「そう…」
 クレアは自分の執務室で、ため息をついて報告を聞いた。彼女の前には例の新入りが書
いた報告書が置かれていた。
「やはり新入りですから。すぐにバレてしまったようですね」
「あんまり優秀な人材をそちらにさくわけにはいかないしね…」
 クレアは再度、疲れたため息を吐き出す。駄目元でやってみたが、本当に駄目だった。
「まあ、報告書一枚だけでも、書けただけマシとしますか」
「そうね…」
 報告書を手に持ち、もう一度、目を通す。そこにはアルベルについて調べられた事が書
かれてあった。こう、報告書の書き方もわりとなってなくて、初仕事の手慣れなさがうか
がえる。
「そう悪い人物では無さそうですね。報告書を読む限りは」
「そうみたいね」
 つまらなそうにそう言って、クレアは報告書を机の上に置く。
 なんてことはない。クレアが自分の特権を使ってアルベルを調べさせていただけだ。あ
くまで私事なので、有能な部下をそちらに使うわけにはいかないし、ネルの管轄みたいに
スパイ調査が得意な人員が少ない事もあり、結果的には失敗した。新入りの能力試しも兼
ねていたりもしたのだが。
 悪い人物ではない。おそらく、そうなのだろうとは思う。
 戦争中と言えども、鷹派のヴォックスと違い、汚い手を好まぬのは調べがついているし。
いつだか、ファリンを足蹴にした事があるそうだが、あれがヴォックスだったら間違いな
く二人とも即刻殺されている。なんだかんだとネル達を逃がしてくれたりしたのも彼だ。
彼の持つ雰囲気や言葉はともかくとして、行動だけを見るならそう悪い人物とは思えない。
 彼と直接話した事もあるし、多少信用ならないが、父親からも彼の人物評は聞いている。
いくらあの父親でも、本質的に人を見極める力に間違いはない。
 だから、悪い人物だとは思わない。しかしだからといって、自分の大事なネルの相手と
してどうかと言うと、それはまた別問題である。
 これは、自分のワガママかもしれないと自問自答を繰り返してきたけど。
「…けど、このままだとどうなるのかしら…」
「え?」
「いえ、ここだけの話よ。すまなかったわね。もうこの件は忘れて良いわ」
「はい」
 部下は頭を下げると、この部屋を去って行く。
 一人になると、クレアは肘をつき、手を組み合わせた。そしてその上に額を乗せた。た
め息は止みそうもない。

「えっとですねぇ…そのぉ…ちょっと…あんまり…その、ネル様には言いにくい事になり
そうなんですけどぉ」
 例の一件の事をそれとなくファリンに調べさせた後。彼女の言葉の歯切れは悪かった。
どうしたのかとネルは眉をひそめる。
 ファリンはため息をついた。
「あのぉ、怒らないでくださいね。お気を悪くなされるかも、しれませんけれどぉ。よろ
しいですかぁ?」
「…わかった。話しな」
「わかりましたぁ…。あの、ですねぇ。とりあえず、その子はウチの管轄じゃぁありませ
んですぅ。でぇ、ちょっと調べてみたんですよぉ。そしたら、そのぉ。どーも、クレア様
の所の管轄らしいんですよぉ」
「クレアの!? どうしてまた!」
 まったくの予想外の言葉に、ネルは思わず声を大きくしてしまった。
「それは、わかりませんけれどぉ」
 でも見当はつきますぅ。
 とか、残りの言葉をファリンは腹の中にしまいこんだ。
 あの旅から帰ってきたネルはだいぶ変わった。強くなっただけでなく、昔に比べて穏や
かになったようだし。なにより変わったのは綺麗になって可愛くなった事だろう。もちろ
ん、前々からはネルは美人だった。しかし、滲み出る雰囲気が変わったのだ。良い意味で
女っぽくなったとか、そんな感じだ。
 別にファリンでなくっても男ができたなと。わかるもんである。シーハーツのように女
が多い職場ではなおさらだ。
 その相手というのを、みんな罪のない噂をしては、きゃいきゃいしあったものである。
最初はフェイトじゃないかとか、クリフじゃないかとか適当に想像しては騒いでいたので
あるが。
 どうやらアルベルらしいとわかってくるとみんな静かになった。
 そりゃそうだろう。
 今では国交を結んでいるとはいえ、戦争をしていた記憶は新しい。それぞれ感情的にな
らざるを得ない事情を、大なり小なり抱えているものだ。その国の敵将アルベルの良い噂
は聞かなかったし、当のファリンなんて足蹴にされたのである。
 どうしてと聞きたいくらいに疑問だったし、本音はやめてほしかったり。ただ、当のネ
ルは男がいる事でさえひた隠しにしているようなので、何も言えなかったのだ。
 おそらく、みんなが快く思ってない事をわかっているからだろう。
 最近、ネルの様子が少しおかしい。
 もし、一番おそれている事が現実になった場合、ネルはどうするのか。それはネルにし
かわからないが、もし結婚するとなった時、相手の男がどんなものかくわしく知りたくな
ったのだろう。
 だから、クレアの特権を使って調べさせたのだろう。誰よりもネルの事を大切に思って
いるクレアなら、彼女の特権を使う事も辞さないはずだと。
 ファリンはそう思ったが、ネルを前にしてそんな考えなど言えるはずもなく。本気で困
惑して悩みこむネルを見て彼女も困った。
 そして、しばし考える。
「あのぉ、ネル様ぁ」
「ん?」
 ファリンに声をかけられ、考えを中断する。
「どうしてぇ、カルサア修練所を調べてる人がいるってぇ、わかったんですかぁ?」
 我ながら意地悪な質問だと思った。別にネルを苦しませたいわけではないのだが。
「えっ…。その…、このまえ、アーリグリフに行った時にちょっとね」
「…アーリグリフとぉ、カルサア修練所ってぇ、わりと離れてますよー」
「……………」
 ネルがかたまってしまった。さて、彼女はどうするのであろうか。
 ファリンが思っていたよりも早く石化を解かし、ネルはため息をついた。
「隠し通せるものでもないか…。そこにね、ちょっと、……その、付き合ってる人がいて
ね…」
 ネルは、案外早くに告白して、ファリンも少し驚いた。
「…もしかしてぇ…」
「…もう、わかってるみたいだね…」
 ネルもだてにファリンの上司をしているわけではない。さっきの言い回しといい、この
態度といい、相手が誰なのか、バレているのだろう。ネルは大きくため息をついた。
「…ごめんね。あんたたちを裏切るつもりがあったわけじゃないし、あんたたちがどう思
っているかも知っていたのにね…」
 疲れたように手のひらを顔に押し当てて、すまなそうな瞳でファリンを見る。ネルを追
い詰めてしまったかと、ファリンもどきどきしてきた。
「そのぉ…いろいろ…あったんですね…」
「うん」
 ネルを気遣ってそう言うと、彼女は困ったような曖昧な笑みを浮かべた。
「あのぉ、クレア様の真意はわかりませんけどぉ、たぶん、そこなんじゃないかとぉ、私
は思いますぅ」
 クレアを悪く思いたくないだろうし、思ってほしくないファリンはそう言った。
「…そっか…。そういう…ことか……」
 やっと理解して、ネルは疲れたため息をはきだした。自分の事でそんなに心配をかけさ
せていると思うと悲しくなってくる。
 あまり、うだうだと悩んでいる時間は長くなさそうだと実感する。
 どうにか、しなければ。
 アルベルの意見を少し聞きたかったけど、なんだか邪魔されてしまったし。
 ネルは奥歯をかみしめる。
「わかった。悪かったね。手間かけさせて。心配もかけたみたいだね」
「ネル様…」
 ファリンはネルのためなら喜んで命を差し出す覚悟くらいある。囮覚悟で捕まった自分
達のために、単身でも乗り込んできてくれる上司などそういない。そのネルが幸せになる
というなら、何でもしても良いと思っているが。
 でもなんであの人なんですかぁ。
 とは思うのである。
 しかし、ネルを見ていると、そうも言ってられなさそうだ。自分も覚悟を決めなければ
ならないか。
 ファリンは知らず、胸の前で拳を握り締めた。



                                                            to be continued..