もしかするとそうじゃないかとか疑っていた。
 けど、自分の体は自分が一番よくわかる。というか、これは自分にしかわからない。
 結果が怖くて先延ばしにしてきたけれど、わかってしまえばふんぎりがつくかもしれな
い。
「……ネル様…。…あの…おなかの中に…。…その…お心当たりが…?」
 医者の遠慮がちな声。
 やっぱり…。
 これはもう、覚悟を決めろという事か。

 母親と相談してみた。長い間話し合って。話しているうちに、別に二度とこの国に足を
踏み入れられないわけじゃない事、会おうと思えばみんなに会える事などに気づいて。
 少しだけ気が楽になった。
 ただ、仕事に関しては、期待をかけてくれていた女王に対して、申し訳なくて申し訳な
くて仕方がなかった。
 そして、次に相談したのは幼い頃から仲の良かったクレアだった。
「……そう…」
 もうわかっていた事だけど、クレアはため息をつかずにはいられなかった。
「もう、ずっと悩んでいたのね…」
 クレアは寂しい笑顔を見せて、ネルの手を握った。クレアの私室で、彼女たちは同じベ
ッドに腰掛けて話していた。
「ごめんね…。相手が相手だから、どうしようか迷ってずるずるしてたら、さ…」
「そうよね…。ネルは真面目すぎるくらい真面目だものね…」
 優しくネルを見つめて、クレアはほほ笑む。
「恨み言というか、愚痴にしかならないんだと思う。けど、ごめんね。言わせて。どうし
てあの人なの?」
「ははは…」
 ネルはもう苦笑するしかない。
「どうしてなんだろうね。私にもわかんないよ。…私もね、最初は嫌いだった。憎かった
よ。そのうち嫌が応でも相手の事を知るようになってさ。嫌いじゃなくなってさ…。それ
からは…馴れ合いになったんじゃないかと思う。…もう、いつの間にかだよ…」
 遠い目をしてネルがつぶやくように言う。
「アーリグリフ王も、そんな事を見越して、あの人を、あなた達一行に入れろと言ったわ
けじゃあないんでしょうけどね」
「だろうね。あっちはあっちでごたごたしてたから」
 あの出来事が、もう随分と昔の事のよう思える。
「おば様は?」
「好きにしなっ…て。私の人生だからってさ」
「そう…」
 クレアは長いまつげをそっと伏せる。
「ねえ、ネル」
「ん?」
「約束して。その時は幸せそうに笑うって」
「え…、え?」
 クレアの言ってる事がわからなくて、ネルは戸惑った。
「ロザリアの時の事を覚えてる? あんなに幸せそうなあの子に、相手のことをとやかく
言うだけ、あの子を不幸にするだけってわかったから。ネルだってそう思ったでしょう?」
「う、うん」
 突然ロザリアの話題がでてきて、ネルはさらに戸惑ったが、とりあえず頷いた。
「だから、ネル。あなたも笑うのよ。幸せそうに。でないと、私あの人をずっと許せない
ままになりそうよ」
「クレア…」
「もちろん、これからもずっとよ。あなたがずっと幸せそうに笑えないようなら、私はあ
なたをこの国に連れ戻すから」
「え、で、でも、ちょっと、そこまでわからないよ…。あいつ、色々と問題起こすから…」
 困ったように笑うネルだが、その笑顔がすでに幸せそうで。クレアも苦笑した。そして、
もう何も言わないでネルを抱き締めた。

「そうですか…」
 シーハーツ王国女王ロメリアはそっと目を閉じた。
「そなたにはずっと頑張ってもらいたかったのですが…仕方がありませんね…」
「誠に…申し訳ございません。陛下」
 ネルは跪き、深々と頭を下げた。言いたくなかったけど、いつかは言わねばならない事
で。覚悟だって決めたけど、やはり申し訳なくて仕方がない。
「よいのですよ。そなたはそなたの父と並び、ずっとこの国のために尽くしてくれました。
そなたが幸せになると言うのなら、それは私にとっても喜ばしい事です」
「有り難き…お言葉…」
 女王の言葉が嬉しくて思わず言葉に詰まるネルを、女王の隣にいたラッセルは少しほほ
えましげに眺めていたが、すぐに表情を変えた。
「しかしだなネル。おまえが結婚する事自体はまるきり構わぬ。むしろ陛下のおっしゃる
通り喜ばしい事だ。だが結婚しても仕事を続ける者はこの国は多い。なぜ仕事を辞めなけ
ればならぬのだ? そもそも、相手が誰なのかまだ聞いて…」
「黙りなさい、ラッセル」
「あ、はっ」
 諭すように静かに言われて、ラッセルはかしこまった。
「相手についてはそのうちわかります。それに、ネルが考えもなしに辞職などするわけが
ありません。…ずっと……悩んでいたのでしょう?」
「本当に…申し訳ありません…陛下…」
 我慢していた涙が滲み出てきてしまった。必死になっておさえているが、声が詰まって
しまう。
「謝る事はありません。さあ、顔をおあげなさい」
「陛下…申し訳…ありません…。その、私の相手というのが…」
「アーリグリフの高官なのでしょう?」
「え?」
「なんですと!?」
 あんまりにも驚いて、ネルは思わず顔をあげる。ラッセルもびっくりして口を大きく開
けた。
「そなたが辞職すると聞いて、確信しました。でなければそなたは、そこまで悩みはしな
かったでしょう」
「なっ、ネル! それは本当か!? いくら今は和平を結んでいてもアーリグリフは…」
「黙りさない、ラッセル」
「し、しかし陛下…。い、いえ…」
 今度は少し厳しく言われて、ラッセルは結局反論もせずに押し黙った。
 あっけにとられるネルに、ロメリアはほんの少しだけ笑みを浮かべる。
「たまにこちらに来る事がありましたね」
「あ、は、はい…」
 確かにアルベルはあちらの正式な外交官が決まるまで、こちらに親書等運んできた事が
あった。その時に覚えられてしまったか。
 女王にも知られていたかと思うとネルは顔を真っ赤にさせた。もう耳までも真っ赤だ。
考えてみれば、クレアにもファリンにもバレていたのである。実はかなりの人間にバレて
いたのではと思うと、顔はますます熱くなる。
「式にはこの私も招待してほしいところですが…それは、ワガママと言うものなのでしょ
うね」
 まがりなりにも女王である。彼女が動けば護衛だけでも大変なのだ。それだけの自覚が
彼女にはある。
「幸せになるのですよ、ネル」
 女王は、辞めていくネルに対して優しく言葉をかけた。

 その日は珍しく、アルベルは執務室で仕事はしていなかった。
 愛用の武器の手入れを熱心にしている所だった。最近はいい加減にしかできてなかった
ので、今日ばかりは念入りにやるつもりだったのだ。
 特にガントレットは結構めんどうくさかったりするのだ。
 もちろん、アルベルはそれをあまり面倒だと思った事はなかったが。
 カタン。
 背後の窓から人の気配がした。
「…昼間から来るとは珍しいな」
 振り返って、彼女の存在を確かめる。
「荷物まとめて来たか?」
「引き継ぎをしなきゃいけないから、しばらくは行ったり来たりになりそうだけど。少し
ずつ持って来るよ」
「そうか」
 アルベルが不敵そうに、にっと笑った。その笑顔にネルは苦笑したくなった。こっちが
さんざん悩んで苦悩して、相談して頭下げて駆けずり回ったと言うのに、この男ときたら
いつだって自分のペースを乱さなかった。
 かといって、この男が動くと騒ぎにしかならないのもわかっていたが。
 なんだか悔しくなってきて、ちょっと一矢報いたくなってくる。
「でも、いつまでもここから出入りするわけにはいかないね」
 身軽に窓から降りる。アルベルも立ち上がって、持って来た荷物を持ってくれる。
「…そうだな。全員に知らせとく必要もあるか」
 これからの事考えているのだろう。荷物を持ったままなにやら考えこんでいる。
「まあ、ここから出入りできなくなるって言うのもあるんだけどね」
「ん? 何がだ?」
 絶対知らないはずだ。教えてないわけだし。これを言った後の事を思うと、ネルは知ら
ず意地悪な笑みが浮かんでくるのだが。
「そろそろおなかが邪魔でここまで来れなくなるって事だよ。パパ!」
 パシンと肩をはたくと、アルベルはネルにとって、一生ものの見物になるような顔をし
て、手に持った荷物を落とした。
「ぷっ…。アハハハハハハハハ!」
 その顔がおかしくて、おかしくて。ネルは腹を抱えて笑い出した。こんなに朗らかに、
心の底から笑ったのなんて、一体どれくらい久しぶりなのだろうか。
「おい…。冗談なら休み休み言え…」
 ネルが笑い出してしまったので、冗談かと思ったアルベルの声に怒気が含まれる。
「ふふふふっ…。いや…冗談じゃないよ…。でなきゃ私もここまで腹をくくれなかった」
 こぼれてきた涙を拭きながら、アルベルを見上げる。
「…………」
 また、アルベルがぽかんと口を開ける。そのマヌケた表情がおかしくて、ネルはまた笑
い出す。
「いつかこうなるかと思ってたけどね…。医者にも確認をとった」
 そっとアルベルの肩に額をくっつけて、それから頬を擦り寄せる。
「そうか…」
 嘆息しながら、アルベルは前髪をかきあげる。
「まあ…なんつーか……。よく来た」
 どう言って良いかわからなかったようだが、ちょっと照れた後。ネルを見下ろして、ぎ
ゅっと抱き締める。
「うん…」
 心残りがまったくないわけではない。自分の生まれ故郷である。捨てたわけではないけ
れど、置いてきた事に後ろ髪はいつまでも引かれる事だろう。
 それでも。
 自分はこのぬくもりを捨てきれる事ができなかった。自分の心にウソはつけなかったし、
産まれてくるこの腹の中の子のためにも。たとえ後悔する選択肢だったとしても、間違っ
ているとは思わない。
「…で、荷物はこれだけで良いのか?」
「うん。まだもう少しあっちに行ったりしなきゃいけないから。今回はこれくらいでね」
 照れているのだろう。アルベルはさっき落としてしまった荷物を拾い上げる。
「一応、これからここの改築を考えてるんでな。俺の私室をもう少しどうにかするつもり
なんだが、とりあえずはここでしばらく寝泊まりしてくれ」
「うん。あ、持つよ。ちょっと整理しないといけないから」
 アルベルが持ってくれた荷物だが、ネルはそれを自分で持って隣のアルベルの私室に運
ぶ。
「あー、色々買わねえとまずいな…」
 生活調度品は必要最低限のものしかなく、あとは武器や軍務関係のものがあるくらいで、
わりと殺伐とした部屋である。それを見回して、アルベルは頭をかく。
「そうだね…」
 二人で暮らす事を考えると色々物入りである。買い物リストをあげるかとネルが考えて
いると、隣の部屋でノックする音が聞こえた。
「ん?」
 アルベルはネルをこの部屋に置いて、隣の執務室へ赴く。
「なんだ?」
「…私です。ご休息中申し訳ありません。…その、少しお話しがあるのですが…」
「なんだ? 入れ」
 アルベルが入室を許可すると、例の騎士が敬礼をしながら部屋に入ってくる。
「で?」
「はい…。…その、先日の女性…無礼を承知で調べさせていただきました。……団長…本
気ですか?」
「本気だ」
 騎士もわかりきっていたが、アルベルはしごくあっさり答える。
「…そうですか…。もうおわかりかと思いますけど。旧体勢支持派や、元ヴォックス一味
などの右派の者、シーハーツを良く思わない者などは良い顔はしないでしょう。対処はど
うなさるおつもりですか?」
「文句があるヤツは直接俺に言いに来い。ぐだぐだ言うヤツにはそう伝えろ」
 名実共にアーリグリフ最強となったアルベルである。彼自身の実力や肩書もさることな
がら、王には気に入られ、ウォルターには可愛がられと、後ろ盾も強力すぎる。誰にも文
句を言わせないだけの力が、彼にはあるのだ。
 そして、それだけの男が独身となれば、周りが放っておくはずもなく。おまけに元疾風
団長の息子という血統もある上に、顔も良いのだから、この際、彼の性格や雰囲気などは
二の次になろうと言うものだ。
 そのうるさいくらいの見合い話のことごとくを、蹴った原因がシーハーツのクリムゾン
ブレイドとは。
 いくら文句を言わせないとはいえ、各人の反応はどんなものやら。騎士は多少痛くなり
そうな頭をそっとおさえた。
「…わかりました。他に私にやることはございますか?」
「…そうだな…。結婚する事になったから。手配頼む」
「…は?」
 またしてもあっさり言うアルベルに、騎士はマヌケな声をあげた。
「おい。いいから、来い」
 アルベルは私室の方に手招きして。そして、遠慮がちにネルが彼の私室から表われた。
 騎士はそれを見て言葉を失い、ゆっくりと頭をかかえた。
「どうしているならいるって先に言って下さらないんですか…」
 立場上怒鳴るわけにもいかず。騎士は震える声を出す。彼女が聞いているなら、話題と
してとことん不適当だってのではないのか。
「言うヒマ無かったからな」
「あ、あの、わ、悪かったね…この前と言い、今回と言い…」
 突然部屋に押しかけているのはこちらの方である。ネルは気まずそうに頭を抱えている
騎士に声をかける。
「あ? あ、いえ…。そんな…。と、ともかく、わかりました…。今日はこのあたりで失
礼いたします」
 まだ声が多少震えていたが、事を荒立てる気などない騎士は、ため息を飲み込んで敬礼
をする。そして、クセのようにかしこまりながら扉を開ける。
 思わず、その騎士が出て行った扉をしばらく眺める二人。
「…な、なんか、悪い事したかね…?」
「良いんじゃねえ?」
 気にするネルとは対照的に、アルベルはまるで気にした様子はない。そんなアルベルを
見て、ネルはため息を吐き出す。
「…にしたって、あんた本当相変わらずだね。こっちはさんざん駆けずり回って陛下に頭
下げてさ。もう、さんざん悩んだって言うのに」
 自分の椅子に腰掛けるアルベルを見下ろして、腰に手を置く。そんな男だとわかってい
たが、愚痴は言いたくなる。
「いくら悩もうが考えようが答えは出てる。だったら、悩むだけ時間の無駄だ」
 机の上に肘をついて、アルベルはネルを見上げた。ネルはちょっと目を大きくして。し
ばらくアルベルを見下ろしていたが、やがて首を振った。
 なんだかその呆れ果てた様子にちょっとムカついたので、アルベルはネルを引っ張って、
自分の膝の上に乗っけた。
「…で…、腹の方はどうなんだ?」
 そういえば、今日はあのしっかりした胴締めをしていない。下腹部に手を触れてみると、
確かにわずかに膨らんでいるようだ。
「順調だってさ。もう少ししたら、飛んだり撥ねたりできなくなるね」
「そうか…。……にしても…実感わかねえもんだな…」
「初めてだもんね…」
 目を閉じて、ネルはアルベルの肩に頭をもたれかけさせる。今までもさんざん悩んでき
て、これからも考えなければならない事が山ほどあるはずだが。
 今はただ、この気持良いぬくもりを、何も考えないで堪能したかった。



                                                             to be continued..