聞かなくても答えはわかるような気はしていたのだけど。
 カタン。
 ネルはだいぶ慣れた足取りで、アルベルの執務室に入る。
 まるで夜這いだなと自分でも皮肉に思う事もあるが、アルベルは立場上、あまり自由に
動けない。となると、任務の合間にここに寄れる自分が通う事になってしまう。おまけに
自分の方がこういう潜入は得意なのだ。もちろん、任務を最優先にしているので、寄りた
くても寄れない事も多いのだが。
 人の気配はなかったが、さっきまでここにいたらしく、書類が散乱していたし、お茶も
飲みかけだった。机の横にたてかけられた刀が、アルベルの欲求不満を物語っている。
 もっと刀を振り回したいだろうに、最近は机の上での仕事が多いようだ。
 ネルとしては、一定の場所にいてくれるので来やすいので助かるのだが。
 そう長く席を外すとは思えないので、引きっぱなしの椅子に腰掛けてぼんやりと天井を
ながめる。
 かなり良い椅子で、座り心地が良い。
 ネルはほっと息をついた。今日は調子が悪い。だが日程がどうしようもないので、自分
の体調をだましだまししてここへ来たが…。原因は働きすぎだとわかっているのだが。
 こうしてこのまま休んでいたかったのが、そうもいかないようだ。
 足音が聞こえる。アルベルの足音と、もう一つ聞こえるという事はもう一人いるのだろ
う。ネルはさっと立ち上がり、隠れる場所を捜した。あいにく、アルベルの私室は扉が閉
まっていて、開けて入る時間も無さそうだ。
 芸が無いなと思いながら、いつものクセでさっと天井にのぼった。後から思えば机の下
にでも隠れれば良かったと後悔するのだが。
「つまりですね、ベクレル鉱山の被害の事を考えますと…」
「ありゃクソジジイの管轄だろう」
 アルベルと配下の騎士が、二人で話しながら部屋に入ってくる。
「もちろん、ウォルター様の管轄なのですが、国庫を使う事になりますから」
「ああ、そりゃそうだな」
 ため息をつきながら、アルベルは引いたままの椅子に腰掛ける。そして何かに気づいて、
横目でちらりと天井にいるネルを確認する。
 慣れたものでアルベルはすぐにネルから視線を外し、仕事の話を再開する。
「つまりこっちに回せんっつーことか」
「そうです。まあどこも首がまわらないのですが」
 まずい…。
 ネルは奥歯をかみしめた。さっきからその兆候はあったのだが、今になって急に体調が
ひどくなり、めまいと吐き気がこみあげてきたのだ。どうにか我慢しようと思うも脂汗が
にじみでてきた。ものすごく気分が悪い。
「まあいい。その件は後回しだ。ちょっと休む。行け」
「は? …はあ…。わかりました。では…」
 突然そんな事を言われた騎士は、一瞬いぶかしがったが、アルベルに逆らうつもりはな
いらしく、渋々部屋を立ち去ろうとした時。
 急にアルベルが壁際に駆け寄り、何事かと思ったら、突然上から降ってきた女を抱きと
めた。
 もちろん、あっけにとられて、その場に立ち尽くした。
「おい、どうした? おい!」
 真っ青な顔の女を腕に抱いて、ゆすっている。
 騎士は口を大きく開けたまま、呆然とその光景を眺めていた。
「ハァ、ハァ…、ご、ごめん」
「どうした?」
「ちょっと…気分が……」
「おい、医者呼んでこい」
「……………は? ……あ、あの、アルベル様」
「なんだ」
「そ、その方はお知り合いで…?」
 この騎士が戸惑うのも無理はないだろう。
「そうだ」
「ど、どちら様なんですか?」
「俺の女だ」
「俺のって………いやその、あの、で、何故、突然上から降ってきたんですか?」
「天井に張り付いてたからだ」
「…………」
 気分が悪いながら、ネルはこの騎士に対して申し訳がなかった。わけがわからなくて当
然だと思う。
「えと……あの……どうして……そんな事…を?」
「知るか。この女の趣味なんだろ」
「ご、ご趣味…で?」
「ば…馬鹿な事…言ってないで……」
 ネルはなんとか言葉を絞り出す。
「おい、医者を」
「い、いい…」
 医者を呼ばせようとするアルベルに首を振って見せる。
「休んでれば…治るから……」
「治るって…」
「いい…から…」
 そこまで知られたくないのだろうか。アルベルはため息をついた。
「チッ。おい、この女の事は言うなよ。今は行け」
「あ、は、はあ…」
 ようやく金縛りがとけて、騎士はなにか事情があるのだろうとやっと察した。困ったよ
うに敬礼して、部屋を去った。
 だがすぐに。
「アルベル様!」
「なんだよ」
 執務室に通じている自分の私室に運ぼうとしていると、さきほどの騎士が執務室に飛び
込んできた。
「まだお話ししてなかったのですが、いや、これからご報告するはずだったのですが、ス
テュアート侯爵様の御令嬢とのお見合い話がきてるんですけどっ!」
「知るかそんな女。断れ」
 間髪いれずに言われて、騎士はまたもかたまる。
「えと…あの…。ステュアート侯爵様は…ご存じですよね」
「あのじいさんを知ってはいるが、それがどうした」
「あの…お断りするにしても…あの…どうやって…」
 侯爵というだけで相当な身分である事がうかがえる。そんなところの娘の見合い話を断
るなど、ちょっとやそっとの理由であってはならないはずだが。
「興味がねえ。そう断れ」
 きっぱりそう言って、アルベルはネルを抱えて私室に引っ込んでしまった。
 泣きたくなった騎士だが、そういう上司なのは骨身にしみて知っている。大きくため息
をついて、静かに扉を閉めると、難しい顔をして、歩きだした。
「ったく、なんなんだよ、突然」
 悪態をつきながらも、アルベルはネルの靴を脱がせ、そっとベッドに寝かせる。
「ごめん…」
 真っ青の顔のまま、ネルは弱々しくそう言った。アルベルはため息をついた。
「ともかく、休んでろ。水でも飲むか?」
「うん…。ちょっと…くれるかい?」
 アルベルは黙ってうなずくと、水差しをとりに執務室へ赴く。やがて水差しを手にこち
らの部屋に入ってきた。
 少し身を起こし、水を受け取るとゆっくりと飲む。背中をアルベルがささえてくれて、
ネルは両手でコップを持った。片手で持つとこぼしてしまいそうだったからだ。
「ありがとう…」
 飲み干して、口元をぬぐう。空のコップを受け取ると、横になるのを手伝ってくれた。
 しばらく、青ざめたネルの額や頬をなでたりしていたが。
「寝てろ。俺は隣にいるから」
 頷くネルを見届けて、アルベルは隣へ行ってしまった。そばにいてほしかったが、仕事
がたまっているのだろう。
 紙をめくる音。なにか書く音。捺印している音。ため息。椅子のきしむ音。引きだしを
開ける音。
 隣にアルベルがいるのは確実で。彼がたてる物音が彼の存在を物語っていて。そばにい
るのは無理でも、それだけでも少し安心できた。
 トントン。
 扉を叩く音が響いてくる。
「なんだ」
「アルベル様…。よろしいでしょうか」
 先程の騎士の声がした。
「なんだ? ………入れ」
 少し迷った後、アルベルは入室を許可した。もうネルの事を知っているからだろう。
「失礼します」
「どうした」
「はい…。カルサア北部でのキャンプなのですが……」
 回転の鈍い今のネルの頭では、アーリグリフの軍務についての話などについていけるわ
けもなく。声は聞き取れても、脳の中ではそれは意味のある言葉に変換できず、ただただ、
アルベルと騎士の会話を聞いているだけだった。
「…はい、わかりました。では、こちらの書類はあずからせていただきます。…それとで
すね、アルベル様」
「なんだ?」
「先程の女性の事は…本当なのですか?」
「そうだが?」
 間髪いれずに答えたアルベルに、騎士は少しうなり声を出した。
「…そう…ですか…。それでお見合いを断り続けていたのは納得がいきましたが…。その、
無礼を承知で質問いたします。その方と結婚するつもりはおありですか?」
「俺はな」
「………そう…ですか…」
 あっさり答えたアルベルに、騎士の声がまた難しそうになる。
「その、ですね。先程も申し上げましたが、侯爵令嬢との、その、お見合いというより、
結納も辞さないくらいの勢いなんですよ、侯爵側は。それを断るのは、まあ、アルベル様
だからできるところもありますけど」
 アルベルだから断れるというのも、彼の普段の態度がどんなものか伺い知れるところで
あるが。騎士はあれこれ考えていたらしく小さくうなっていたが、結論を出したらしい。
「……ふーっ……。…私が、申し上げるともう差し出がましいですね…。わかりました。
とにかく、今回の件はお断りします。ただ、アルベル様周辺に不愉快な噂がたつのは覚悟
して下さい」
「…どんな噂だ…」
「耳に入れない方がよろしいですよ。不愉快ですから」
 それもそうだと思ったらしく、アルベルは黙り込んだ。騎士はではと敬礼の声をあげて、
部屋から立ち去って行く。
 しばらく、執務室から疲れたため息が聞こえて。やがて椅子を引く音が聞こえると、こ
ちらに足音が近づいてきた。
 寝ていると思ったのだろうか。彼にしては静かに歩いて、ネルに近寄ってくる。頬にそ
っと触れられる指の感触。
 ネルはゆっくりと瞳を開けた。
「ん? 起こしたか?」
「……ん…。そういえば…何で来たか…言ってなかったよね」
「まあな。けど、無理するな」
「大丈夫…」
 ゆっくりと起き上がり、ネルはアルベルの方に身体を向けた。休んだせいか、だいぶ楽
になった。ふうと息をつくネルを見て、アルベルは近くにある椅子を引き寄せて、それに
腰掛けた。
「悪かったね…突然おしかけてさ…突然倒れて…」
「押しかけるのはかまわんが、倒れたのには驚いた」
「はは…」
 ネルは苦笑した。最近、体調が思わしくないのだ。
「ちょっとさ、話したい事があってさ」
「前もそんな事言ってたな」
「うん」
 静かに頷いて。
「あの……さ………」
 言いにくい事なのか、ネルは沈黙する。あまり気の長くないアルベルだが、根気よく彼
女の次の言葉を待った。
 ネルは目を閉じ、呼吸をして。本当に言いたい事の前の話を切り出した。さっきの話を
聞いていたから、返ってくる答えに恐れる事はないのだが。緊張はする。
「あんたさ…その………結婚する気は…ある?」
「さっきも同じ質問されたけどよ。俺はあるぞ」
 こうなるとアルベルは苦笑するしかない。それがいつだとか、具体的に考えていないの
ではあるが。そういえばそんな話してこなかったなとか、今更思い出す。別にずっとその
気はあったのだが、会っている時はそっちに考えが回らなかったので話題にしなかった。
「……じゃあ、…じゃあさ。あんた、こっちに来る気は?」
「は?」
 アルベルの顔がいぶかしげになった。眉間にシワをよせて、ネルを凝視する。
「その…さ、私も…仕事を途中でやめたくないんだ…。シランドに来る気はないかい?」
「ねえ」
 分かっていたことだけれども。間髪いれずに言われると寂しい。
「おまえなあ。俺だってこの国から動けねえんだぞ。そりゃ移動はできるけどよ。前の旅
で長い間留守にしてたツケがやっと払い終わったと思ったら、今度は新しいものをどんど
ん追加してきやがる。おまえんとこ行くなんて無理だ」
「やっぱり…」
 ネルはため息をついた。予想していたことだけど、本人の口からきっぱり言われると少
し悲しい。
「おまえの方は無理なのか?」
「あんたね。私だってそう簡単に休めないんだよ? 陛下に期待されてもいるのに、裏切
れないよ」
「じゃあどうすんだ」
「そのことを話そうと思ってさ」
「話すのかまわんが、話してどうにかなるのか?」
 アルベルの言葉は現実的で厳しい。こういうヤツだとわかっていたが、ネルは頭痛がし
そうだった。
「あんたの意見は動かないって事か」
「そうだな」
「どうすりゃ良いんだろう…」
 ため息をついて、ネルは顔に手をやって考え込む。
「俺はおまえがこのままあっちに帰らなくても、それでかまわんがな」
「あんたが構わなくても、こっちが困るんだよ!」
 アルベルの自分勝手な意見についつい大声になる。
「あんたねえ。せっかく国交が快復したのに、また駄目になるかもしれないじゃないか」
「知るか」
 アーリグリフの高官のくせに、国の事を考えてないような物言いである。国よりも自分
を選ぶと遠回しに言ってるようなものだが、ネルは素直に喜べなかった。
 さっきのお見合いの話だって、自分を迷わず選んでくれる事は嬉しいのだが、他の言い
方とか、自分の立場とか、相手の事とか。全然考えない発言には複雑な気持になる。
 嬉しいは嬉しいのだが、ネルの性格上、やはり手放しには喜べない。
「大体、こっちは人材相当やられてんだぞ。まあ気にくわねえやつがばたばたくたばった
けどよ。それでいて、おまえんとこはどうなんだよ。あのラッセルとかいう口うるさいの
がいたし、てめえの同僚だってありゃデキるだろ。エレナとかいう怪しい女も相当なもん
らしいじゃねえか。アドレーのおっさんは煙たがられてるようだが、性格はともかく実力
はあるだろ」
「……………」
 そう言われるとネルは反論のしようがない。
「おまけにそっちは、水にもメシにも寒さにも困る事はねえだろうが」
 そこまで言われては反論の余地もない。性格はアルベルの方がはるかにワガママなはず
なのに、そんな事言われるとごねているのが自分のような気さえもしてくる。
「…まあ、こっちはこんな環境で、てめえんとこはそういう環境だがよ…」
 少しだけ言いにくそうなアルベルの言葉。それはネルも承知している。別にそこを問題
にする気は彼女にはない。
「いや…うん…。そっちは良いんだよ…。ただ…さ…」
 自分の国。仕事。尊敬する女王。大切な親友。腹心の部下達。母親。等々すべてを裏切
らねばならぬのがつらかった。数で言っても、大きさで言っても、そのすべてを思えばこ
の男一人の存在など天秤にも乗らぬはずなのに。計算しなくてもわかる事なのに。
 旅を終えたあたりは漠然とした不安で、今では色濃い悩みの存在で。
「ねえ、あんた。こっちの来るのは本当にダメなのかい?」
 そんなに思い詰めた瞳で見つめられると、アルベルも困るのだが。
「あのなあ。たとえ、俺がそっちに行ったとして、おまえ、俺にどうしろってんだ?」
「………………」
 言われて、ネルはかたまった。確かに、アルベルがシーハーツに来て何をすると言うの
か。まあ、実力はあるから、職は捜せばどうにでもなるとは思うし、ネル自身、アルベル
を一生養ったって構わない。アルベルは嫌がるだろうが。
 なにより問題なのは、彼がやってきた事である。いくら和平を結んだとはいえ、アーリ
グリフとの確執などそう簡単に拭えぬし、「歪のアルベル」の印象はシーハーツ国民にとっ
てとことん悪い。クレアだって部下のファリンだって嫌がる程なのに。というか自分だっ
て憎んでいたくらいなのだが。
 この人当たりが悪く、人付き合いも下手くそな男が、そんな環境に馴染めるわけもない
だろう。
 なんでこんな面倒臭い男に惚れたんだろうと思うが、自分の事である。この心がどうに
かなるくらいなら、ここにいないし、悩んでもいない。
 またもネルは頭を抱えてしまった。なんだか、あのロザリアが心底羨ましくなってきて
しまった。最近全然会ってないが、結婚式の時のあの幸せそうな笑顔が思い浮かんだ。
 そういえば、あれは彼女の方からアルゼイ王に申し込んだんだっけなどと、ネルの頭が
現実逃避をちょっとはじめた時だった。
 アルベルはネルを真っすぐ見つめて、いつもの低い声で言った。
「来い」
 短い言葉だったが、それが何を意味してるか、ネルにはわかっていた。心がぐらぐらし
てきて、それに流されたらすごく楽だろうと思った。
「……ごめん…もうちょっと…考えさせて」
 目をぎゅっとつぶって、髪の毛をかきあげる。
 アルベルは小さく息を吐き出した。別に無理強いさせるつもりもないし、ネルも一緒に
なる事自体を嫌がっているわけでもないので。
 今は待つしか無さそうだ。
 そう判断した。



                                                            to be continued..