グレイの疲れる夜が明けると、待ち望んでいた晴れ間がサンゴ海に顔を見せた。
「今日中には出港するそうだ」
「そう」
 鬱屈した日々を過ごしてきたが、それも今日で終わりだ。クローディアの顔にも晴れや
かなものが広がる。
 足止めをくらっていた人が多いので、船の中は混むであろうが、三等客室とはいえ、一
人一人ベッドはあるし、カーテンで仕切れる仕様になっている。少なくとも狭い床でクロ
ーディアと隣り合う、などという事はない。
 今まで、閉じ込められた日々だったため、忘れかけていたが、この船旅で彼らの旅は最
後になる。
 感傷的になる性分ではないけれど、寂しくないと言ったら嘘になる。
 三等客室のベッドは狭いが、独りの気楽さから、グレイは下着姿のままで、寝転んでぼ
んやりとしていた。
 この揺れで船酔いする人間もいるそうだが、グレイは今まで船酔いというものを経験し
た事は無かった。
 別に、大騒ぎする気にもなれない。自分の仕事が終わった。それだけである。
 それだけだ……。
 強引に目を閉じて、グレイは何とか眠ろうとする。ここのところ、あまりよく眠れない。
独りになったから少しは眠れるだろうと思ったが…。
 まあ、最近はろくに外にも出られなくて、鍛練もままならないから、疲れていないし、
少し身体がなまってもいるのだろう。
 一人でいる事を好む性分だが、そういえばここ最近、独りになる事は少なかったような
気がする。ガラハド達と別れてすぐにクローディアと共に行動する事になったのだから、
思い起こせば、独りになるのは久しぶりか。
 このところ、色んな事がありすぎた。
 冷却期間として、独りになるのも良いはずだ。
 そう考えると、あとは何も考えないように努め、グレイは瞳を閉じた。
 船の揺れと、潮騒の音が、妙に心地よく感じた。

 メルビルへはあっけない程に着いた。
「すぐに城へ向かうの?」
 船から下り、港をゆっくりと歩いていると、クローディアが静かに話しかけてきた。
「おまえがそうしたければ、そうしよう。寄り道するのも構わない」
「……そう……」
 頷いて、クローディアは前を向く。肩に背負った荷物を持ち直し、少し上を見上げた。
「……どこか、落ち着いた場所で食事がしたいわ…」
「…落ち着いた場所…か……」
 確かにグレイも食事をしたいと思ったが、パブあたりでは落ち着いたとは言えない。ま
さかこの旅姿で、瀟洒なレストランに入るわけにもいくまい。
 結局、住宅街にある、少しひなびた感じの食堂に入る事になった。城へまでは遠回りに
なるが、急ぐ事でもないので、それくらいの寄り道など構わないだろう。
 これが彼女との最後の食事だとかは、あまり考えないようにしていた。
 バーバラの言うように、クローディアがメルビル皇女となったらそう簡単に会えなくな
るだろうし、グレイも、わざわざ宮殿にまで訪ねて行こうという気にはなれない。
 淡々と食事を済ませ、二、三言の会話を交わす。
「……グレイ……」
 食後の、ゆったりとした空気。水を飲んでいたグレイに、クローディアは静かに彼の名
前を呼ぶ。
「…なんだ?」
「……あの……」
 何を言おうとしているのだろうか。クローディアは口を開き、何かを言いかける。だが
しかし、言葉にはならなかったようで、萎むように口を閉じてしまった。
「…………なんでも……ないわ……」
「そうか」
 彼女が何を言おうとしたのか。追求するつもりもないし、詮索するつもりもない。
「では、行くか」
「……ええ…」
 クローディアが頷くのを見届けると、グレイは席を立ち、勘定をすませるべくカウンタ
ーへと向かう。
 特にこれといった会話もしないまま、二人はエリザベス宮殿へと到着した。
 サルーインの信者達や、ゴールドマイン襲撃事件。皇帝の奇病を治し、メルビル襲撃事
件を解決など、彼ら二人はメルビルという国に対して様々な功績を残していた。そのため、
一般人など入れるはずもない宮殿へ、あっさりと入る事ができる。もっとも、クローディ
アの正体がわかれば、功績がなくても入れるのであろうが。
「……おまえは真っすぐ皇帝陛下の所へ行くと良い。俺は、ジャンの所で報酬をもらって
くる」
「……………」
 いつもなら、クローディアは静かに頷いてグレイの言葉にしたがっていた。いつものよ
うに「ええ」とか「わかったわ」という、淡泊な声が返ってくるものと思っていた。
 だが、クローディアは黙り込んだまま、じっとグレイを見つめていた。
「…どうした? 場所がわからないのか?」
 広い宮殿だし、何度も来ているわけでもない。わからないのも無理はないかもしれない。
「ならば、ネビル隊長の所にでも行けば案内してくれるだろう。パトリックでも良い」
 ジャンでは難しいだろうが、それくらいの地位の者となれば、簡単に皇帝の元へと案内
してくれるであろう。父娘と名乗り合えるまでには程近い。
「グレイ…」
 どこか、いつもと違った調子の声を出して、クローディアは手をのばす。そして、まる
で子供のようにグレイの服のすそをつかんだ。
「……? どうした?」
 その様子に、少し優しげな口調になり、グレイはもう一度問う。
「……あの……」
 クローディアは、まるであえぐように、口を開ける。何か言いたいのだろうが、どうに
も言葉が出ないようだ。
 その時である。
「ああ! どうしたんですか!? 二人とも!」
 賑やかというか、やかましい声に気づき振り向くと、ジャンが大股で颯爽とこちらに歩
いてくる。親衛隊隊員だというのに、いやに口調が軽々しい。
「最後の報酬をもらいに来た」
「ああ! そうだな。忘れるとこだったよ。…って、事は…」
 グレイが「最後の報酬をもらいに来た」という事は、護衛が終りという事であり、つま
るところ……。
「おお! もしかして、クローディアさん、ここにいらっしゃるという事は……。そーで
すか! そーなんですね! いやー、良かったなぁ! 皇帝陛下がお喜びになられます! 
ああ、じゃあ、早速謁見していただかないと! あ〜、ああ! キミキミ! この方をネ
ビル隊長の元へお連れして!」
 まだ何にも言ってないというのに、ジャンは一人でどんどん話しをすすめてしまい、そ
のへんを歩いている兵士の一人を呼び止めた。元からそのつもりで来たから、良いような
ものを、どうにも早計すぎるきらいがある。
「じゃあ、グレイ。こっちだ。すぐに用意できるわけでもないんだ。あっ! クローディ
アさん。失礼しますよ」
 どうにもおっちょこちょいなジャンだが、長年ここで親衛隊をやっているわけではない。
さっとクローディアに軽く敬礼して挨拶を済ませると、兵士の詰め所に来るようにグレイ
をうながした。
 何か言いたそうな瞳のクローディアが気になったが、グレイは彼女に、別れの挨拶のつ
もりで、軽く一瞥した。そして、ジャンに続く。
「いやー、驚いたよ。キミ達が本当にサルーインを倒したなんて〜。クローディアさんが
…おっと、もう様で呼ばないといけないんだな。クローディア様が、メルビル皇女がサル
ーインを倒した英雄の一人だなんて、帝国の未来は明るいぞお!」
 そんな事くらいで、帝国の未来が明るくなるわけでもないだろうが、あくまで、どこま
でも楽観的な男である。
 呆れはするが、憎めない。ジャンの人間性だろう。基本的に、彼は人間関係において、
敵を作らないタイプである。
「詰め所でちょっと待っててくれ。用意してくるから。ハハ、二人で宮殿内を歩くのも久
しぶりだなぁ!」
 一人でしゃべくるジャン。黙々と歩くグレイ。あの時代は、二人とも下級兵士であった
が、その様子は今も代わらない。
 大して返事はしないものの、ジャンの言葉にグレイはふと昔を思い出す。
 帝国兵に志願したのは若気の至りとまでは言わないが、とにかく剣を覚えたかったから
だ。我流では限界があると見えていた。
 兵士ともなれば、階級やら規則やらとやかましい。これも仕方ないとずっと我慢してい
たグレイだが、とある事件をきっかけに、これ幸いと辞めてしまった。
 続けていれば、ジャンと同じか、それ以上に出世できたのだろうが、性格的に、規則等
の厳しい兵士はグレイには難しい。
 たとえ生活が安定していなくても、弔う者がいなくても、世間の皆から忘れ去られる存
在であっても、グレイは自由を捨てられない。
 自分で選んだ道だ。後悔はしていない。
 なつかしく感じる詰め所に案内され、粗末な丸イスに腰掛けると、グレイは軽く手をあ
げて部屋を去るジャンを横目で見る。
 軽く腕を組み、窓から望む景色を眺める。
 ここからは港が見えた。何艘もの船が浮かび、人々がたくさん往来している。
 数時間もすれば、グレイもあのへんの一人になるのだろうか。
 報酬が手に入ったらどうするのか。どこへ行くのか。まだ具体的には何も決めていない。
ただ、ぼんやりとだが、ブルエーレに向かおうかとは考えていた。船で、自分としては落
ち着くリガウ島へ行くのも悪くない。
 何にせよ、宮殿を出てから考えよう。
 風の動きで、自分の気も変わるかもしれない。
 ふと、扉の向こうの足音に気が付く。もうジャンが来たらしい。
 がちゃりという、扉の開く音に振り向くと、ジャンではなくて、クローディアが立って
いた。
「…クローディア…?」
 ほんの少しだけ眉を寄せて、グレイは彼女を見る。扉を開けてクローディアが入ってく
る際、ネビル隊長の姿がちらりと見えたが、扉が閉じられるとすぐに見えなくなった。彼
が彼女をここまで連れてきたらしい。
「どうした?」
 自分には人見知りをしないとはいえ、「人間」である自分には、彼女もそこまで親しげに
接した事はない。自分も護衛として、彼女の保護者のように世話してきたが。
 木製の床に足音を立てて、クローディアは真っすぐ自分を見つめながら、こちらに近づ
いてくる。
「グレイ…。…あの…」
 顔付きも、体付きも立派に成人しているが、社会と隔絶された環境で育った彼女は時折、
ひどく幼く見える。調度、今みたいに。
「これ…」
 握り締めた拳を突き出され、その中に何かが入っているらしい事はわかった。なので、
グレイは反射的に手のひらをその拳の下に出した。
 開いた手のひらから、光る、小さなものが転がり落ちた。
「…これは……」
 珍しく、グレイの表情が変わる。驚きで見開かれた瞳には、サンゴの上品な指輪が映っ
ていた。
「クローディア、これは」
「もらって。私からあなたへの報酬よ」
「報酬はジャンからもらう。これは、受け取れない」
 このサンゴの指輪がどんなものであるのか。グレイはなんとなく知っている。
 クローディアが、皇女の証しとなる指輪のはずだ。
「それがあってもなくても、この私の身体に流れる血は変わらないわ」
「…それはそうだが、これは…」
「お願い。もらって」
「……………」
 静かだが、強い意志をこめられた言葉に、グレイはしばし言葉を失う。
「私の気持ち。…あなたは、私にたくさんの事を教えてくれたわ。どれもこれも新鮮だっ
た。そして、無口な私でも、ずっと気楽でいられるように気を使ってくれた」
「…それは……」
 おしゃべりな女は好きではないが、気にはしない。無口な女の方が気が楽だが、やはり
気にはしない。それぞれが勝手にすれば良いと思っていたが、そう受け取られていたとは。
「ありがとう」
「………………」
 真っすぐ見つめられ、グレイは何も言えなくなってしまった。
 だが、静かに首を振る。
「これは受け取れない。俺は仕事を遂行したまでだ。君の依頼は受けていない」
「お願い。受け取って。ワガママだと言うならそれでいいから。お願い」
「………………」
 グレイはウェイプで、お互い二人して床で眠った事を思い出していた。自分はあまり頑
固ではないと思ったが、案外そうでもないかもしれない。
 小さくため息をついて、グレイはそれを受け取る事にした。
 指輪の乗った手のひらを閉じて、腕を下げる。その動作は受け取ったという意志表示で、
クローディアはそれを見て、少しホッとした顔をさせた。
「…ありがとう…」
 礼を言うのは、こちらの方だろうにと思い、グレイはクローディアを見る。
「ありがとう…」
 もう一度とそう言うと、そっとこちらに近寄って、手をのばし、クローディアはグレイ
の服のすそを引っ張った。
 手を延ばせば、彼女はすぐ側にいて、それこそ腕を回せば抱き締められるほどまでの距
離にいて、グレイは何度もこのまま抱き締めてしまいたい衝動を押さえ付けながら、静か
に彼女を見下ろしていた。
 彼自身、この沸き上がる衝動に戸惑い、困惑しているのだ。
 素直に彼女を可愛いと思い、このまま抱き締めたらきっと気持ち良いだろうと思う。
 けれど、グレイはそれを行動に移す事はなかった。
「あ! ネビル隊長! どうされたんですか!」
 扉の向こうの賑やかなジャンの声。それに気づいて、クローディアはハッと顔をあげて
慌ててグレイとの距離をとる。
 二人の距離の間に発生したわずかな熱が、あっと言う間に消し飛んでしまう。
「あれ? クローディアさん? どうされたんですか?」
 きっと、ネビル隊長がクローディアの気持ちを察してか、それとも彼女自身が望んだか。
それによって彼女はここにいるのだろうが…。
「グレイ! 待たせたな。今回の報酬だ。いやー、本当によくやってくれた! 恩にきる
よ」
 新品の革袋を手渡し、彼の掛け値なしの感謝の気持ちが重さに如実に表われていた。
「フム……。…さて、じゃあ、俺はここで暇しようか…」
「ああ! また会おう!」
 にっこり笑って、ジャンは手を振る。ジャン、クローディアと一瞥して別れを告げると、
振り返らずに出て行くつもりだった。
「グレイ」
 だが、クローディアの声に呼び止められ、足を止める。
「…………その…………ありがとう……」
 どう言おうか考えあぐねていたようだが、最後に一言。そう言った。少しぎこちなかっ
たけれど、彼女なりに精一杯の微笑みを見せてくれた。
「…いや…」
 精一杯微笑んでくれた彼女が可愛くて、グレイも自然に笑みがこぼれ出る。
 そして、扉の外で待っているネビル隊長に軽く会釈をして、彼はこの宮殿を後にした。

 エリザベス宮殿を辞し、グレイは空を見上げる。
 何だろうか。宮殿を出た途端の、この強烈なまでの虚脱感と、喪失感は。
 胸の底から込み上げてくるような、心臓をわしづかみにされるような、そんな感情。
 自分のそんな感情を必死で無視して、グレイは表向き平然とした顔で歩きだす。多少、
歩みが強くなってしまったのだが、彼自身、気が付かなかった。
 そのうち、そのうちこの気持ちも霧散するだろう。
 そんな事を言い聞かせながら、彼は空を見上げて歩いていた。


                                                   to be continued..