたえたのか、ごはんも喉を通らなくてさ。
痩せたというよりやつれた状態でね。さすがに最近じゃ落ち着いてきたけど。今度はおな
かが重くてね。何をするにも腰にくるんだよね」
「ま、とにかく座りましょう」
「私は席を外した方が良いかな」
 ロザリアが気を使ってそう申し出ると、クレアはしばし思案顔をする。
「んー…それじゃ、お願いできるかな。なんか、王妃様相手に悪いけど」
「いいよ。私が突然来たんだし。……ここを見学してまわっても良いのかな?」
「……みんなの心臓に悪そうだけど…。駄目じゃないと思う」
 王妃が突然やって来て、普段の修練所の様子なんぞ見てまわったら、兵士達の心臓にひ
たすら悪そうだが、彼女が暇をつぶすような施設はここにはない。
「そう。じゃ、席を外すわね。私の番が来たら呼んでね?」
「悪いね」
「ううん」
 ネルの言葉に首を振ると、ロザリアは笑顔で会釈して、客間を出て行く。扉より距離を
持って控えていた侍女に声をかけて王妃は歩いて行った。
 みんな肝をつぶすだろうなとか思いながら、彼女が出て行った扉を見送っていたネルだ
が、クレアの真剣な瞳に気づいて、姿勢を直した。
「ネル。とりあえずは元気そうでなによりだわ。とにかく、あなたがどうしているか、そ
れだけが心配だったから」
「クレア…」
「そうそう。これ、おばさまから預かってきたものよ。中身は何か知らないけど、手紙も
入ってるんじゃないかしら」
 自分が持ち込んだ大きなカバンを持って来ると、その中から紙袋をネルに手渡す。ネル
はちょっと中身をのぞいてみた。
「それから、これは私から。なぜかお父様からのもあるのよ。これはエレナ様からよ。そ
れから、これはタイネーブとファリンの二人から。アストールからのもあるの」
 クレアは続々とネルへの贈り物を取り出してきて、ネルもこれには困惑した。
「ちょ、ちょっとちょっとこれ…」
「しょうがないでしょう? みんなそれぞれ心配してたんだから。タイネーブなんか、あ
なたの安否を知りたくて、どこにいるかどうにかして私に聞こうとしてたわ。場所が場所
だから絶対に教えなかったけど。あの娘、知ったら絶対乗り込んでくるわ」
「そ、そうだよ。ここは…」
「そう。漆黒の本拠地。戦争が終わったとはいえ、両国間が完璧に片付いたとは言えない
わ。あの子、考えなしに動くから、ひと悶着以上の騒ぎになるのが目に見えてる」
「……すまないね……。なんか…本当に心配かけたみたいで……」
「妊娠している身で、あんな体調のまま飛び出して。おばさまの様子なんて見てられなか
ったわよ」
 次々と言われて、さすがのネルも縮こまる。
「もう、今日は言わせてもらうからね。おば様にでさえ、あなたの居場所を教えられなく
て私だってつらかったんだからね。おば様は大丈夫だろうとは思っても、どこで情報が漏
れるかわからないし。こんなことしたくなかったけど、あなたのおば様への手紙もチェッ
クしたわ。本っ当に心苦しかったんだからね!」
「……ごめん………」
「タイネーブはもちろん、ラッセル執政官まで、さらに言うならお父様まで教えろとうる
さいし! 光はもちろん、闇の部隊まで面倒みることにまでもなったのよ!」
 言ってるうちに積もり積もったものが出て来たらしく、クレアの口調がだんだん荒々し
くなってくる。
「本当に……ごめん……」
「はぁ…。ともかく、陛下と、あとエレナ様に事情は話したわ。アーリグリフについては
あの人の情報が一番良いと思ったから。このお二方くらいしか大丈夫そうな人がいなかっ
たとも言うけど」
 一気に吐き出してから、クレアは一息つく。そして、本題に入りはじめる。
「うん」
「陛下は……、できるならば職場復帰してほしいとの事よ。ただ、手紙にも書いたけど、
あなたの意思を一番に尊重すると、そうおっしゃっていたわ。エレナ様はやるじゃないと
かお気楽なこと言ってたけど。……ネルがどうするにせよ、好きにしたら良いって言って
たわ」
「そう……」
 二人とも、ネルの好きなようにさせてくれると言うのだ。それがネルにとっては有り難
くて、申し訳がなかった。
「あなたがシーハーツに戻ってきて子育てに専念するにしても、そのへんの補佐は別にい
まさら説明する必要はないわね。ある程度落ち着いて職場に復帰する事だって、あなたな
らむしろ大歓迎よ。……そして、こちらに移住すると言うのなら。まぁ、そうなると陛下
やロザリアや、ラッセル執政官やら…、そして、漆黒団長と色々やらなければならないで
しょうね。……どちらにせよ、クリムゾンブレイドの片方は当分は空席になるけど」
 クレアの淡々とした声が心臓にチクチクと突き刺さる。
「…じゃあ、聞くわよ。あなたはどうするつもりなの?」
 姿勢をぴしっとただして、クレアはネルを真っすぐ見つめる。睨みつけると言って良い
程の真剣さだった。
 その視線を受け、ネルは初めて逃げたいと思ってしまった。けど、それは許されないの
は誰よりもわかっていた。
「……私は……迷っている……」
「そう……」
 白黒つける事だけが答えではない。クレアもそのへんをわかっているから、ため息のよ
うな吐息を吐き出した。
 しばらくの間、二人は沈黙していた。来客に茶が出ないのは変な話なのだが、あえて出
さないようにすでに申し付けてある。話の内容を聞かれないようにだ。
「……ねえ、ネル」
 沈黙をやぶり、クレアが口を開いた。
「え?」
「ここでの暮らしはどう?」
「どうって……」
「私の印象は、ここは、随分荒っぽいというか、その、どちらかというとウチのお父様の
方が似合ってそうな場所だけど」
 あまりにその言葉通りだと思ってしまったので、ネルは一瞬吹き出したくなってしまっ
たが、ともかくこらえた。
「みんなの様子を見てると、随分大事にされてるみたいね。内心はどうであれ、あなたの
言うことを聞いているようだし」
「ああ…まあ…ね。この子の父親が父親だから。逆らうわけにもいかないんだろう」
 言って、ネルは大きく膨らんだ腹に手をやる。思い悩んだネルの顔が少しだけほころぶ。
そのわずかな変化をクレアは見逃さなかった。
「産まれてくるのは待ち遠しい?」
「うん」
「そう」
 優しい口調で頷いて、クレアは膝の上で両手を組み合わせる。そして、意を決したよう
に再度口を開いた。
「結婚するの? しないの? 仕事を辞めるの? 辞めないの? シーハーツに戻るつも
りはあるの? 子供はどうするの? ネルは一体どうしたいの? …相手の人の事を…ど
う思っているの?」
 矢継ぎ早に質問を繰り返して、そして、クレアはまっすぐネルを見る。
「どれも……迷っているのね…?」
「ごめん…」
 ネルは謝るしかできない自分が情けなかった。自分はこんなに弱かったのかと自問自答
する。
「…つまり、迷うだけ、ここに情があるみたいね」
「……クレア…」
「言い方がキツくなってごめんね。正直なところ、私はあの人の事が許せない。あなたを
そんな目にあわせて、私達から奪っていったわ。あの人がどういう人なのか。私はまだよ
くわからない。お父様に聞いてみたけど、どうにも…。私の知りたい情報は教えてくれな
いし。あんまり聞くとあなたの事だとバレそうだし…」
 きっと、アドレーの事だから、戦闘面だとか、気合の度合いだとか、体力面とか。そっ
ちの情報しか言わなかったのだろうと察しがつく。あまり露骨な事を聞けば、さすがのア
ドレーでも察知してしまうかもしれない。
「人を使って間接的に聞くとかまでしたけど…。ごまかすために全然関係ない人間をリス
トアップまでさせてね」
「……なんて言ったの? アドレー様」
「やっぱり同じような事しか言わなかったわ」
 吐き捨てるように言うクレア。冷静な彼女も父親が相手となると、ついつい感情的にな
りがちになってしまうようだ。
「……………」
 思わずその様子が想像できて、ネルは黙り込む。父親と対峙する時のクレアはあまり近
づかない方が良いのは、ネルが一番良く知っている。
 クレアも黙ってしまい、ネルの様子をずっと眺めていた。そして、ふっと息をつく。
「…誰かに決めてもらった方が楽?」
 言われて、ネルはハッとなって顔をあげる。
「…悪かったね…。私が…こんなに弱いとは自分でも気づかなかった…。本当に…。駄目
だね……」
 目眩がしそうな頭をおさえ、ネルはため息をついた。自己嫌悪で気持ち悪くさえもなっ
てきたのだ。そんなネルを見て、クレアはつらそうに顔を歪めさせた。
「…ごめん。冷静でいるつもりだったけど、自分で思っているより、苛立ってるみたい…。
この話は…本当は、あなただけの問題じゃないから。色々考えれば決められなくなるのも
わかるわ。それを、あなたに全部責任押し付けて決めろって言ってるようなものだし。…
はあ…。なんだか冷静な頭で、あの人と会って話せるかどうかの自信も無くなってきたわ」
 困ったような笑みを浮かべて、クレアは額に手を乗せて、少し前髪をかきあげた。
「クレア?」
「あの人は、ネルを…奪って返そうとしないのね。ここに来る前のあなたなら、すぐにで
もシーハーツに戻ってきてくれたのにね…。もう……恨み言にしかならない」
「クレア……」
 ネルを見つめるクレアの瞳がどこまでも優しかった。
「…考えてみれば、不思議な話よね…。シーハーツ人である私たちが、アーリグリフでこ
うして話しているなんて…」
「…うん…そうだね…。…あれだけ…憎んだアーリグリフなのにね…」
「本当よ。私なんかより、あなたの方がアーリグリフに対してずっと感情的だったのに」
 そう言われると、ネルは苦笑するより他ない。思い起こしてみれば、クレアは戦争中も
割合冷静であった。

                                                          to be continued...