「ふーっ…」
 椅子の背もたれにもたれかかり、アルベルは息を吐き出した。
 先程デスクワークをやっと片付けた所だ。そろそろみんな寝るような時間だ。
 一昨昨日はアーリグリフ城で会議、一昨日と昨日とかけてベクレル山で魔物の掃討、今
日はカルサアの本拠地で兵士の訓練とデスクワーク。この前休んだのはいつだったか頭の
中で考えてみる。
「………おい…」
 思わずむっくり起き上がった。
 ここ1カ月、1日たりともとってない事に気が付いたのだ。
 それでも体が動くんだから、あのときつけておいた体力は無駄ではなかったという事か。
とはいえ、休みをとったとしても、どうせ1日中寝るしかないのだが。
 まあ、仕事量に関してはウォルターや国王も似たような状況だろう。一番若くて、体力
のある自分が休むわけにもいかないか。
 カタン。
 自分の背後からわずかに音がする。そこには窓しかなくて、誰かが窓から入って来たの
だ。振り返りもしないで、声をかける。
「今日も寄り道か?」
「まあね」
 椅子を引いて、振り向くと、そこにネルが立っていた。
「どうした?」
「ちょっとね。近くに寄ったから、顔を見にきただけ」
「泊まってくんだろ?」
「無理だね。そんな時間ないよ」
 苦笑して、ネルは大きな執務机に腰掛ける。
「てめえも仕事づけか」
「まあね。でもまあ、休みはちゃんともらえるから」
「そうかよ。こっちは1カ月休みナシだ」
 書類がなくなった机を横目で見やる。
「そう…」
 アルベルが仕事づくめなのは見てとれた。平気そうな顔をしているが、どことなく疲れ
ているようだった。体力はある男だから、おそらくあと1カ月こき使われても倒れる事は
なさそうだが。
「……あの……さ……」
「ん?」
 話しかけはしたものの、言いにくいのか、ネルは口をつぐんでしまい、うつむいたまま。
様子が変だと察したか、アルベルは眉をしかめたまま、彼女の次の言葉を待った。
 コンコン。
「!」
 ノックの音。ネルは慌てて飛び上がり、天井にはりついた。本当は隣に続いているアル
ベルの私室にでも逃げ込めば良いのだが、慌てていた。
「なんだ」
「お茶とお夜食をお持ちしました」
「ああ…。入れ」
「はい」
 新入りが精一杯の愛想笑いを浮かべて、お茶と軽食を乗せたお盆を手に入ってくる。
「失礼します」
 会釈して、新入りは執務机の上にティーセットと、パンとチーズを乗せたお皿をお盆ご
と置いて、そしてまた会釈して部屋から去って行った。
 足音が遠のいたとわかると、ネルはほっと息を吐き出しながら、天井から降りてくる。
「身軽なもんだな」
「まあ、仕事だからね」
 あっと言う間に天井に張り付くという芸当はアルベルにはできない。まあ、逃げ隠れす
るのは得意ではないし、本職でもないから当然と言えば当然か。
「で?」
 夜食のパンに手をのばし、食いちぎりながら、アルベルはネルに話の続きをうながす。
泊まれないほど時間がないのに、わざわざやって来るという事は話をしにきたのだろう。
それくらいなら、アルベルでもわかる。
「ああ…」
 パタパタパタパタバタン!
「すいません! お盆忘れました!」
 実はアルベルの執務室に入ったのは初めてで、緊張のあまり新入りはポカミスをやらか
したのだ。普通、お盆ごと置いていくものではないのだが。アルベルもアルベルでそんな
事気にしないので、注意もしなかった。
 歩いてる途中でそれに気づいて、ノックも忘れてアルベルの執務室に飛び込んだのであ
る。
「あっ…!」
 部屋の中にいたネルがかたまった。新入りもかたまった。アルベルは一人、少しだけ驚
いた顔をするだけだったのだが。
 どうせこの修練所では自分がトップである。女を連れ込んでいる事自体もみ消せるし、
そもそもそれがどうしたと言うところなのだが。ネルが気にするので、彼女が隠れようと
する事に特に何も言わなかっただけで。
「ネ、ネル様!?」
「…え…?」
 新入りに名前を呼ばれ、ネルはかすれた声を出した。新入りにとって、クリムゾンブレ
イドであり、封魔師団「闇」のトップであるネルは雲の上の人で、憧れ中の憧れであった
のだ。
 隠密服のりりしい姿。ロザリアの結婚式でも見せた麗しいドレス姿。ネルはわりと女に
も人気があり、新入りもファンクラブの一人だ。ナンバーが4ケタなのが彼女の不満なの
だが…。
 その憧れのネルがアルベルの執務室にいるのである。思わず胸の前で手を組んで叫んで
しまってから。ネルとアルベルの視線に気づいた。
 やばい……。
「おい…。なんでおまえ、こいつの名前を知ってるんだ?」
「あ、え、あ、その、は、はい。えっと…」
 ネルがシーハーツでも有名なら、アーリグリフでもそこそこ有名だったりするのだが、
アーリグリフではシーハーツほど顔が売れてるわけでもない。とはいえ、興味のある連中
ならネルの顔と名前くらい知ってるものなのだが、それは、大体が男だったりするわけで。
 というか、アーリグリフ側の人間のはずが、隣国のネルに様づけするというのはおかし
いし、ネルを呼んだ時の様子など見ると、どうにもシーハーツの人間っぽい。なので、ア
ルベルは彼女を呼び止めたのだ。
「そ、その! ね、ね…ネル様って、あ、アーリリリグリフでも有名じゃないですか! そ、
それで、ととっても驚いて! しっ…、失礼いたしました!」
 新入りは激しくどもったあと、深々と頭を下げて立ち去ろうとしたのだが。
「おい」
 だが、アルベルに肩をつかまれた。
 新入りの目に涙があふれ出そうになった。

 執務室のアルベルが使っている椅子に座らせられて、新入りはただひたすらに縮こまっ
た。
「えと…あの…」
 上目使いにアルベルを見ると、なんだか怒っているように見えた。ネルの方はと言うと、
下っ端の方まではさすがに顔も名前もわからないので、新入りの事を知らなくて、怪訝そ
うな顔で彼女を見ている。
 もう本当に新入りは泣きたかった。というかもう半分くらい泣いていた。
 アルベルが女を連れ込んだのを見て、驚くのは普通だったかもしれない。だがその驚き
方が尋常じゃなかったし、ネルの名前と顔を知っているのである。そこを怪しまれている
のだが、新入りの頭はパニックを起こしているので、そんな事はわからない。
「で?」
 アルベルは多くは聞かない。うながすだけだ。どうせすごんだところで泣かれるのはわ
かっていたし、尋問の趣味も無いし。だが怪しいは怪しいので。
「その…あのぅ…」
 ネルに助けを求めるなど言語道断だろう。だが、どうして良いかわからず、ただただ混
乱するばかりだ。
「ごめんなさい!」
「謝らんで良い。何を謝っているんだ」
「そ、それはその…」
 あなたを密かに調査しているからですなどと、口がさけても言えなくて。
 アルベルはらちがあかない新入りにイライラしてきた。腕を組んで、不機嫌そうに息を
吐き出した。
「す、すみませんです」
「だから、何を謝ってるんだ」
「そのう、だから、そのう…」
「…………」
 アルベルは怪訝そうな顔をしているネルをちらりと見る。新入りの言動を見て、少し見
当がついているのだ。
「……俺はあんまり気が長い方じゃない」
「ひっく!」
 苛立ちを隠せない声に、新入りは怯えて縮こまった。
 死ぬんだわ。私ここで、スパイってバレて死ぬんだわ。そりゃそういうのも覚悟して入
ったけど、こんなにあっさり死ぬ事になるなんて!
「で? おまえはこいつを知っているのか?」
「え? 私かい? 知らないけど…」
 ネルは首をかしげる。なぜ自分に聞かれたのか、ちょっとわからなかったようだ。
「じゃ、おまえの知らないヤツが、ここにまぎれこんでるって可能性は?」
「………………あるかもしれないね…」
 しばし考えていたが、アルベルの言いたい事がやっとわかって、ネルは疲れたため息を
はきだした。
「私だって全員を把握してるわけじゃない。そういうのはファリンに任せてるからね」
 はうっ!
 新入りは息を飲んだ。ファリンと言えば、ネル直属の部下で、新入りだって名前を知っ
ている上層部ではないか。
「どういう理由でここを調べてるんだ? 言っておくが、こっちはてめえんとこをどうに
かするようなヒマなんぞねえぞ」
「私だって知らないよ。こっちも国内の事で手一杯で、あんたんとこにまわす余裕なんか
ないはずなんだ」
 さすがに不機嫌なのは隠せずにネルにそう言うと、彼女は疲れた様子で首を振る。
「じゃあ、おまえとは違う管轄って事か?」
「だろうね。報告くらいは私に入るはずだ。大体あんたんとこ調べたって何も出てこない
くらい、知ってるし」
 隠し事のできないアルベルと付き合っているのである。もしそんな動きがあったなら、
ネルなら感づいてるはずだ。
「心当たりもねえのか?」
 新入りを無視して、彼らだけで話がすすむ。
「本当に無いんだよね…。ねえあんた」
「は、はいいい!」
 憧れのネルに顔を近づかれ、新入りは顔を赤らめて背をビシッとのばした。理由を聞こ
うとも思ったが、自分が彼女の立場なら、ひたすら困るであろう事は想像がいく。さっき
からこんなに怯えているし、どうやら同じ国内の者で、自分たちの下の方であろう事がわ
かると、聞くのにどうにも忍びなくて。
 ネルも困ってしまった。
「困ったね…」
「とりあえず。俺としてはあんまり気持の良いもんではないんだがな」
 それはそうだろう。調べられているというのは気持の良いものではない。
 しかし、こういうのはどうやって紛れ込むというのか。
 大体の人事などは部下に任せてあるし、ただの配膳係ならなおさらアルベルが口をはさ
むものではないので、わかりようもないが。
 ネルあたりに聞けば多少は教えてくれるのかもしれないが、やはり気持の良いものでは
ないので、知らない方が良いのかもしれない。
「あー…そうだね…」
 ネルは腕を組んで考える。ここは自分がどうにかした方が良さそうだと判断する。それ
にここを調査している本当の理由など、下っ端なら聞かされていない可能性も高い。
「ともかく。この子をどうするかだけど…」
「ひくっ!」
 自分の処置の行方を聞かされると知って、涙をこぼしながら新入りはまた縮こまった。
「ま、クビはしょうがねえな」
「それはね…」
 可哀想だけど、それは仕方がない。
「ううっ。ごめんなさいごめんなさい!」
 とうとう新入りはべろべろ泣きながら、謝りだした。
 アルベルは疲れたため息を吐き出した。悪い娘ではないのだろう。だが、こうもだくだ
く涙を流して泣かれるといろいろと通り越して呆れてしまう。というかスパイとして激し
く無能ではないのか。はっきり言うと向いてないだろう。
「まあ、おまえは今日づけでクビだ。理由は言わなくてもわかるだろ?」
「は、はいい…」
 もしかすると、今回の失敗で本職の方もクビになってしまうかもしれない。そう思うと
新入りは涙が止まらない。しかし、命が助かっただけでもマシかもしれないとも思う。
「あ…あとで、じ、辞表…だ、だしゃしぇて…いただきましゅ…」
 相変わらず涙をだくだく流して、鼻声で頭を下げる。
「もういい。行け」
「うっうっ…。い、良いんでしゅか…?」
「いいから。行け」
 呆れ果てた声で、アルベルが言う。なんだかためこんでいた疲れがどっと出た気分だっ
た。
「ご、ごめんなしゃいです…」
 頭をぺこぺこ下げて、新入りは執務室を去って行った。
 パタンと扉が閉まり、ぱたぱたという足音が遠のいて行く。その足音も聞こえなくなっ
てから、ネルが深いため息をついた。
「あの子の事は、こっちで調べておくよ…。本当になんでここを調べてるか、私にもわか
らないんだ」
「そうか」
 どうやらそれはウソではないらしい。アルベルもそれを察して、疲れたため息を吐き出
す。
「あーあ…。なんか、どっと疲れが出てきやがった」
 今まで新入りが座っていた椅子に腰掛け、天井を仰ぎ見る。
「なんか、私も疲れた…。調べる事も増えたし…もう帰るよ…」
「ん? 話があるんじゃなかったのか?」
 言われて、ネルはその事を思い出した。でも、もうそんな気持でもないし、そんな空気
でもないようだ。彼女は静かに首を振った。
「今度にするよ…」
 座っているアルベルに近づいて、そっと口づける。そんなネルの首の後ろに手を回す。
「んっ…。本当に…今夜はだめなんだ…」
 胸にのびてきた手をつかんで、困った顔をする。そんな顔をされては、アルベルもあき
らめるしかない。
「じゃあね」
 窓のへりに足をかけて、振り向くと、夜の闇へと消えてしまった。あとは、白いカーテ
ンが夜風ではためくのみだった。
 それをぼーっと見送っていたアルベルだったが、やがて椅子から立ち上がり、静かに窓
を閉めた。

 ちなみに。
 漆黒の軍団長アルベルが新入りの配膳係に手を出してやめさせたという、著しく不名誉
な噂が、しばらく流れる事になった。



                                                              to be continued..