「はー…、本当にこのマンション便利……」
 靴を脱ぎながら、台湾は日本にもらったカギで例の部屋へと訪れていた。仕事でこちら
に来たが、立地条件は文句がない。コンビニは近いし、食事処も数多いし、マンションの
1階にはコインランドリーなど揃っているしで、便利さ目白押しだ。
 難点を言えば、生活用品の品揃えが乏しい事と、掃除洗濯等の家事は全部自分でやらな
ければならない事だが、滞在費を思えば文句を言ってはいけないだろう。なにより、ホテ
ルより落ち着くし、気が楽だし、浴室も広くてかなり良い。
 夕食はもう済ませて来たので、買って来たものを広げたり、のんびり湯船につかったり、
お酒飲みながらドラマ観たり、ぐだぐだしていると、案外時間のすすみは早かった。
 しかし、布団を敷く作業というのは案外面倒なものである。
 日本は畳の上で布団というのに、至上の喜びを見いだしているのであろうか。これから
もここを使わせてもらうなら、ほとんど使っていない洋室にベッドでも買って設置してし
まおうかとまで思う。
 しかし、居間のソファは、ベッドにもなるシロモノだしわざわざ買う必要はあるかと思
うと考えてしまう。
「ふー…」
 次に訪れる時はどんなものを持ち込もうか、などと言う事を考えていたのもつかの間、
台湾はすぐに眠りの淵へと落ちて行った。

 がたん、がちゃっ。ぎいぃーっ……。
 カギを開ける音と、扉を開く音。それからカギをかける音がして、入ってきた男がしゃ
っくりをした。
 パチンと手探りで玄関の明かりをつけると、ワイシャツはズボンからだらしなくはみ出
し、何故か頭にネクタイを巻いた日本が照らされた。またしゃっくりなんぞして、顔は真
っ赤だし、目つきは相当淀んでおり、かなり泥酔しているようである。
 どさどかっと靴を脱ぎ捨て、よたよたと壁に手をつきながらふらふらと廊下を歩く。
「うぃーっ……。……ひくっ……」
 千鳥足で廊下を進み、台湾が寝ている和室の引き戸をゆっくりと引いた。
「……ひくっ……。……ん?」
 廊下からの明かりで、和室で布団を敷いて誰か眠っている事に気付いた。
「…あー……ひっく……」
「……ん? なに……何ですか?」
 廊下が明るい事と人の気配に気付き、台湾は目を覚ます。そして、廊下からの光で逆光
になって、知らない男が和室の入り口に立ちはだかっているのを見つけて、一気に眠気が
覚めた。
「ん、んなっ…! だれ!?」
 思わず上半身を跳ね起こさせ、気色ばんで逆光で見えない誰かを睨みつける。
「……台湾……さん? ひっく」
 こちらの声で彼女の正体がわかったらしく、逆光で見えない男の声がした。
「……へ? 日本さん…ですか?」
 考えてみれば、この部屋の鍵を持っているのは自分と彼しかいないわけで、バッティン
グするのもありえない話ではないのだが、すぐにそこまでは頭が回らない。
「…台湾さん……ですか……ひくっ」
「どうしたですか、日本さん」
「……台湾さぁ〜ん」
「ふえっ!?」
 何があったんだと思う前に、頭にネクタイを巻いた日本が自分の方へふらふら歩いて来
たかと思うと、倒れ込むようにして抱きついてきた。
「きやあっ!?」
 突然の事に何が起こったのか一瞬わからなかった。
「ちょ……ちょとっ…!?」
 抱きつかれて押し倒されて、気がつけば日本が自分の胸元に顔を押しつけて頬ずりして
いるではないか。
「えーっ!? に、日本さん!? なにして……って、酒くさっ!!」
 身体中から噴き出させるほどに酒の匂いをぷんぷんさせて、頭にまいたネクタイといい、
だらしなくはみ出したワイシャツといい、典型的なほどに酔っぱらっている。
「ちょ、ちょっと…!」
 何とか上半身を起こして見下ろすと、幸せそうに抱きついて台湾の胸に頬を擦りつけて
いる彼がいた。彼女も突然の事に対応できず、目をしばたかせている。
「んー♪」
 そして、日本は片方の胸には頬を押しつけ、もう片方の胸のとがったところへ、ボタン
か何かを押すようにして人差し指で突いてきた。
「ぎゃーっ! なにすんですかっ! この変態!」
 いくら相手が日本でも、心の準備だの何だのができていなければただのセクハラである。
台湾は赤い顔して、しがみついてくる彼を目一杯の力で引きはがした。
「あー…」
 引きはがされた反動で、彼の頭に巻いたネクタイが外れて落ちて、そのまま頭をフラフ
ラさせている。
「ちょっと日本さん!」
 とにかく、日本が酔っぱらって帰って来て、自分を見つけるなり抱きついてきた、とい
う事までは把握した。台湾は日本に向き直ると、不甲斐ない彼に渇を入れる事にする。
「はいー…」
「そこになおりなさい!」
「はいー…」
 ぷんすか怒って、台湾が日本に向かってびしっと指を床に突きつけると、彼は酩酊した
調子ながらも返事をしてその場で正座をする。
「いきなり抱きつくなんてなんですか!?」
「あー…。酔っぱらってまあぁ〜す」
「見れば、わかります! なんですかそのてーたらくはっ!」
「はいー…」
 そもそも酔っぱらいに相手に怒ったところで何ら効果はない。日本は頭をフラフラさせ
て返事するだけで、そもそも思考など巡っていないのだ。返事するついでなのか何なのか、
頭を下げて、さらに下げ続け床に頭がつきそうな程に落ちていく。
「おすわりっ!」
「はいっ!」
 イラッとして、思わず口をついて出た言葉に、日本も反応してしゃんと背筋を伸ばして
正座の姿勢をとる。一瞬それが、面白いと思ってしまった台湾はついそのまま命令を続け
た。
「お手っ!」
「はい」
 なんと、彼はちゃんと反応して差し出した台湾の右手に、自分の左手を乗せる。
「おかわり!」
「はい」
 そして、次の命令を繰り出せば、彼はちゃんと自分の右手を乗せてくる。
「伏せ!」
「はい」
 返事をして、ひれ伏すように上半身を前に折り曲げてちゃんと命令を聞いた。ちょっと
楽しくなってきてしまった台湾は、どういった反応を示すのかと次の命令を口にする。
「……待て!」
「……………」
 しかし、今度の命令にどう応じて良いかわからなかったようだ。反応に困ったように頭
をふらつかせていたが、やがて。
「いやです」
「え?」
 それに驚く間もなく、日本が台湾へと勢いよく抱きついてきた。
「ひやっ!?」
 どさっと布団の上へと押し倒されて、台湾は日本に組み敷かれる。
「ちょ、ちょっと〜……!」
「んー……」
 台湾にかじりついて、日本は上機嫌に台湾の顔へ頬ずりなんぞしてきた。
「可愛いですねぇ、本っ当あなたは可愛いですねえ〜」
「………………」
 文句を言おうと口を開きかけたのに、しきりに可愛い可愛いと連発して、頬ずりされる
と何も言えなくなってしまう。この酒臭さと泥酔ぶりが激しく気に入らないが、彼の言っ
てる事ややっている事自体は、嫌ではない。ただ、微妙に伸びたヒゲがちくちくして気に
なると言えば気になるが。
「可愛いです、可愛いですぅ」
 こんなに間近で頬ずりされると彼の表情など確かめようもないが、声の調子がすごく嬉
しそうで、台湾の方も知らず知らず体温が上がってくる。
「ひやっ!」
 頬を赤らめて固まっていたら、今度は後ろ首に回された腕が、パジャマの襟元から胸へ
と突っ込んで中をまさぐり始めた。
「ちょ、ちょっとっ!? なにするんですか!?」
「んー♪」
 台湾の抗議もどこ吹く風で、機嫌良さそうに服の中の膨らみを掴まえている。台湾とし
ては、ちゃんと段階を踏んでくれれば抵抗する気はないのだが、さすがにこれはいただけ
ない。
「……もー……! 日本さん!」
「はい?」
 酔った声ながら、一応は返事が返ってきた。
「何でいきなりこうですか! 私が誘っても乗ってこないくせに! どーして普通に抱い
てくれないんですか!」
 彼の性格は台湾もわかっているから、彼が自分の性癖を自制しているのは知っている。
しかし、紳士的であればあるほど良いというものではないだろう、という思いがあるのだ。
迫ってこない、誘っても乗ってこないでは、こちらをどう思っているのだと言いたくなる。
「だって……助平で変態って嫌われるの嫌ですし…」
「今、やってる事と矛盾するとか思わないんですかッ!?」
 思わず台湾も怒鳴り出す。今現在、彼がやっている事と言うのは、いきなり抱きついて
きて、了解もとらず、口説き文句も無しで、ロマンスもへったくれもなく襟元に腕を突っ
込んで、中の膨らみを好き勝手にもみまくっているのだ。これではただの変態男で、彼女
が怒鳴るのも無理はない。
「……嫌ですか……?」
 酔った瞳が、いつもに増してどこを見ているかわからないようなぼやけた視点で、台湾
を見る日本。
「嫌ですよ。私、あなたの事嫌ってなんかないですけど、こんなのはヤです!」
 自分の後ろ首から、胸元に突っ込まれている日本の腕をとにかく引き抜いて、彼に抗議
すると、酔った頭でもさすがに彼女が怒っていると理解したらしく、ぼんよりとした瞳で
彼女を見つめている。
 怫然とした顔で、日本の腕をほどき、両手で押し戻す。これが、ロマンチックに口説か
れながら肩を組まれたりしたら拒否などしないものをと思うのだが。
「……それなら、どうすればよろしいですか?」
 だから揉むなっつーの。
 結局、酔った頭では理解しきれず、口ではそんな事を言いながら、今度は正面から台湾
の胸を服の上からつかんで揉み出す。
「ともかく! 今はこれ駄目です!」
 ぽこぽこ湯気を上げながら怒り、台湾は自分の胸を揉み続ける日本の腕を両手でとって、
押しのけた。
「……駄目ですか……」
 酔っていながらもしょんぼりした顔で、台湾の目を見据える日本。普段なかなか目を合
わせてくれないが、今は驚く程にこちらの目をじっとのぞき込んでくる。
「だ、駄目です。まずは…、まずは、そう! 口説いてください! もっとこう、浪漫たっ
ぷりに!」
 酒などではなく雰囲気で酔わせる程に、うっとりさせて欲しいものだと思う。もっとも、
いつもの彼はかなりの恥ずかしがり屋で、口説こうと思った時点で何も言葉が出てこない
ような男なのだが。
「あー……。浅茅生の小野のしのはら忍ぶれど……あまりてなどか人の恋しき……」
「…………え……?」
 突然、和歌を詠み出した日本に、台湾は目を点にさせる。
「……んー……、今はちょっと即興で詠めませんので有名なヤツで……」
「いやあの。……意味わかんないです……」
「……わかりませんか……?」
 口説けと言われて歌を詠み出す事の理由がすぐにわからず、考えてようやっと思い出し
たが、台湾としてはそれでは気持ちが盛り上がらない。意味を解説されても、解説された
時点でロマンチックとは程遠い。
「あの、た、確かに日本さん所の昔はそうだったと聞いてますけど、もっと現代的にして
ください」
「えー……。そうですかぁ……良い歌だと思うんですけど……。……んー……、やは肌の
あつき血汐にふれも見で、さびしからずや……」
「いやあの! だから和歌から離れて!」
 台湾にはさっき詠んだ歌との違いがわからないし、続けられても困るので慌てて止める。
「………えー……。じゃあどうすれば良いんですかぁ…?」
 アルコールで赤く染まった顔に、困ったように眉を寄せて日本は台湾をまたのぞき込ん
だ。他に口説く方法を知らないのか、この男は。
 一瞬呆れてしまったものの、確かに口説いている彼など見つけたら、写真を撮りまくり
たいほど珍しい。これは、こちらがなにかアドバイスをしなければならないようで、彼女
もちょっと考え込む。
「……じゃあ、台湾ちゃん美しい、って、言ってください」
 あまり期待はできなかったものの、とにかくこちらの気持ちを盛り上げてほしかったの
で、とりあえず言って欲しかった事の一つを口にしてみた。
「台湾さん美しいですー」
 しかし、日本はただその言葉を棒読みで言うものだから、台湾も思わず仏頂面を浮かべ
る。
「心がこもってないです! もっと、心をこめて言うです!」
「……台湾さん、お美しいですよ」
「っ!」
 文句をつけると、今度はだいぶ情感をこめて言うようになってきた。
「………も、もっと。もっと、その、もちょっと、その、近くで」
 日本の言い方が一気に良くなってきたので、台湾はほんのり頬を染めながら、指で近づ
くように指示する。
 どこまで、酔っぱらった日本が言ってくれるだろうかと思ったが、次に言ってくれた時
は、まったく彼らしくなくノリノリで言ってきたのだ。
「…良いですよ…。…お美しい台湾さん」
「はうっ!」
 耳元で、その低く色艶のある声で囁かれ、やらせておいて思わず台湾はその破壊力とく
すぐったさに声をあげる。
「……こんな感じですか?」
「お、OK…です…。じゃ…じゃあ、次は、あなたしか見えないって、言ってください」
 予想外の破壊力に、ぷるぷるとわずかに身を震わせながら、しかしちゃっかり次のセリ
フをリクエストする。
「…あなたしか見えません…」
「ふうっ…!」
 悪くない。これは悪くない。というかたまらない。
「…い、良い感じです…。で、でも、もっと、オリジナリティーを入れてみるとか、どー
ですか?」
 オウム返しのように同じ言葉では詰まらない。ちょっとアレンジしてみてほしくてそん
な事を言ったら、なんと両手で台湾の右手を握り締めて、酔った目つきながらもこちらの
瞳をのぞき込んで、こう言った。
「…そうですか……、……私はあなたしか見えません。まばたきするのも惜しいほどに、
ずぅっとあなたを見ていたいのです」
「ほおうぅ!」
 多少演技がかった感じであるが、優しく情感がこもった感じで、その声の良さも相俟っ
て台湾の体温がまた上昇した。
 良い。これは良い。もっともっと。彼の口からロマンチックな言葉を聞きたくなる。
「え、えっと、じゃあ、じゃあ! 次は! す……スキ、とか! とか!」
 思わず興奮してきて、自分も彼の手を両手で握り締めると、酔った彼は心得たとばかり
に優雅に微笑んだ。
「御意に、お姫様。台湾さん、好きですよ。あなたのその可憐な仕草や、健気な姿に、私
の心は引き寄せられてやまないのです」
 両手を掴んだまま、身を乗り出させて酔った瞳ながらも、まっすぐこちらを見つめ、酒
臭い息が届くほどに近づいて。余韻を残すように、酔わせるように、あの声音で囁いて。
「ふおおおううぅーっ!」
 笑い声とも息ともつかぬものが台湾の口から飛び出し、湯気でも噴き出しそうな程に顔
面が真っ赤に上気した。
「えと、えとですね。次は、次は〜…!」
 こんな機会など滅多にない。あの声で言ってもらいたかった事が他にもたくさんあるは
ずなのに、興奮してしまい、何を言わせたいのかまとまらない。

                                                                 NEXT>>