「…………」
 ネルは少しだけ緊張した手つきで、唇に紅を塗る。鏡の中の自分は、いつも見る自分よ
りも飾り立てている。
 いつもは簡単に紅を差す程度だが、今日ばかりは入念に化粧をした。頭には髪飾り。胸
元にはネックレス。耳にはピアス。そして、目立ちはしないけれど、品の良いドレス。
「ネル。準備はできた?」
 こちらもいつもより随分着飾っているクレアが、ドアを開けて入ってきた。
「…まあね…。こんなもので良いのかな? どうにも慣れなくて…」
「良いんじゃないかしら。綺麗よ、ネル」
 そう言うクレアもいつもより綺麗だ。元々美人だが、やはり着飾ると美しい。その彼女
が微笑むのだから、たいていの男は参ってしまいそうだ。
 最低限の身だしなみとして、毎日鏡に向かうものの、こんなにも長時間鏡とにらめっこ
をしたのは、久しぶりなのではなかろうか。
「ロザリアはどうなってるかしらね。なんたって花嫁だもの。どれだけ綺麗になっている
かしら」
 共通の親友のめでたい日だ。長年想い続けた相手と結ばれる彼女は式が近づくにつれ、
不安と楽しみと幸せがないまぜとなる複雑な日々を過ごしていた。一日、一日を指折り数
える健気な彼女を見てると、どうにも応援したくなってしまう。
「けど、ロザリアが王妃様になるとはね…。もともと女王陛下の姪ではあるけれど…」
「予想だにしなかったわね。『憧れのお兄ちゃん』がアーリグリフ王だったっていうのも、
驚きだったけど…」
 ネルとクレアは連れ立って部屋を出て、長い廊下を歩きはじめる。
「あれは執念に近いって言って良いのかね?」
「良いんじゃないかしら…。なんたって、15年…、16年? だっけ? とてもじゃな
いけど、真似できそうにないわ」
「本当。15年前、自分が何してたかだってすぐに思い出せないのにさ」
「まったくだわ」
 クレアは苦笑して、ネルと顔を見合わせる。ネルもつられて苦笑した。
「ここね」
 花嫁控室と、簡易に造られた看板が扉にかかっている部屋の前で立ち止まる。
 ネルがノックすると、中から侍女が扉を開ける。
「ネル! クレア! 二人とも綺麗になったわね」
 花嫁衣装を侍女達に着付けられながらロザリアは振り返り、花のように微笑む。
「あんたこそ。さすがは王妃様だね」
 目を細めて、ネルは純白の衣装に包まれたロザリアを見る。
「ふふ。ちっとも実感はわかないんだけどね」
 歳はそう自分たちと変わらないのだが、今日のロザリアはまたとびきり可愛らしい。つ
られて、ネルもクレアも微笑んだ。
「じゃ、準備ができ次第馬車に乗り込んで。アーリグリフまでちょっと時間がかかるし、
アリアスとカルサアの国境付近で馬車の乗り換えがあるから」
 クレアは親友から、急に仕官の顔付きになって段取りを説明する。
「アーリグリフの馬車に乗り換えるのかい? 面倒だね」
「仕方ないわ。こちらからあちらへ輿入れする事になっているから。向かえが来てるはず
だから、そこからは私たちと女王陛下、大神官様と、ロザリアだけになる手筈よ」
「大丈夫なの? 私達だけで3人も護衛しきれるかい?」
 ネルは眉をしかめた。国の重役中の重役の3人の護衛が、ネル達の肩にかかる事になる。
「一応、アーリグリフからも護衛を派遣してくれるそうよ。こちらからの護衛は名目上私
たちだけの約束だから。もっとも、結婚式自体は国民全員見られるから、部下たちをその
中に紛れこませてるけど」
 クレアはすでに手を打っているようだった。
「どうですか、ロザリア?」
 シーハーツ国の女王、ロメリアは姪の様子を見にこの部屋にやって来た。
「伯母様」
 ネルとクレアはすぐにかしこまる。その様子を軽く片手で制して、ロメリアは姪に歩み
寄る。
「おお、随分綺麗になりましたね。まだまだ小さいと思っていたけれど…」
 普段あまり表情を変えないロメリアだが、この時ばかりは顔をほころばせた。姪の晴れ
姿に素直に感激しているようだ。
「女王陛下。ロザリア様の準備、完了いたしました」
 侍女達はロザリアの着付けを終了し、頭を下げた。ロメリア女王は静かに頷くと、クレ
アの方に向き直る。
「では、行きましょうか。後の者の準備は整っています」
「はっ」

 立派な馬車が街道を走る。国民達が笑顔で声援を送り、紙吹雪を撒き散らす。花嫁姿の
ロザリアは笑顔でそれに応え、女王も鷹揚に応えている。
 ネルとクレアは彼女たちのすぐそばにつき、油断なく警戒していた。彼女達のドレスの
下には短刀が隠されている。
 アドレーも護衛として一緒に乗り込んでおり、紋付袴がよく似合っている。というか、
和服系統でないと、この人には似合わないだろう。そして、当然のように腰には刀が飾り
でなく、差されていた。
 ペターニなどの都市を通り抜け、馬車は国境付近の村のアリアスを通っていた。
「そろそろアリアスをすぎますぅ」
 御者に化けて、護衛をはたしているファリンは乗っている面々に声をかける。馬車は女
王が乗っている馬車、花嫁が乗っている馬車と2台に別れていた。ちなみにもう一つの馬
車の方はタイネーブが御者を務めていた。
「じゃあ、アーリグリフ側の護衛がいるはずだけど…」
 クレアは馬車から身を乗り出し、前方をねめ付けた。
「来てらっしゃるみたいですぅ」
 なるほど。黒い鎧をつけた兵士たちが、馬車と一緒に待っているのが見えてきた。
 そして、女王と花嫁を乗せた馬車は、黒い兵士たちが待つ場所まで近付いてくると、ゆ
っくりと止まった。
「あなたがアーリグリフ側の護衛?」
「そうだ」
 クレアが馬車から身を乗り出すと、そこには不機嫌そうなアルベルがいた。
「あの男は…?」
 アルベルをよく知らない大神官は、怪訝そうに彼を目で指す。ネルは頭痛を我慢しなが
ら口を開いた。
「アーリグリフ『漆黒』の軍団長アルベルです…」
「あの男が…? 随分若いのですね…」
「ええまあ」
 未来の王妃や隣国の女王などの超重役を迎えるのだ。将軍級の彼が来てもなんら不思議
はないのだが…。
「手筈は聞いてるだろ? さっさと終わらせてくれ」
 面倒くさそうに、目が半開きのまま、控えている立派な馬車を顎で指し示す。
「あんたねえ。仮にもあんたの国の王妃様を出迎えるんだろ? もうちょっとその態度ど
うにかしたらどうだい」
 言っても無駄なのは百も承知していたネルだったが、やはり言わずにはいられなかった。
顔を出したネルを、アルベルは一瞬惚けたように眺めていたのだが。
「ハッハッハッ! おぬしも相変わらずだのう!」
 豪快な笑い声をたてて姿を見せたアドレーを見るなり、露骨に嫌そうな顔をした。
「と、ともかく、こちらへどうぞ」
 漆黒の騎士が、花嫁達を出迎えるべく、馬車を用意する。アーリグリフ側の馬車も立派
は立派なのだが、剛健な感じで華やかさは欠けるものだった。こういう細かい所でも文化
の違いが滲み出ているようだった。
「護衛の方、大丈夫なんだろうね?」
 アーリグリフの馬車に乗り込むロザリア達を眺めながら、ネルはヒマそうに突っ立って
いるアルベルを肘でつっついた。
「あ? ああ。大丈夫だろ。こっちでも選りすぐりを集めた。それに、俺もおまえも、あ
のアドレーのおっさんもいるんだ。どうにかなるだろ」
「それは…そうだけど…」
「しかし、今日は随分動きにくそうな服だな」
 着飾ったネルが珍しいのか、アルベルはしげしげとネルを見る。その視線が何故か気恥
ずかしくて、ネルはちょっと視線をそらした。
「いつものあんたのアレよりはマシだろ」
「うるせえ」
 そして、アルベルの方も、いつもとは違ういで立ちだった。細部に飾りがついた、アー
リグリフの軍人用の礼服を身につけ、普段受ける印象とはだいぶ違う。元々顔が良いのは
わかっていたが、ちゃんとしたものを身につければ、格好よくなるという典型みたいな感
じだった。
「おう、準備できたぞ!」
「ん? わかった。ホレ、おまえも乗れ。出るぞ」
 アドレーに声をかけられ、アルベルはそちらに顔を向けると、ネルに視線を戻す。ネル
は頷くと、花嫁側の馬車に乗り込もうと小走りになる。ふと振り返ると、アルベルがルム
にまたがって、指示を飛ばしているところだった。
「どうした? 乗らねえのか?」
 固まったように自分を凝視しているネルに気づいて、アルベルは不思議そうな顔になる。
「…いや…、あんたって、ルムに乗れたんだね…」
「ぶっつぶすぞ!」
 ルムに乗れるとは思わなかったのでそう言うと、怒鳴られてしまった。
「ったくよ…」
 ぶつぶつ言っていたが、すぐに自分の仕事に戻ったようだ。
「ねえ、ネル。大丈夫かな?」
 ネルがロザリアの隣に乗り込むと、彼女は不安そうにネルを見つめた。
「え? …もしかして、アルベルの事?」
「なんだか…怖そうな人だけど…」
 ロザリアも一応アルベルの事を知ってはいたのだが、話した事とかあるわけでなく、よ
く知らないのも無理はない。
「あー…。そうだね…。まあ、大丈夫だよ。ガラも口もどうしようもなく悪いけど、そん
なに悪いヤツじゃない。あいつの言ってる事なんて、ほとんど聞き流せば良いよ」
 苦笑して、ネルはぱたぱたと手を振った。敵となれば容赦ないが、味方なら存外優しい
事を彼女は知っている。
「おまえら、いくぞ」
 緊張感のカケラもない掛け声をかけると、ルムに鞭くれて軽く走りだす。そのアルベル
に続いて馬車と騎士団が走りだす。アルベルがいるので漆黒ばかりだと思っていたが、全
員ルムに乗っている所を見ると、もしかする風雷もかなり含まれているのではないかと思
われた。
 しばらくは何事もなく進んだのだが…。
「…ん?」
 ふと、アルベルはかすかな殺気を感じ、空を見上げる。
「ちっ! 妙な事を考えやがって…」
 ルムのスピードを下げて、アルベルは馬車の隣についた。窓際にいたネルは何事かと窓
から顔をのぞかせる。
「どうしたんだい?」
「殺気が取り囲んでやがる…。多少暴れるかもしれん。中の連中にしっかりつかまるよう
伝えとけ」
「え?」
「こっちは俺が何とかする。そっちはおまえがどうにかしろ」
 それだけ言うと、アルベルは2台目の馬車に合わせてルムのスピードを遅らせた。
「ちょ、ちょっと…!」
 窓から顔を出して、後ろを見ると、どうやらアドレーかクレアあたりに何かことづけて
いる姿のアルベルが見えた。
 そして、ふわりと大きな影が3つほど、大地に陰りをさす。
「…直接的なうらみはないが、お命ちょうだい!」
 馬車の目前に大きなエアードラゴンを駆った騎士が3人、ぶわりと馬車を取り囲むよう
に舞い降りた。
「てめえ、誰の差し金だ!」
「ん? アルベルだと! どういう事だ!? 話が違うではないか!」
 アルベルが腰の刀を抜き放ち、中央の騎士に向かって怒鳴りつけると、その騎士は戸惑
ったように後ろにいる男に顔を向ける。
「いや、俺も聞いていない!」
「直前で変わったんだよ。残念だったなあ! クソジジイでなくてよ!」
 言うなり、ルムを操り、アルベルは3人の騎士たちに突進する。
「くそっ! 段取りが狂ったではないか!」
「逃すかよ!」
 慌てて退散しようとする一人に、ルムの上から飛び上がり、斬りつける。
「グギャアア!」
 その切っ先がエアードラゴンの足を薙いで、たまらなくなって、エアードラゴンはのた
うちまわる。
「う、うわああ!」
 バランスを大きく崩して、そのエアードラゴンに乗っていた騎士が地面に落ちる。
「逃げるぞ! 急げ!」
 助ける見込みがないと悟ったか、二人は逃げ出そうと高度を上げる。
「捕まえとけ!」
 地面に転がった騎士を目で指して、アルベルが指示を飛ばす。
「サンダーストラック!」
 一人を置いて逃げる二人に、今度はネルの雷撃施術が炸裂した。はるか上空で雷がばち
ばち鳴っている。
「よーし! ワシもやるぞ!」
 アドレーが愉快そうに、馬車から身を乗り出した。そして、彼が繰り出した施術はとい
うと…。
「ロックレイン!」
 がらがらがらざしゃらららああ!
「ギャアアアアア!」
 上空の方で悲鳴が聞こえる…。が、こちらにも岩のかけらがバラバラ降ってくるではな
いか。
「阿呆! なんてモンを使いやがるんだ!」
「うわああ! 岩が! 岩が降ってくるうう!」
「急げ! 効果範囲からぬけろ!」
 全員大慌てでルムを走らせる。あんまり急がせたものだから、馬車の乗り心地は最悪だ
ったという…。

                                                                   to be continued..