かたっ。 小さな音をたてて、男は冷たい床に降り立った。 服装は道化師そのもの。骨と皮しかない細い手足は血色がない。怪しく光る金色の目は ことさら不気味だ。 獣人王はその日、玉座に座り、思案にくれていた。 ふと、目を開ける。 暗闇に光る目が2つ。そして、怪しいとしか言いようのない男が現れた。門にも、城の 入り口にも見張りがいるはずだが、どこから入り込んだものやら。 「ひひひ…。獣人王様。本日もご機嫌麗しゅう…」 「……………」 お互いに何を考えてるのやらわからぬ視線が少し、合う。 「今、世界はマナの変動を迎え、混乱期へと向かっております。にっくき人間どもへの復 讐、今がまさにチャンスでございます。人間が憎いのはこのワタクシも同じ。ぜひこのワ タクシめもご助力願いたいと、こうして参った次第であります」 大袈裟な身振りで、道化らしく頭を垂れる。 「…おまえ……何者だ…?」 「これはこれは、申し遅れました。ワタクシ、死を喰らう男と呼ばれております。獣人王 様もそうお呼び下さい。 獣人王はかったるそうに死を喰らう男と名乗る、この男を見た。ここまで外見も言動も 怪しいのも思い切りが良いと言うか。 「ヨソモノに用はない…。帰れ…」 獣人王はまたまぶたを閉じて、面倒くさそうにそう言い放つ。 「いやあの…、こう見えてもワタクシ、闇の呪法には自信がありまして。獣人王様の望み の通りに働いてみせますよ」 あまりにとりつくしまもなく言い放たれ、死を喰らう男は少し慌てたようだ。 「…………………」 しかし、獣人王は目を閉じたままウンともスンとも言わない。そのうち、彼の両側にひ かえている巨大な犬が2匹、うなり声をあげて、死を喰らう男を威嚇しはじめた。 「しっしっ! 近寄るんじゃないったら。…で、では、獣人王様、このワタクシの闇の呪 法が必要になったら是非、是非! 呼んで下さいよ。ワタクシ、飛んでまいりますゆえ」 あきらめて、死を喰らう男はくるりと背を向けて歩きだした。 「………待て…」 うすく片目をあけて、獣人王は死を喰らう男を呼び止めた。 「は、はいはいはい! 何でございましょうか!」 呼び止められ、死を喰らう男はすごい勢いで獣人王の前に跪いた。 「そのおまえの闇の呪法とやらはどんな事ができるんだ?」 「できない事の方が少ないくらいですヨ! 獣人王のお望みのままにできますとも!」 胸をはって、死を喰らう男はここぞとばかりにまくしたてた。 「そうか…。それなら………」 獣人王はゆっくりと口を開いた。 獣人王には一人、息子がいた。 彼が小さな頃から自ら教え、鍛えてきた息子だ。 彼はまだ、獣人に変身した事がなかった。 獣人が獣人と呼ばれる所以は、人とも獣ともつかぬ姿に変身するところにある。その獣 人化によって肉体能力は飛躍的にあがる。 獣人達の王となった彼の息子なのだから、たとえ母親が人間だとしても、獣人化しない わけはないのだが。 息子は、教えても、鍛えても。獣人化はしなかった。格闘の才能がないわけではないは ずだ。それは鍛えてきた自分が一番よく知っている。 では、なぜ。 そこまで考えて、獣人王はまた、目を閉じた。 月夜の森はいつも夜。 何があっても夜。 いくつもの月を浮かべ、月夜の森は今日も夜。 「くぅーん…」 犬みたいだが、よく見ると子供の狼だ。小さな狼は、草むらの上に寝っ転がっている男 の子の顔をぺろぺろなめている。 「っ…! ぅはっ、はははっ! くすぐったいよ」 なめられて起こされて、男の子は笑いながら起き上がった。 「ん…? なんか、そんなに寝たかな」 ごきごきっと体を鳴らし、ぎゅうっと伸びをする。そんな男の子を見上げ、小さな狼は ぱたぱたとしっぽを振る。 「じゃ、今度は西の原へ行こうか」 「わん!」 「カール。もっとウルフらしく鳴こう。チビでも誇り高いウルフなんだから」 「わん!」 しかし、カールはしっぽを振りながら犬みたいに鳴いた。彼は苦笑した。 「じゃ、行こうか」 「わん!」 一人と一匹は月夜の森を走り抜ける。 男の子はケヴィン。獣人王の一人息子である。 獣人王が自ら鍛え上げただけあって、顔付きとは裏腹に、随分立派な体つきをしている。 母親に死なれたカールと一緒に行動するようになったのは、いつの頃からか。いつも一 緒にいて、どんな時も一緒にいて。忘れていた暖かい感情を、初めて知った感情を、カー ルと一緒に覚えてきた。 今日も一緒に、野原に遊びに行く。 昨日も一昨日も、その前の日もそんな感じ。だから、今日も明日も明後日も、その次の 日も、そんな感じ。 そうなるはずだった。 「………ウ…、ウウ……」 「……? ん? どうした、カール」 急に立ち止まったカールに、ケヴィンは足を止め、振り返った。 「ウウー…、ウウウウ…」 明らかにおかしいカールの様子に、ケヴィンは怪訝そうに眉をしかめ、しゃがんだ。 「本当に、どうした? カール…」 「グアオゥッ!」 牙を剥き出し、口から泡をふきながら、突然、カールが飛び上がった。 「ガァウッ!」 「うわっ!」 とっさに身構えた腕に、カールの牙が食い込んだ。 ガブッ! 「ツゥッ!」 「ゥーッ! ウウゥーッ!」 「ど、どうしたんだ!? どうしたんだよ、カール!」 激しく混乱して、ケヴィンはカールを見た。どう見ても、正気の目じゃない。顔付きだ って、あののんきな感じのするカールの顔ではない。 「ゥアウウッ!」 「やめっ、やめろっ!」 カールは無抵抗なケヴィン相手に再度襲いかかる。 「やめろ…やめろったら…!」 ケヴィンの声も空しく、カールは何度も、何度も襲いかかる。チビとはいえ、狼の顎の 力は強い。防御に徹するも、噛まれれば痛い。 「やめっ…、やめロ…、や…」 カールの敵意や悪意、襲われる感覚。それを強く感じれば、感じる程、ケヴィンの体が 熱くなっていく。 本気で自分を殺そうとする、敵意と、戦いの雰囲気。 どくん。 心臓が、ひときわ強く鳴った。 体の中がどんどん熱くなると同時に、頭の中はどんどん真っ白になっていく。 「やめろぉーっ!」 思わず叫ぶ。それは、カールへの言葉か、自分への言葉か。 気が付いたら。 目の前に小さな狼が横たわっていた。その体はずたぼろに傷つけられていた。 自分が傷つけたのは、紛れも無い事実。 「カ…カール…」 かすれた声を出し、がっくりと跪く。 「カール…、カール…ごめん…、ごめん…オイラ…」 か細く息をする鼻先に、震える指を近づける。カールの鼻先がひくひくっと動いた。匂 いでケヴィンを感知したらしく、わずかに動く。 「クゥー…ン……」 カールはケヴィンの手を二、三度なめた。涙でかすむカールの表情は敵意も悪意もなく、 ただ、昨日と変わらぬ表情でケヴィンを見て、わずかにぱさぱさっと尻尾を動かした。そ して、動かなくなった。 「…カール? ……カール…、カール! …うっ…ううっ……」 ぼたぼたと涙を落とし、ケヴィンは動かなくなったカールを抱き上げた。 「うっ…、…うおおおおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉっっっ!」 喉の奥から、腹の底から叫んだ。 獣のものとも、人のものともつかぬ叫びだった。 よく遊んだ野原にカールの墓を作り、涙にくれていた。 泣きながら、ケヴィンはただひたすら自分の中に駆け巡る獣人の血を呪った。自分は獣 人化したのだ。 獣人の闘争本能はケヴィンもよく知っている。月の力が広がる夜に、獣人達はその力を 受け取り、獣へと変化する。野生の本能剥き出しにして。力はあがるが理性は下がる。獣 人化した獣人同士の殺し合いは、なにも今にはじまった事件ではない。なにより、敵意剥 き出しに襲ってくる相手に無抵抗でいられる本能ではない。自分の命の危機には、攻撃で もって防御するのが獣人だ。 ケヴィンは、獣人と人間のハーフだからか、この年齢になっても未だに獣人化した事は なかった。それを気にした事はなかったし、別にしなくても良いと思っていた。 こんな事になるなら。 獣人の血をただひたすら呪った。 やがて、ケヴィンはどこをどう歩いたものやら、気が付いたら、城に来ていた。自分の 父親がいる城だが、最近はあまり寄り付かなかった。帰らなくっても誰がどうこう言う事 もなかったから。 夜空に浮かぶ大小の月をぼんやりと眺める。 「ん? ケヴィン。いたのか?」 声をかけられて、ケヴィンはゆっくり振り向いた。 「とうとう獣人王様が人間界に討伐隊を出すそうだな。いいなぁ、俺も行きたかったなぁ」 なんだか浮足立つ口調だが、ケヴィンはそんな事はどうでも良かった。 「…どうした…? 顔色悪いぞ…」 「うん……」 元気なくつぶやいて、ケヴィンはふらふらとそこを後にする。なんとはなしに、昔、世 話になった人の顔が見たくて、獣人達が集まる部屋へ行く。 部屋は、人間界討伐にわきたつ獣人達でいっぱいだった。 「おや、ケヴィン。どうしたんだい?」 昔、世話になったおばさん。自分より年上の息子がいるのだが。 「ん…。ちょっと…」 「ちょっと聞いとくれよ、ケヴィン。あんた、空を見て変だと思わないかい? 息子は老 眼だなんて言うんだけどね、老眼は近くのものが見えにくいんだよ。間違いない。月の数 が減ってるんだよ。一体、どういう事なのかねぇ…」 「月の数が…?」 「そうなんだよ。北の空に五つ、あっただろう。それが四つになってるんだ。間違いない よ」 「うーん…」 はっきり言って、月の数など数えていない。ケヴィンは困って首をひねった。 突然、部屋がわっとわいたので、何事かとその方向を見ると、ルガーを先頭に、獣人王 直属の親衛隊が続々と部屋に入ってきた。 「とうとう人間界へ討伐だな!」 「人間達に、俺たち獣人の力を知らしめてやるんだ!」 「俺たちの誇りを取り戻せ!」 口々に、獣人達は討伐隊に声をかける。彼らも笑顔でそれに応えている。 「とうとう人間界に討伐隊が行くんだねぇ…」 色々な感情のこもった声で、おばさんがつぶやく。 「ん?」 先頭を歩いていたルガーが、こちらに気づいた。 「よう、ケヴィン! どうした。そんな暗い顔してよ!」 前々からよくケヴィンに突っ掛かってきた男だ。 「ふっふ…。もう知ってるかもしれないが。俺は、獣人王様ご本人から指名されて、人間 界討伐隊の隊長となった。いいか? 獣人王様自らが俺を指名して下さったんだよ。この、 大事なプロジェクトのな!」 「そう」 そもそも人間界討伐なんぞ、ケヴィンはまるで興味がない。獣人王は確かに自分の父親 だが、それがどうしたというのか。もし、父親がそのプロジェクトに自分を指名したら、 迷惑でしかない。やる気のあるルガーがやるなら、それで良いではないか。 「俺たちは獣人としての誇りを取り戻す、大事なプロジェクトを遂行するんだ。その隊長 たるはこの俺だ」 「そう」 「獣人王様は、おまえでなく、この俺を選んだ! わかるか!」 「知ってるよ」 相手をするのも疲れてきて、ケヴィンはよそ見をする。 「ケヴィン! これは、獣人王様の後継者は、おまえでなく、この俺が相応しいという事 じゃないか?」 一瞬、部屋のざわついた空気が消えた。ルガーが獣人王の次期後継者を狙っているのは 大体みんな知っている。そのために、ルガーが努力を欠かさないのも知っている。けれど、 獣人王はやはり息子のケヴィンの方を目にかけているのも、知っていた。 ケヴィンはどう答えるのか。思わず、みんな黙り込む。 「どうでもいいよ、そんなの。そんなの、オイラが決める事じゃない」 それはそうだ。決めるのは獣人王なのだから。 「だから! 大事なプロジェクトのリーダーに抜擢された! 獣人王様が俺を選んだ!」 「ルガーがやる気があるなら、それでいいじゃん」 それもそうだ。ケヴィンにやる気がないのは見てわかる。 「……………」 ケヴィンが思いどおりの反応を返さなくて、ルガーは不機嫌そうに黙り込んだ。 「……行くぞ!」 ルガーは不機嫌なまま、くるりと身をひるがえし歩きだすと、討伐隊の連中もそれに続 いた。やや、ケヴィンを気にしながら。 「…やれやれ…」 討伐隊の連中が見えなくなってから、隣にいたおばさんはため息をついた。 「でもまぁ、血の気が多いのも、獣人のさだめかねぇ…」 「……獣人のさだめ…」 そんなもの、いらない。 「…オイラ…、オイラ、なんで…獣人なのかな…。血の気が多いのが…定めなんて…」 「仕方がないよ、ケヴィン。元々そうなんだから。変えられないもので悩んでも仕方がな い。まぁ、獣人王様みたいに、それをうまくコントロールできりゃあ、悩む事もないんじ ゃないかねぇ…」 「…そうかな……」 「まぁ、アタシはそんな事できないから、わかんないけどね」 そう、苦笑する。その表情を見て、ケヴィンはまた悩んだ。 おばさんとしゃべった事で、少しだけ、落ち着いてきたような気がする。城の東にある 女神像の前でお祈りすれば、もう少し気持ちが楽になるかもしれない。 そう思って、ケヴィンは部屋を出た。 「…あれ…? 女神サマの部屋は…どこだったかな…?」 しばらく来てないから、どうも迷ってしまったらしい。まぁ、うろついていればそのう ちに着くか。そう思って、ケヴィンは城の内部をうろうろしたり、ベランダに出たりして いた。 「…ここじゃない…。…どこだろ……」 きょろきょろと辺りを見回す。 「ねぇ…、女神サマの部屋は…、どこだっけ?」 かったるそうに突っ立っている衛兵に話しかける。 「ん? このドアを通って、ずっと右。それから突き当たりを左にまがってその突き当た りの部屋だよ」 「そっか。ありがと」 「なぁ、ケヴィン。おまえ、死を喰らう男っていう、怪しいヤツ、見たか?」 「…………だれ…? それ…?」 「なんでも、つい最近獣人王様に取り入ろうとしてる怪しいヤツなんだよ。見りゃわかる よ、とにかく怪しいから」 「ふーん…」 しかし、そんな男に興味はない。ケヴィンは目の前のドアを通り左に行こうとして、思 い直した。一度、城外に出て、そっちを通った方が早かったのではないかと思ったのだ。 「えーと…。右に行けば良いんだな…」 右に目をやった時。 獣人ではない匂いが風に流れてきた。 「……なんだ?」 鼻をくんくんと動かし、好奇心から、その方向へと歩きだす。 壁の向こうから声が聞こえる。ケヴィンは耳をぴこっと動かした。元来、獣人達は感覚 が優れている。言葉でより、感覚のやりとりで済んでしまう事も少なくない。 「…獣人王様…闇の呪法、ご覧になられましたでしょう」 「…ああ…そうだな…」 面倒くさそうな獣人王の声と、知らない声。 「次のご命令をどうぞ…」 「そうか。帰って良いぞ」 「…は……? あっ、あの、か、帰れ…と…?」 「そうだ」 「そ、そそそ、そんな! 闇の呪法の力をご覧になられたではないですか!」 「たかだかチビのウルフを凶暴化させただけだろう」 「そ、それはそうですけどっ…!」 今。獣人王は。何と。言った。 「チビの」「ウルフを」「凶暴化させた」 では、あのカールの豹変ぶりの原因は。 この壁の向こうにいる! そう思った時、ケヴィンの怒りが爆発した。 「あいつが……カールを……。じゅぅう…じん…おぉう…っ…!」 ためらいもせず、ケヴィンはこの壁に突進した。この壁の向こうのヤツに会うには、こ の壁は邪魔だ。 どがっしゃんっ! 派手な音に、そこにたたずむ二人が振り返る。一人は獣人王。もう一人は道化の格好の、 ただひたすら怪しいヤツ。 「獣人王! おまえがっ…、おまえがっ…! おまえが!」 拳を突き出し、ケヴィンは流れてくる涙をおさえきれず、泣きながら怒鳴った。 「…ほう……」 その様子を、獣人王は興味深げに見つめた。 怒りに燃えた瞳。熱い血潮が体中を巡る感覚。獣人化の一歩手前だ。現に、ケヴィンの 全身が、総毛立ちしているのが見てとれる。 「いいぞ…ケヴィン…。それだ…。それこそが、おまえの強さへの第一歩だ」 「うるせぇーっ!」 腹の底から吠えて、ケヴィンは獣人王に襲いかかる。 繰り出した拳をあっさり避けられて、手首をつかまれた。 「その感覚…忘れるな」 「よくもカールを…! カールを…!」 嬉しそうな獣人王の瞳を見ると怒りがさらに増して行く。 「……………………」 しばらく、獣人王は息子の瞳を眺めていた。 「カールを…! どうしてくれるんだっ!」 「………馬鹿め! 頭を冷やしてこい!」 獣人王がそう言った瞬間、ふわりと体が浮いて、それから激しい衝撃。 ずがぁんっ! ケヴィンは、はるか彼方に殴り飛ばされた。 獣人一人、あんな遠くまで殴り飛ばし、しかもあれは自分の息子。 その所業に、死を喰らう男は隣で呆然と突っ立っていた。 「……………おい、死を喰らう男…と、言ったな…」 「…あ! はいはい。はい。ここにおりますです」 声をかけられ、我に返る死を喰らう男。 「…ケヴィンをおまえに任せる…」 「あ…、は、はいっ!」 厄介な事を押し付けられたなと思いながらも、反抗するわけにはいかないから。死を喰 らう男は跪いて頭を垂れた。 to be continued... |