ワロン島はそう大きな島でもない。一日もあれば、ゴドンゴの隣町であるウェイプに行
ける。もっと困難な旅をしてきた二人にとって、この短い道程など、旅とも言えぬ距離で
あった。
 ウェイプに早々と着き、またすぐに船に揺られる事もないと、一泊するために二人は街
の宿に向かう。
「……どうしたのかしら…。人がいっぱいいるわ…」
 人込みが好きではないクローディアは、眉をわずかにひそめながら、妙に混んでいる宿
の入り口を見る。
「とりあえず、行ってみよう」
 ゴドンゴに比べて宿の数が多いとはいえ、それほど大きな町でもない。
 グレイはとりあえず、宿の者に宿泊する旨を伝えた。
 そのようなやり取りが苦手なクローディアはいつも、そこと離れた場所で彼が来るのを
待っていた。
 彼を待ちながら、おそらくこの宿で飼われている猫の喉をなでてやっていた。人間を相
手にするより、動物や鳥を相手にする方が気楽だし、好きであった。
「クローディア」
 呼ばれて、彼女は顔をあげる。見ると、グレイが軽く手招きをしている。クローディア
はおしまいに猫の頭をそっとなでると、立ち上がって彼の元へ赴く。
「どうしたの?」
「サンゴ海がシケで、メルビル行きの船が欠航になっているそうだ。そのため、皆ここで
足止めをくらっていてな、どこの宿も満室状態なんだそうだ」
「……じゃあ、ここも?」
「その、個室でしたら、一室用意できるのですが、それ以上は……」
 少しくたびれた感じの宿の者が、困った笑みを浮かべてごまかす。
「いつになったら船は出るの?」
「それが……、いつになるかわからないのです。今回のシケは長引きそうだというのが、
漁師たちの意見なんですよ…」
「困ったわね…」
 あまり困っていないような口調で、クローディアがつぶやく。
「その、いつもはご遠慮申し上げているのですが、今回に限り、個室にお二人様のご案内
を致しております。料金はお二人様料金の3分の2ぐらいでサービスいたしますが…」
「……だそうだ。おまえが構わないのなら、俺は床で寝るが?」
 さすがにこの季節の野宿はつらい。シケのせいで、先日まで晴れていた天気は風が強く、
霧のような雨粒が鬱陶しく顔に当たる。ノースポイントを出発した時は快晴だったのに、
急激に天気が変わってしまった。
「構わないわ」
 彼と同室というのは、珍しい事ではあったが、無い事もなかった。そして、前の仲間が
期待するような事はまったく無かったのも事実だ。
 グレイはソファやら、毛布を借りて床で寝るなど、いつもベッドをクローディアにゆず
ってくれた。
 クローディアも悪い気がして、交替しようと言った事があったが、「そういうのは好かな
い」と、言われてしまい、遠慮しても仕方がないので、ベッドで寝させてもらった。
 今回も、そうなるようだ。
「じゃあ、それで頼む」
「はい、かしこまりました。では、宿帳にサインをお願いします」
 そして、グレイと宿の者は手続きをするためにカウンターへと歩いて行く。その二人の
背なかをぼんやりと眺めた後、クローディアは窓の外へ目をやる。
 どんよりと曇っていて、あまり良い天気ではなかった。

「ここで足止めか」
 とった部屋に荷物を置きながら、グレイは窓の外の天気を、やや憂鬱げな瞳で見た。
「いつ頃、船が出るのかわかれば良いのに…」
「まあ、それがわかれば苦労はしないが…」
 グレイは早速、テーブルセットの椅子に腰掛けて、愛用の刀の手入れをしはじめる。眩
い光りを放つ希代の名刀というか、いわくありげな怪しい妖刀である。
 クローディアは荷物を置くと、彼女は無言でベッドのへりに腰掛ける。
 少し疲れた。
 荷物の中から水筒を取り出し、口に含む。それから、ぼんやりと窓へと目を向けた。
 二人とも無言であった。
 痛い沈黙というわけではなく、話さなければ間がもたない、などという事もない。
 別に、話す必要がないから話さないだけで、この空気はクローディアは嫌いではなかっ
た。
 部屋の中はグレイの刀を手入れする音だけで、二人とも何も言わなかった。
 もうこれで最後だとか、そんな感傷的な事を口に出す気にもお互いなれないまま、時間
だけが過ぎていく。
「…おなかがすいたわね…」
 ベッドの上でぼんやりしていたクローディアが、不意に口を開いた。
 言われて、グレイは窓に目を向けると天気のせいもあるのだろうが、だいぶ暗くなって
いた。
「…もう、こんな時間になったのか」
 グレイは刀だけでなく、剣だの何だののほかの武器の手入れもやっていたので、随分と
時間がかかったようだ。そういえば視界が良くないと改めて気づく。
「食事に行くか」
「ええ」
 低い声のグレイに、クローディアも言葉少なめに頷いた。

 天気のせいで図らずも盛況となってしまった宿では、たくさんの人が食堂からはみ出る
ほどに詰め掛けて、大騒ぎで夕食をそれぞれとっていた。
 人の多さにクローディアは形の良い眉をひそめた。
 夕食の時間真っ只中とはいえ、この人の多さはただごとではない気がする。
 グレイは、空いている席はないかと食堂内を見回す。彼は背が高いので、それほど労せ
ずに空いている席を見つけられた。
「こっちだ」
 軽くうながすと、クローディアはグレイの後からついてくる。
 人数で言えばそれほどでもないのだろうが、元々広い食堂でもないので、余計に混雑し
ているように感じる。狭い通路を引っ切りなしに人が通り、机の周りにはぎゅうぎゅうに
椅子を詰め込んで、それでも足りなくてそのへんの樽をも椅子代わりにしているような状
態だ。
 人込みが苦手なクローディアは、人と人との間をぬって進むという作業が、とんでもな
く下手だ。茫然と立ち尽くし、どうして良いかわからずに、人の群れから一つ飛び抜ける
グレイの頭を眺める。
 灰色の頭は一度こちらを振り返り、戻ってきた。
「こっちだ」
 人込みの中から、手を差し出してくる。クローディアは素直にその手につかまった。
 グレイが引っ張ってくれるとはいえ、なかなか進みづらい。それでも、クローディアは
何とか人込みの中をかきわけて進んだ。
 どうにかこうにか席につき、忙しすぎててんてこ舞い状態の店の者に夕食を注文する。
 うるさすぎて、人が多すぎる中で、しかもさして美味しくもない夕食をたいらげて、ク
ローディアの機嫌は少なからず、良くはなかった。グレイの方は特に気にするふうでもな
く、いつものように無言で食事を平らげ、水を飲んでいた。
 おなかがすいていても、あんな夕食はクローディアにとっては疲れるばかりで、個室に
ついた時は、彼女は長い長いため息をついた。
「…うるさかったわ…。船が出るまで、ここにいなくてはならないの?」
「そうなるな」
 相変わらず動じないグレイは、いつもの変わらない調子で答える。
「はあ…。…慣れないものね…」
「状況が状況だから、仕方ないな」
 軽く荷物を整理しながら、やはり変わらない調子のグレイ。
「…疲れたわ…」
「もう寝るのか?」
 ベッドのへりに座り込んで、すぐに仰向けに寝るクローディアに、グレイは視線だけよ
こす。
「……どうしよう……。この調子では、浴室も混んでいるのかしら」
「混んでるだろうな」
 グレイの答えに、クローディアはため息をついた。森育ちのクローディアにとっては、
温かいお風呂よりも、人気のない静かな泉などで水浴びした方が、はるかに気持ち良いと
思ってしまう。
 黙って考え込むクローディアに、少しだけ視線をくれてやって、しかしグレイはそれ以
上何も言わなかった。
 彼女も困っているようだが、自分で考えているようだし、グレイ自身が口をはさむ事で
はないと思い、彼も黙っていた。
「……朝早くなら、空いているかしら…?」
 どうやらずっと考えていたらしい。クローディアが控えめな声で尋ねてくる。
「少なくとも、今よりは空いている可能性は高いな」
「そう」
 グレイの答えを聞くと、どうやら明日の早朝に風呂に行く事に決めたらしい。とにかく、
洗面だけして、今夜はもう寝るつもりらしかった。
 混んでいる風呂はグレイも好きではなかったが、明日の朝はゆっくりしたいと思い、彼
は今夜中に入る事にした。

 サンゴ海にしては珍しく長引くシケであった。
 ウコム神の機嫌が良くないせいだという、噂さえ出てきているが、この時期のサンゴ海
は荒れやすい。単にそれが長引いているだけであろう。
「今日も、船は欠航なのね…」
 クローディアも憂鬱そうな顔を隠せない。窓を叩く雨風がその気持ちを倍増させる。
 客の中には、ここよりも安くて空いているゴドンゴの宿にまで、行く者もでてきたよう
だ。ゴドンゴとの距離を考えれば、悪くない方法である。
「グレイ」
「ん?」
 直に床に腰を降ろし、壁を背にぼんやりしているグレイに話しかける。テーブルセット
は寝るのに邪魔だったので、壁に寄せて押し付けていた。
 夫婦でも恋人同士でもない、年頃の男女の同室というのは不便なものである。一つしか
ないベッドはクローディアが寝ているので、彼はここのところずっと床でごろ寝だ。
「今日は交替しましょう。あなた、ずっと床で寝ているわ」
 寝心地が良いとは言えない床で寝て、起きて身体をバキバキ言わせて、伸びをする彼を
毎朝見ていれば、クローディアも心配になってくる。
「気を使わなくて良い。そういうのは好かないんだ」
「あなたが好かなくても、私が気になるわ。床で寝るくらい、私にもできるし」
「だが…」
「今日は私が床で寝るわ」
 反論しようとするグレイの言葉を遮って、少し強い口調でクローディアが言った。どう
やら、彼が何と言っても、今日は絶対床で寝るつもりらしい。
 気にしなくても良いものをと思いながら、グレイは後ろ首を掻く。
 しかし、外は強い風雨にさらされ、外出もままならないこの状況は、クローディアでな
くても憂鬱にさせられる。苛立ちを感じている客も多いらしく、宿内では客同士のどうで
もいい小競り合いも珍しくない。
「にゃーん」
 気が付けば、半開きのドアから、宿で飼われている猫が顔を現わした。どうやら、すっ
かりクローディアになついてしまったようだ。
 とにかく暇な、こんな時のこういう来客はクローディアにとって嬉しいものである。
「おまえ、また来たの? おいで」
 人間相手にはほとんど見せない、柔らかくも優しい笑顔を浮かべて、手をひろげると、
猫はしっぽをピンと立てて、クローディアの方へ歩いて行く。
 特に何かを話しかけるわけではない。ただ、猫はクローディアに膝の上に丸まり、彼女
はそれをなでてやっているだけだ。
 それだけだが、ストレスのたまるこの足止め状態の日々を過ごすのには欠かせない一時
である。
 猫に向けられるクローディアの柔和な笑顔を、グレイはぼんやりと眺めていた。
 彼女の笑顔が人間に向けられるのは数少ないもので、せいぜいアイシャやバーバラ相手
に、わずかにほほ笑む程度だ。
 もう随分と長い間一緒にいるグレイだが、彼に向かってのあのようなほほ笑みなど、見
た事がなかった。
 グレイ自身、ほほ笑む事が得意ではないなので、クローディアの気持ちがわからないで
もない。いつでもどこでも、箸が転がっても笑えるアイシャや、営業スマイルも慣れたも
のなバーバラの真似はできない。普通に馬鹿笑いできるジャミルの真似ですら、彼はでき
ないだろう。
 何故と言われても、性格だからとしか言いようがない。
 それにしても……。
「この天気、どうにかならないのか…」
 この状況は、我慢強いグレイでさえ、ボヤかずにはいられなかった。


「今日は私が床で寝るから。あなたはベッドで寝て」
 そう言われても、グレイはベッドで寝る事はできない。これがバーバラやシフとかであ
ったら、素直にベッドで寝たであろうが、相手がクローディアやアイシャでは、そうもい
かない。
 この違いは何なのか、今は考える気にはなれないが、とりあえず、グレイは困った。
「…そう言われてもな…」
 珍しく困惑して、困った表情を見せるグレイに、クローディアはわずかに眉をしかめた。
自分の何が彼を困らせているのかわからないのだ。
「ずっとあなたに床で寝られては、私も気になるわ」
「…………」
 クローディアの気持ちもわからないではないが、そういう風に気を使われると、逆にや
りにくい。
 自分の毛布を手に、クローディアは床に腰掛ける。もう何を言っても床で寝るだろう。
 グレイはため息をついた。
「……そう言われても、俺もベッド寝るわけにはいかない」
「………」
 無言で見つめるクローディアの視線を感じながら、グレイは彼女と同じく、いい加減慣
れたこの床に腰を降ろした。
「二人で床に寝るの?」
「気になるのなら、あっちで寝ろ」
 グレイが軽く顎で指す方向には、ベッドがある。クローディアも困ってしまったが、彼
女もベッドで寝る気はない。やはり、床で寝る事にした。

 ただでさえ狭い個室に、ベッドにかなりのスペースをとられた部屋の床に、二人で寝る
というのは、間抜けなものである。おまけに、グレイの身体は大きい。クローディアとの
距離が近くて、困ったが、いまさらベッドの上にも行けない。
「……おかしなものね…」
 床の上のランプが薄暗く部屋を照らす。その光を眺めながら、クローディアはつぶやい
た。
 声に出さなかったものの、グレイは視線だけを彼女によこす。暗いが、それくらいはわ
かる。
「ベッドがあるのに、二人して床で寝るなんて」
「…まあな……」
 これも意地の張り合いとでも言うのか。
 しかし、クローディアとのこの距離は困る。
 同じベッドで寝るくらいの距離である。手をのばせば、簡単に彼女に手が届く。
 …参ったな……。
 仰向けになり、長くなった前髪をかきあげて、暗くて見えない天井を眺める。
 思春期の少年じゃあるまいし、理性もあるし、我慢ぐらいできるが……。
 しかし、休息するというのに、我慢しなければならないとは、疲れる話である。
 護衛の対象という仕事のためだけで、クローディアとずっと一緒にいるわけではない。
彼自身、彼女を気に入っているから、ずっと続けていた仕事だったのだ。
 現実に、彼にだって性欲はあるが、割合淡泊な性分と、自分をコントロールできる強い
意志があるので、今までずっと一緒であっても、そういう対象として見ないように自分に
義務づけていたのだが……。
 いくらなんでも限度というものがある。
 彼女の魅力は十分に知っている。
 むしろ、知らなかった時の方が手を出せたかもしれない。
 仕方がないので、グレイはあえて彼女に背を向けて寝る事にした。ずっと同じ方向をむ
いて寝るというのはしんどいが、仕方がない。
 珍しく寝付けないでいると、不意に背なかの気配が近くなった。
 クローディアがグレイの背なかに擦り寄ってきたのだ。
「………………」
 グレイがひたすらに困っていると、彼女の寝言が聞こえてきた。
「……ん……。…シルベン……」
 彼の背なかにかかる髪の毛を軽くつかんで、背なかに頬を寄せている。彼女を育ててく
れた狼の夢でも見ているのか。
 ひたすら微妙な気持ちになりながら、グレイはため息をついた。
 我慢はできるが…。
 とにかく、しんどい夜になりそうである。



                                                   to be continued..