「ネルさーん。あんまり動かない方が」
「あいつがいない時でないと、すぐに散らかすからさ」
 書類の束をファイルして整理するネルに、彼女の世話を言い付けられたマユは気が気で
なかった。妊娠中とはいえ、別に普通に生活するに支障はないと母親から聞いてはいるが、
ネルに何かあった時が怖すぎるのだ。
「ったく、すぐに置きっぱなしにすんだからもー」
 執務机の上を片付けて、引き出しやら何やらに整理していれる。
「でもまぁ、エレナ様よりかはマシか…」
「エレナ…さま……ですか?」
 結局、片付けるネルを手伝ってくれているマユが首をかしげた。
 マユはあまりシーハーツにはくわしくない。ネルがそうだという「クリムゾンブレイド」
とやらもあまりよく知らない。それが、アルベルに匹敵するほどの地位の高さという概念
もよくわかっていないのだが、とりあえず、高めの地位にいるんだろうくらいの認識で。
そんなネルが様づけする人とはどんなだろうと、少し考えこむ。
「ああ。私の郷里にいる方なんだけど、優秀っていうか、天才っていうか、まぁ非常に有
能な方ではあるんだけど…、強烈に散らかしまくる人でね…」
「そんなにすごいんですか?」
「ああ。なまじっか位が高いから、みんな片付けられないんだよね…。どこになにがある
のかわからなくなったら大変だから」
 エレナ女史の顔を思い出しながら、少し郷愁にひたる。そんな時だった。
「キャッ!」
 マユの悲鳴に顔を向けると、開けっ放しのドアからネズミが走り込んできた。そしてす
ぐに白猫シロがネズミを追って同じく走り込んできたのだ。
「ちょ、ちょっとシロ!」
「おっと」
 シロはネズミを追ってあっちゃこっちゃ執務室内を走り回る。そしてネズミがマユの方
へ走ってきたものだから、マユは悲鳴をあげて逃げ出した。
「ちょっ! 来ないでよー! やめてーっ!」
 しばらく人間と鼠と猫の追いかけっこが執務室内でどたんばたんと始まり、たまらなく
なったネルは窓を開け放した。
「キャア!」
 マユの悲鳴に振り返ると、シロが鼠をつかまえて、首根っこに噛み付いているところだ
った。
「あっちでやってよシロ!」
 情けないマユの声も意に介せず、シロは死にかけのネズミを前足で転がして遊びはじめ
た。ネルはため息をついた。
「はいはい。そういうのはね、表でやりな」
 鼠で遊ぶシロの首根っこをつまんでドアの外にほうり出す。そして、鼠の死骸はほうき
とちりとりで片付けた。
「はあー。ネルさん、鼠は平気なんですね…」
「鼠くらいで大騒ぎしてたら仕事にならないよ」
 隠密なんて闇に潜むのが仕事だ。鼠の多い屋根裏に潜むなど、もはや日常的でさえもあ
る。いちいち鼠ごときで驚いていてはその時点で隠密失格だ。
 さっきの騒ぎで、せっかく片付けた室内も改めて散らかしてしまった。マユはため息を
ついて掃除しはじめた。
「あら?」
 しばらく掃除していたマユが声をあげたので、ネルも振り返る。
「どうしたんだい?」
「これ…なんでしょう?」
 壁にはアーリグリフ国旗がかざってあるのだが、先ほどのさわぎで旗がめくれて壁が露
出していた。しかし、そこから壁ではない何かがはさまっているようなのだ。
 ネルはためらわずに国旗をめくりあげた。
「ああ!」
「へえ」
 なんと。国旗の裏には棚が埋め込まれており、中に金庫と木製のチェストが並び、その
上に本が数冊、乱雑に置かれていた。
「ど、どどど、どうしましょう。団長さんの秘密がここに…」
「別に普通に金をしまってるだけなんじゃないかい? 他にもいくつか隠してるみたいだ
けど」
 金庫については別に普通というか、当然というか。アルベルのような地位にいるのなら、
そんなものだろうとネルは思うのだが。というか、職業柄ありそうな場所は見当がつく。
ありそうな気もしていたが、特に追求するつもりもなかったので今までほったらかしにし
ていたが。
「でも、どうして団長さんが本なんか隠すんですかね。……あっ…」
 マユが何の気なしにチェストの上の本を手に取り、めくってみて小さく声をあげる。
「どうしたん…………」
 ネルも何事かと本をのぞきこんで絶句した。あられもない姿の女性が、いちいちしどけ
ないポーズをとっている挿絵が、そこかしこにちりばめられているような本なのだ。中の
文章までは読みやしないが、挿絵からにして、内容は推して知るべしであろう。
「なにをやってんだろうね、あの男は……」
 呆れ果てるというか、軽蔑するというか。ネルは眉間のシワを深める。
「ここ、男の人ばっかりですから。掃除してると、こういうの結構見つけますよ? わり
と平気で置きっぱなしにする人もいますから」
「ったくもう…」
 こういうのを見ると、ネルは思わず侮蔑したくなる。マユはこういう環境なせいなのか、
慣れているらしく苦笑するにとどまっているが。女性が多い環境で育ってきたネルにとっ
ては、マユの神経もちょっとわからないくらいだ。
「団長さんもこういうの隠すタイプじゃないですよね。というか、今思いだしたんですけ
ど、これ、机の上に無造作に置いてあった本ですよ。前に掃除した時、見た事ありました
よ。団長さんが私室で読む本って何だろうと思って、中身、見ちゃいましたよ」
 マユは苦笑して、本を閉じる。一見、どこにでもありそうな薄めの本だ。娯楽小説など
も、この形態では無かったか。…娯楽と言えば娯楽なのだろうが…。
「………まあ…気持ちわかるけど…」
 確かに、あの男が仕事に関係なく読む本とは、何だろうと思ってしまう。
「けど、ネルさんが来て、慌てて隠したんですね。本当、慌てて突っ込んでるって感じで
すもん」
 マユは積み重なった本の上に、注意深く持っていた本を置く。ここで整理して丁寧に置
いてしまったら、ここを見つけたのがバレるからだ。
 確かに、言われてみれば、本の束を急いで突っ込んだらしく、その時の状況がわかるよ
うな本の置かれ方である。
 慌てるアルベルの姿を想像すると、マユでなくても笑いが込み上げてきそうだったが。
「団長さんにとって、ネルさんって本当に特別な人なんですねえ」
 のんびり笑顔であっさりとマユが言うものだから、ネルは慌ててしまった。
「なっ…。なにを言って…」
「だって、そこらへんの女の人だったら、こういう本を隠したりしませんよ、あの方。こ
ういう事をネルさんに言ったって知られたら怒られちゃうんでしょうけど、そういう女性
を私室に入れる事はあっても、住まわせるとか、私室を好きなように使わせるとか、無かっ
たですもん」
「そういう女性?」
「あっ…、わ、わかんないなら良いんです!」
 ネルがきょとんとした顔をしたので、マユは赤い顔して手をぶんぶん振った。
「だ、だからですね、私もそうですけど、どうでもいい女の人だったら、こんな事はしな
いって事です。こういう本を読んでるって知られても平気だろうし、私室に住まわせるな
んて事も絶対しませんよ」
「うーん…。けど、私室で暮らせって言ったのアイツだし」
 少し焦ったようなマユの言葉に、ネルは困った顔をする。
 ここで暮らす時、アルベルはカルサア習練所には客間は無いと言っていたが、まったく
ないわけではなかったのだ。それを知った時、ネルはそこで寝起きして構わないと言った
のだが、今更面倒くさいとか何とか、何のかんの理由をつけて、私室から出る事を許さな
かった。
「ネルさんって、シーハーツの偉い人ですよね? 兵士の中にはそれを良く思わない人も
いますから。気が荒い人もいますし、妊娠中なのを良い事に何をするかわからないかもし
れません。その点、絶対安全な場所って言ったら、団長さんの私室しかないですから」
 言われて、改めてネルはその事に気が付いた。だいぶ馴れ合ってきたとはいえ、未だク
リムゾンブレイドであるネルを、良く思わない兵士もいるのだ。ここに来た当初は、アル
ベルの私室なら、彼らに会う事がなくて、ホッとしていたはずではないか。
 ここが兵士達の居住区から離れている事もそうだが、掃除などをするマユ達以外には、
何かの例外でもない限り、ここのトップたるアルベルの私室に、そこらの兵士が簡単に入っ
て良いわけがない。
「……でも、団長さんの大事な人に、そんな大それた事をやる人は、漆黒にはいないと思
いますけどね」
 漆黒兵士達をよく知るマユは、笑顔でそう言った。ここで暮らしている以上、彼らを悪
く思いたくないし、そう言いたくもないのだろう。
「なっ……大事な人って、そんな事…」
 笑顔でこうもさらっと言われてしまって、ネルは赤い顔で困惑する。それを見て、今度
はマユの方がきょとんとした顔になる。彼女としては、アルベルとネルはまだ結婚してい
ないだけで、ほとんど夫婦同然と思っていたからだ。
「ネルさん気づいてないんですか? 団長さん、本当にネルさんのこと、大事にしてます
よ。こういう事、今までなくって、みんなビックリしてるんですから。っていうか、私も
ビックリしました」
「………………」
 さらに畳み掛けられるように言われてしまうと、ネルもどう言って良いかわからなくな
ってしまう。
「けど、こんな所を発見したなんて、団長さんに知れたら怒られますよね。お給料減らさ
れちゃうかも。でも何が入ってるんだろ」
 マユもなかなか良い性格のようで、金庫の隣にあるチェストの引き出しを開けてみよう
と引っ張ってみたりしている。3つある引き出しのうち、2つは空っぽで、一番上のカギ
つきのだけに中身が入っているようなのだが…。
「ああ…。カギがかかってる…」
 ひどく残念そうなマユの声。ネルも、最初は興味無かったのだが、だんだん何が入って
いるのか気になってきた。金庫は普通に金目のものが入っているのだろうが、この引き出
しには何が入っているのであろうか。
「ヘアピン…もってる?」
「ヘアピンですか…? こういうのですか?」
 マユは頭の三角巾を止める金属製の細いヘアピンを抜いて見せると、ネルは頷いて見せ
た。
 そして、ヘアピンを延ばして鍵穴に差し入れる。隠密という職業をしているのだ。鍵開
けくらい造作もない。しかも、金庫でもないので、鍵の造りは単純だ。
 カチン。
 難無く開けて見せて、マユは思わず拍手なんかしてしまった。
「ネルさんすごーい! どこで教わったんですか?」
「ちょっとね。…で、どんなの入れてるんだろうね? あいつ」
「開けてみますね」
 またいかがわしいものでも入っているのだろうかと思いながら、ネルはマユが開ける引
き出しを少し覗き込んだ。引き出しの中は白い封筒がぽつりと一枚あるだけで、やたらス
カスカだった。
 マユは、その一通の手紙をつまみあげる。
「これは…手紙? あ、すごい。グラオ様からのだ」
「え?」
 マユのあげた声にネルものぞきこむと、それは父から子に宛てた手紙だった。別に内容
はどうと言う事もなく、遠出の仕事の帰りが遅れるということと、普通に息子を気遣う内
容のものであった。
「…ネルさんは知ってますか? 団長さんのお父さんってすごい方だったんですよ。私が
小さい頃に亡くなりましたけど。アーリグリフで一番強い人で、もう、雲の上の人みたい
な感じで。…どうして亡くなったのか、未だに謎に包まれているんですけど…。もしかす
ると、団長さんは知っているのかもしれないですけど、そんな事、聞けませんよね」
 彼がどういう死に様だったのか。ネルは知っているが、マユは知らないようだ。そして、
それはアルベルにだけは絶対、聞いてはならない事だろう。思わず口をつぐむネル。
 マユは少しだけうるんだ瞳で手紙を見つめた。
「………なんか…団長さん、可愛いところありますね。こういうの大事に持ってるなんて」
 手紙の内容が特にどうという事もないから、余計にいじらしい。ネルも声には出さなか
ったものの、思わずマユに同意してしまった。
 マユはそっと手紙を戻すと、手紙が引き出しの奥の何かに当たるのに気が付いた。そし
て、それを確かめようと手を突っ込んで、一本のダガーを取り出した。
「これは…ナイフ? なんでこんな所に入れるんだろ?」
 別に武器など軍人であるアルベルが、引き出しの奥にしまう必要などない。しかも、ど
うひいき目に見ても特別製とは見えないダガーである。
「アーリグリフじゃちょっと見ない感じの型ですけど。ネルさん知ってます? ………ネ
ルさん?」
 ネルはそのダガーに見覚えがあった。それを見て、ネルは目を見開く。マユは知らない
だろうが、シランド城で警備をする者なら、誰にでも手にできる量産型のダガーである。
 しかし、売っているものではないので、それ以外の人間ではそう簡単に手に入れられな
いし、ましてや、アーリグリフに属するアルベルでは入手も困難なはずである。
 考えられるとしたら、手合わせの時にネルが投げ付けたあれしかない。あの後、ネルは
回収を忘れてそのままにしてしまっていた。
「ネルさん? どうしたんですか? ネルさん?」
 マユに肩をゆすられて、ハッと我に返る。
「あ、う、うん。なんでもないよ。……さ、元通りにしようか。…くれぐれも、秘密にし
てるんだよ」
「そ、それはもう。団長さん怒らせるわけにはいきませんよ」
 マユの顔がちょっと引きつった。ネルはアルベルが怒ろうが怖いとは思わないが、彼女
にとっては上司である。むしろ、怖がらないネルの方が普通に言えば珍しい。
 何事もなかったように片付けて。執務室の整頓と掃除は完了された。

 アルベルはかなり夜も更けた時間に帰って来た。
 椅子に腰掛け、アルベルの帰りを待っていたネルは、うつらうつらと船をこいでいた。
「おい」
 軽くゆすられて、ネルは目を覚ます。
「こんなところにいねえで。寝てろ」
「あ、ああ…お帰り…」
 眠そうな目でアルベルを見上げるネルに、彼は少し呆れた表情を見せた。今までネルは
さっさと寝てしまっていたのに、今日に限って待っているとは何事であろうか。やはり、
一週間後のクレアの来訪の事でまた悩んでいたのだろうか。
 アルベルは嘆息しながら、ガントレットを外していく。自分のトレードマークのような
ものだし、武器でもある。外ではなるべく着けるようにしているが、転びそうになったネ
ルをこの技手でつかんで軽くケガをさせてしまってから、私室に戻るとすぐに外すように
している。戦闘時以外は手袋で事足りるのだから、手袋に切り替える事も少し考えはじめ
ている。
「風呂、お湯がはってあるんだ。もうぬるくなってるだろうから、沸かしなおすよ」
「は? おい、いいから寝ろよ。別に水だろうが俺は構わねぇんだから」
「威力をおさえたファイアボルトを投げ込めば良いのさ。シーハーツじゃわりと一般的な
方法だよ」
「いや、だから。寝てろ」
 しかし、ネルはアルベルの言うことを聞かずに浴室に入ってしまう。アルベルは困惑し
てしまった。
 ここに来たばかりの時は、わりとつんけんしていたネルだが、最近はだいぶ態度が軟化
してきてはいる。もともと面倒見の良い彼女の事だから、それの世話になる事も多くなっ
てきたが、身重の身体を押してまでここまで気遣ってくれた事はまだなかった。
 わりと早くにネルが戻ってきた。
「できたよ。ちょっとぬるいけど、今の私じゃあんまり施術の調整がうまくいかなくてね。
風呂を壊すより、多少ぬるいほうがマシだろ」
「…………どうしたって言うんだ? 急に…」
「はは…。やっぱ気持ち悪いかい?」
「いや…。…少し驚いている…」
「………………」
「………………」
 しばし、無言のまま見つめ合う二人だったが、ネルの方が先に視線を外した。
「さ、早く入って来なよ。ぬるくなっちまう」
「あ……ああ…」
 まだ合点がいかぬようであったが、とりあえずアルベルは浴室に赴く。
 自分がアルベルの秘密を知ってしまったのを言うべきか、言わざるべきか。ネルは迷っ
ていた。だがしかし、急な自分の態度に驚かせてしまったのも事実だし。
 暖炉の火を見つめながら、ぼんやりと考えていると、アルベルが風呂から上がって、肩
にタオルをかけていた。随分早かったなと思って時計に目をやると、わりと時間が過ぎて
いたりして、思っていたより考え込んでいたようである。
「暖炉、使うかい?」
「ああ」
 無愛想にうなずいて、アルベルはタオルで濡れた髪をこする。しばらく黙っていた二人
だったが、アルベルの方が口を開いた。
「…どうしたって言うんだ? 今日は」
「……別に…。いつもあんた、疲れた顔してるからさ。気まぐれおこしてねぎらってやろ
うと思っただけだよ」
「そうか?」
 アルベルの声が疑わしげなものになる、やはりいぶかられているようだ。ネルの内心は
冷や汗ものである。
 やっぱり急にこんな事したのはまずかったか。けれど、昼間の出来事は、ネルにとって、
本当に衝撃だった。あんなたいした事のないダガーを、父親の手紙と同じ場所に隠してい
たとは。
「さ、酒でも飲むかい? 好きだろあんた」
「は?」
 沈黙に耐えられなくて、ネルは椅子から立ち上がる。アルベルの声から、やはり墓穴を
掘ってしまっただろうかと、背中に冷や汗が走る。
「本当に…おまえ、どうしたんだ?」
 心底いぶかる声を出して、アルベルも椅子から立ち上がった。思わず立ち止まってしま
ったネルを振り向かせて、その顔を不審げにのぞきこんでみる。
 しばらく見つめ合っていた二人だが、ネルが先に顔をうつむかせた。
 やはり自分に隠密業はむいていないらしい。
「………執務室の、国旗の裏」
「!」
 アルベルの顔付きが変わった。
「……何を…見た…?」
 声が多少震えている。
「引き出しの中」
 さすがのアルベルもこれには顔を引きつらせた。だがネルが相手では殴ることなどでき
ない。拳をぎゅっと握り締め、ぶるぶると震わせていたが、やがて拳をひらいて髪の毛を
かきあげた。
「てめえな…!」
「ごめん」
 素直に謝られて、口をつぐませる。今日ネルがこんななのはそのためかと悟り、苦い思
いになる。
「……あのダガー、なんで持ってたんだい? しかも隠してまでして」
「………………何だっていいだろうが」
 吐き捨てるように言うアルベル。ネルの思った通り、あのダガーは、シランド城で手合
わせした時に彼女が投げ付けたものだ。翌日は忙しくて捜すのも忘れて、そのままダガー
の事などもうすっかり忘れ去っていた。まさかアルベルが持ち帰って今まで後生大事に持っ
ていたとは思わなかった。
 いくら慌てていたとはいえ、わりと近くに隠していたのはアルベルだ。いつかはバレる
かもしれない場所だし、鍵をかけたとしても、簡単な鍵である。ネルでなくても、力任せ
に壊す事だって可能だ。だから、隠し場所を変えようと思ってはいたのだが、忙しくてつ
いつい後回しにしていた。苦い顔付きで、頭をかく。
 自分はアーリグリフの将軍で、彼女はシーハーツの隠密頭だ。国は違えど、立場は似た
ようなものだ。一緒になったらひたすら面倒な事になりそうなのは予想がつくし、なによ
り自分は好かれてなどいないのだ。
 こんな気持ちを持て余す自分も嫌いだったが、表に出す気は無かった。
 手合わせした次の日の夜、やはり鍛練中、突き刺さったままのそれを偶然見つけて、思
わず持ち帰った。
 どうせ添える事などないのだ。
 このダガーの意味など、他人にはわかりやしないだろうし、この先、彼女と会う事もほ
とんど無いだろうと思い、ほんの出来心だった。
 ところが、事態は予想もつかないところにどんどんと転がっていった。酔った勢いでネ
ルに手を出して殴られて。ハッキリ言ってしまえばフラれたわけで。女々しいと思いなが
らも、これほどに惚れた女は初めてで。持ち帰ってしまったものの、捨てられなかった。
 だがこんな事になり、慌てて隠したのだが。一番見られたくない相手に見られてしまっ
たとは。自分のこんな女々しい所など、絶対見られたくなかったのに。
「ごめん」
 ぽつりとつぶやくようにネルが頭を下げた。こうなるともうアルベルは怒れない。惚れ
た弱みとしか言いようがないが、許してしまう。アルベルは苦々しげにため息を吐き出し
た。
「でもさ」
 ネルはちょっと顔を上げてアルベルを見上げると、額をこつんとアルベルの肩に乗っけ
た。
「…嬉しかった」
「………………」
 一瞬、あっけにとられた顔で、アルベルはネルを見下ろしていた。
 まさか、隠したダガーがこんな結果を生み出すなんて、思いもしなかった。
 こんなに可愛い姿を見せられて、アルベルももう我慢できなくなっていた。今までどん
なにか蛇の生殺し状態であっても、妊婦相手では手を出せようがないし、彼女があまり自
分の事を好いていない事も知っていたから、抱き締める事さえできないでいた。
 けれど、今なら。
 ネルを肩からそっと離し、顎を軽くつかんで上げさせる。ネルは少し潤んだ瞳で自分を
見上げていて、それがまたなんとも愛らしくて。
 彼女の唇に食らいついた。
 ネルは抵抗もせずに受け入れ、背中に回した手も拒否しない。舌を入れても嫌がらなか
った。彼女が妊婦でなかったらこのまま押し倒すところだ。
 何度も何度も、深い口づけを交わし、もうどうしようもないくらいに愛しくて強く抱き
締めた。ネルの大きなおなかさえも今は邪魔に思えた。
「ん…?」
 揺れるネルのおなかに気づいて、そっと身体を離す。どうやら中で赤ん坊が母親の腹を
蹴っているようだった。
「また蹴ってる…」
「あと一カ月…か?」
「予定ではね」
「…そうか」
 そしてまた、アルベルはネルの腹にそっと手をやる。いつもの優しい眼差しで見つめて
いる。最近、彼のその表情を見るのがネルの楽しみになってきている。
 普段の無愛想な顔付きと、戦闘時の凶悪な面構えとのギャップが見ていて楽しい。そし
て、自分にしか見せないところも嬉しかった。
「寝ようか。湯冷めするよ」
「ああ」
 このまま……とか、思うものの、こればかりはどうしようもない。臨月が近いから怖い
し、あれ以来まったく関係を持たなかったので、いきなり手を出すのもまずいだろう。ア
ルベルは暖炉の火を消すとネルに続いてベッドに入る。
 先に寝ているネルを抱き寄せると、抵抗もせずに素直に引き寄せられる。そして、なん
と彼女は甘えるように擦り寄ってきたのだ。
 思わず感動して、アルベルは手が止まってしまった。今までの苦しい片思いも、辛い禁
欲生活もすべて、無に帰すくらいのものがあった。
 ハッと我に返って、とにかく優しく抱き締めた。今は肌を重ねる事はできないが、その
うちに…。
「…どうしたの…?」
「…なんでもねえ。寝ろ…」
「うん…おやすみ…」
「ああ」

                                                          to be continued...