あれからどれくらいの時間が過ぎたか。彼女と一緒にいた時間は、いや、サルーインを
倒した仲間との旅は、まるで夢のような時間だったさえ気がする。
 グレイは相変わらずの冒険者稼業を続けていた。
 あのとき、クローディアからもらった指輪は売らずに、銀の細い鎖を通して首からかけ
ていた。実際、グレイの指には小さすぎる。
 あれから、色んな場所に行った。あちこちを旅し、依頼を受け、宝を探し、風の向くま
ま気の向くままの旅を続けている。
 今は、リガウ島にいる。
 風の噂で、メルビル皇女が今度婚約するという話を聞いた。
 そんなものだろうと思う。皇帝の一族というのは、そういうものだ。なにがしの政略結
婚に使われ、帝国のための礎となる。
 時々、不意に襲われるあの虚脱感と喪失感。
 気づかないようにしていたが、どうやら自分にとってクローディアは随分と大きな存在
になってしまっていたようだ。
 あの時、バーバラの言った言葉に苦笑する。
 彼女は、グレイにとって、クローディアがどれだけの存在であるか、見抜いていた。
 けれど、どうしろと言うのだ。
 一介の冒険者と皇女である。
 どうしようもない。
 冒険者でにぎわうリガウのバーの片隅で、グレイは静かに酒を飲んでいた。
 最近、気が付いたのだが、自分は何かに疲れるとこの東方の島に足が向いてしまうらし
い。それが何故なのか、自分では考えないようにしているのだが。
 ふと、どこかで聞いた弦楽器の音が流れ出す。
 顔をあげれば、見知った顔の吟遊詩人が、ツインネックのギターをかきならし、その喉
を披露していた。
 これは、何の曲であったろうか。どこで耳にしたか忘れたが、どこかで耳にした記憶が
あった。
 ギターの音と、詩人の声が奏であい、耳に心地良い。実際、あれだけさわがしかったバ
ーの中が静まり、全員詩人の歌に耳を寄せていた。
 じゃん…という、ギターの余韻を最後に、詩人の歌が終った。
 いつもなら、こんな事はしないのだが、グレイは気まぐれにポケットのコインを指では
じいて、飛ばした。コインは詩人の手前に置いてある小さな箱に投げ入れられる。
「ありがとうございます」
 目深にかぶった帽子を脱がないまま、詩人は頭を下げる。それから、次々にコインなど
が投げられ、手渡され、拍手と称賛を浴びる。それくらい、今回の歌は良かった。
「お久しぶりですね」
 客の称賛が終った後。吟遊詩人はグレイの席へとやって来た。
「相変わらずだな」
「ええ。おかげさまで」
 この吟遊詩人の正体が何者であるか。銀の英雄ミルザと同じ試練を受けたグレイは、そ
れを知っていた。
 グレイがそれを承知なのをわかっている上で、詩人は何事も無いような態度で、彼の隣
に腰掛ける。
「さっきの歌を気に入っていただけたようで、光栄です」
「そうか」
 吟遊詩人はどこか飄々とした調子で言い、グレイの方はそっけない。
「実はあの歌、あなたのために歌ったんですよ」
「……どういう意味だ?」
「再会を祝して……というのもありますし…。ね」
「ん?」
 含んだような物言いに、グレイはわずかに顔をしかめた。
「あなたの首にかけられている物が、以前の持ち主に会いたがっているので、教えてあげ
ようと思いまして」
「………………」
 誰にも言っていないはずのこの気持ちを見透かされ、グレイは眉間のシワを深くした。
相手が相手だから、バレるのも仕方ないかもしれないが、それにしても、立ち入りすぎて
いないか。
「噂を耳にした……。……物理的に無理だ」
「そんな事はないと思いますよ。あなたが残した功績がありますから、そう無下な扱いは
されないと思いますけどね」
 おせっかいだなと、内心舌打ちしながら、グレイは酒を一口、つける。
「別れてみて、失ってみて初めて気が付く事はとても多いのです。私だってそうです。そ
れは、あなただけではありませんよ」
 何が言いたいのか、わかるような、わからないような。それとも、わかりたくないだけ
なのか。
「その、おまえの言っている物を、以前の持ち主に返せと?」
「いいえ。ただ、会ってくれるだけで良いと思いますよ。それだけで、それは満足するは
ずです」
「………………」
 グレイは詩人から視線を外し、グラスを傾けて酒を飲む。彼にしては、結構な量をその
胃に流し込んでいた。
「噂は噂です。偽りとは言い切れませんが、かといって真実とも言い切れません。それだ
けで判断するのは危険な事ですよ」
 何も言わないグレイに、吟遊詩人はギターの調律をしながら、静かに話しかけ続ける。
 ぼろろーん
 軽くギターをかき鳴らし、調律の結果を確かめる。
「今宵の風は、南西へ吹くようですよ」
 ここから南西と言えば、メルビルだろう。そこまでして自分をメルビルに行かせたいの
か。グレイはうさんくさげな目で、隣でギターの調律を続ける詩人を見やる。
「一人は気楽で、良いものです。でも、二人でいるのも、三人でいるのも、それぞれの良
さがありますよ」
「何が言いたい?」
「私はおせっかいなのです」
「そのようだな」
 多少うんざりした気持ちも覚えて、グレイは最後の酒を飲み干した。
 ぼろれーん
 調律の具合を確かめ、詩人は弦を軽くつま弾いた。調律がうまくいったか、そのままぽ
ろぽろと弾き始める。
 鼻歌のような歌を口ずさみながら、静かにかき鳴らす。宵も深まったこの時間にはちょ
うど良い曲調で、どことなく、酒場の雰囲気もしっとりしてきたような気がする。
 詩人の性格はともかく、彼の歌う歌は、正直嫌いではない。
 グラスに残るわずかな液体を軽く揺らし、グレイは瞳を閉じて、詩人の口ずさむ歌を聞
き入る。
 詩人が口ずさむ歌は、遠い昔に感じた何かを思い出せそうで、思い出せないもどかしい
気持ちにさせてくる。
 そのもどかしさが小さな苛立ちになって、グレイは席を立った。
 カウンター越しのマスターに酒代を払い、静かに立ち去る。詩人は未だそこの席で歌を
口ずさんでいた。
 外に出ると、風は確かに南西に吹いていた。まさかわざわざ仕組んだわけでもないだろ
うし、ただの偶然というか、最初から吹いているのをかこつけたのに過ぎないかもしれな
い。
 元々、リガウ島はメルビルを経由しないと往来できない場所である。
 ここに来る前は、足早にメルビルを通り過ぎただけであったが、いつもの気まぐれを起
こして、仕事を探すのも悪くないかもしれない。
 グレイはふっと息を吐き出し、歩きだした。

 高齢のメルビル皇帝は、あまり先が長くないだろうという見解がほとんどである。優し
き皇帝は人民の支持も多いが、あくまで象徴としてだけの事で、もっと厳しい事を言えば、
政治や外交、軍事など部下に助けてもらわなければままならぬと、眉をひそめられている
所もある。
 その点に関して言えば、ローバーン公の方が優れているのかもしれない。しかし、どう
にも権力に固執しすぎているきらいと、手段を選ばぬ杜撰さがある。
 そんなだから、ミニオンに弱みをつかれてしまうのだろう。
 思ってはいても、口に出そうとは思わないグレイは、そんな事を考えながら、メルビル
の港を軽く見回した。空を見上げると、一点の曇りもない空である。
 最近、出現した皇女は、ほとんど人民の前に出てこずに、皇位を次ぐ気があるのかと噂
されている。
 無いんだろうと思う。
 クローディアの事だ。父親である皇帝の側にいようとは思うだろうが、次期皇帝の座に
は興味も無いだろうに。
 きちんと話し合えば、マチルダに女帝の座を譲る事も平気で承諾するだろうに、彼ら夫
婦は未だに愚策を弄しているようだ。
 この前は足早に去ったメルビルだが、今回は何か仕事をしてみようかと思う。
 仕事を探しにパブに向かおうかと、ぼんやり考えながらゆっくり歩いていた時であった。
「グレイ! グレイじゃないか!」
 聞き覚えのある声に振り向くと、相変わらずの調子のジャンが、嬉しそうに片手をぶん
ぶん振って、小走りにこちらに駆け寄ってくる。
 自分の何がそんなに彼に懐かれたのだろうか、グレイは時々不可解な気分にさせられる。
「久しぶりだな! 景気はどうだ?」
「別に普通だ」
 いつもの素っ気ない調子で答えるが、もちろんジャンはそんな事はちっとも気にしない。
「グレイ。君に是非頼みたい仕事があるんだが、頼まれてくれないか?」
「……なんだ?」
 あの詩人の言っていた事はこれだろうか。クローディアとの出会いも、この男によって
もたらされた。
「実は、さるお方の話し相手になってほしいんだ……って、ちょっと待て待て待て待てっ
たら!」
 仕事の用件を聞いて、無言で立ち去ろうとするグレイを、ジャンは必死で呼び止める。
「俺は冒険者だ。人と話し合うのが仕事とは言えない」
「そこを何とか頼むよ。そのお方は是非にと、君をご指名なんだ」
「いつ来るかわからない俺をか?」
「いやー…その、君を見つけたらって事でさ…。って、具体的にその方に依頼されたわけ
でもないんだが、君なら適任なはずなんだ」
 つまり、いつもの早計と突っ走ったおせっかいというヤツか。彼はその性格のおかげで、
何度も失敗しているが、持ち前の実力と周りのフォローと、結局、結果的に災い転じて福
となるような、不思議な悪運によってどうにかなっている。
 グレイが彼の尻拭いした事件の原因も、もちろんこの性格によるものである。
 それでも、憎めないのだから、得な男だ。
 本来なら受けるはずのない仕事なのだが、今回に限っては仕事をする気でメルビルに来
た。そんな気になっている自分がここでジャンに再会するのもまた奇妙な偶然で、グレイ
はリガウで会ったあの詩人の顔が一瞬脳裏をよぎる。
 神々にとって人間など、箱庭の人形なのかもしれない。それは、あまり面白くない事実
なのだろうが、ただ、以前の旅で感じた事なのだが、神は箱庭の人形に対して決して悪意
を持っているわけではないという事だった。
 自分の創作した物だからそれに愛着がある、という事だろうか。グレイだって、自分の
腰に修まる曰く付きの刀は、妙な愛着を持っているものだ。それに、神でなくとも人間だ
って、自分の作った物により愛着を持つのは別に不思議な事ではない。
 ここでつまらぬ意地を張るのもまあ悪くないし、神の厚意らしき偶然によって再会した
ジャンの依頼を受けてみるのもまた一興であろう。
 そこまで考えて、グレイはいつもの低い声を出した。
「……期間は? 報酬額はどれくらいなんだ?」
「受けてくれるのか!」
 どうやら乗り気になったらしいグレイに、ジャンはまるで子供のように顔をぱあっと輝
かせる。
「報酬額と仕事内容による」
「そうか。良かった。報酬額はもちろん、破格さ。期間は…そうだな、どんなに短くても
1週間は頼むよ。もう随分とお疲れのようだし、元気づけてほしいんだ」
 まだ承諾もしていないのに、ジャンはどんどん話しをすすめていく。しかし、言ってし
まうと口べたな自分に、さるお方の話し相手もないものだ。
「こっちだ」
 そして、やっぱりまだ承諾していないというのに、ジャンはにこにこ笑顔で歩きだす。
「おい」
「なんだい?」
「何故、俺なんだ?」
「あー…。その、さ。君の冒険談を是非に聞かせて欲しいんだ。随分と退屈していらっし
ゃるようだし、できれば、外の案内なんかもしてほしい。その時の護衛も兼ねて欲しいん
だ」
「……護衛か…」
 それを先に言ってくれれば、まだ納得したものを。
「大丈夫! 額は保証する!」
 ウソはつけない男だから、かなり実の良い仕事ではあるようだ。いまいち歯切れの悪い
口調が気になるが、大抵の仕事は完遂できる自信はある。
 ジャンは最初に警備隊の事務所に寄って、かなり重たく感じる革袋を、前金として渡し
てくれた。
 …どうやら、途中で仕事を蹴る事をしてほしくないようだ…。
 いささか怪訝な気持ちにもさせられるが、まあ、大丈夫だろう…。
 そして、ジャンの足はどんどんとエリザベス宮殿へと向かって行く。
 なんだかある種の予感を感じながら、グレイは歴史を感じる宮殿を見る。
「こっちだ」
 内部の者専用の通用門を通り、ジャンはずんずん歩いて行く。宮殿内でも、わりと地位
の高いジャンは、通りすがる人々に軽く挨拶される。そんな人々に元気に挨拶しながら、
さらに歩いて行くと、親衛隊長のネビルが向こうから歩いて来るのが見えた。
「あ、ネビル隊長…」
「ジャン。……そちらの方は?」
 こちらの顔も名前も知っているだろうに、そういう事を聞いてきたという事は、ジャン
が何故連れて来たのを問うているのだろう。やっぱり、上の許可をとらずに、ジャン一人
で突っ走った行動らしい。
「その…、あのお方の話し相手になってもらおうと…」
「…ああ…。そうだな…フム……」
 ジャンの言葉に、ネビルはすぐに納得して、顎に手を置いてしばし考え込む。
「…あの…? ネビル隊長…?」
 ネビルの顔色を伺うように、ジャンは自分よりも背の低い上司を、上目使いに覗き込ん
だ。
「ん? ああ、すまんな。では、お頼みしようか」
 その言葉によってネビルの許可が得られたとわかると、ジャンは顔を明るくした。
「それでは、隊長、失礼します。こっちだ」
 グレイも軽く会釈をして、ネビルとすれ違う。思案げな彼の顔付きだが、やがて何かを
あきらめたように首を振った。
 ジャンはどんどんと自分の知らない場所へと誘導していく。自分の記憶がただしければ、
この方面は貴族や皇族のいる部屋ではなかったか。下級兵士をしていた頃は、足を踏み入
れる事もなかったが、城の内部の大体は記憶している。
 グレイの中にうずまく、もしかしたらと思っていた想いが、歩くごとに確信に変わって
いく。
「こちらにいらっしゃる」
 そう一言言ってから、ジャンは一度深呼吸して、扉をノックした。
「あの〜、ジャンです。今日はお友達をお連れしました」
 ジャンの言葉で、グレイはこの中の人物を確信した。ここまで来れば、いやでも気づく。
今まで名前を出そうとはしなかったのは、この仕事をさっさと蹴られたくなかったからの
ようだ。
 ノックをしても、呼びかけても、中の人物は反応をしない。
「あの〜、入らせていただきますよ〜」
 許諾なしに勝手に部屋に入るのだ、相手の身分を考えれば極刑ものかもしれないが、そ
の点は大丈夫であろう。ジャンは遠慮がちに扉を開けた。
 少し質素に感じるが、歴史と年代を感じさせる立派な調度品が並び、豪勢な絨毯が部屋
いっぱいに敷き詰められ、エリザベス宮殿に相応しい部屋である。
「…おせっかいと思われるでしょうが、少しお話しでもされて、気晴らしをしていただけ
ればと思います。さ、頼む」
 どうやら、よくはわからないが困った事になっているらしい事を察し、グレイは小さく
ため息をついて頷いた。
「高くつくぞ」
「…その…頼む…」
 小声で苦言を吐くと、ジャンは苦笑して手を合わせて頭を下げた。
 中の人物はこちらに気づいているのかいないのか。大きな出窓に腰掛けて、寝間着のよ
うな白いワンピースを着て、ぼんやりと外を眺めていた。
 足音も吸収する、厚い絨毯を踏み締めて、グレイは彼女に一歩一歩近づいて行く。
「一体、何があったんだ?」
 いつもの声よりも少し大きめのトーンにして話しかけると、どこも見ていなかった彼女
の目の焦点が合ってきた。
「……グレイ…?」
 信じられないと言った表情で、ヘイゼルの瞳を大きく見開く。
 彼女は相変わらずの美しさで、服装と侍女達による手入れの成果か、以前よりもさらに
輝くほどに美しくなったというのに、鬱々としたその表情が台なしにしていた。
 腰掛けた出窓から立ち上がり、ふらふらと歩きだす。
 随分と元気のない様子に、グレイはため息をついた。
「食事はきちんと取っているのか?」
 以前のような、ついつい保護者的な言葉が出てしまう。さて、何を話したものかと考え
あぐねていると、クローディアは倒れ込むように抱き着いてきた。
 突然の事に驚いて、声も出ないグレイ。
 長く旅を共にしてきたから、身体の距離が近づく事など何度もあったけれど、意図的に
抱き締められた事は初めてであった。
 驚きのあまり、しばし身を硬直させていたグレイだが、やがてその硬直を解いて、ゆっ
くりと両手を彼女の肩にまわす。
 そっと抱き締めると、彼女の方は抱き着く腕の力を強めた。
「……久しぶりだな…」
 グレイもその腕の力を少し強めて、いまさらながらの挨拶を口にする。
 返事の代わりなのか、クローディアはグレイの胸に頭をこすりつけてきた。
「……あなたがいなくても平気だと思ってた……。一人でやっていこうと決めたのに。だ
めね……」
「一人でやっていく事と、一人で抱え込む事は違うぞ」
 一人が多いグレイだが、仲間の大切さは誰よりも知っている。いざという時の仲間の助
けがどんなに有り難いか、彼はよく知っていたから。
「……みんながみんな…あなたのようにはなれない。わかっていたつもりだけど、わかっ
ていなかったのね。私はあなたのようになりたかったけど…」
「俺の真似などしなくて良い。だから、おまえはおまえにできる事をすれば良い。手助け
はしてやる」
「…いつも…あなたに頼りっぱなしの自分が嫌で、人と話すのが苦手な自分が嫌で。どう
にかしようとやってみたけど…。……結局、あなたに頼っているのね…」
「人に頼る事は悪い事じゃない。一人でできる事とできない事は、現実にあるんだ。その
中で、自分にできる事をするんだ」
「……うん……」
 腕の中の彼女が可愛くて、愛しくて。やっぱり彼女に甘い自分を自覚しながら、彼女と
一緒にいる時間の方が、独りの時よりも満たされている自分に今更ながら気づいた。
 独りは気楽で好きだ。だが、二人でいるのも悪くない。
 いや、悪くないと言うより……。
 ちょっと麻薬のような感じで、少し危険かもしれない。
 この格別に感じてしまう柔らかさと温もりを抱き締めて、グレイは自分でもよくわから
ないため息をついた。


                                END ..and