着替え終わり、居間に向かうと日本はちょうど縁側で、愛犬に餌をやっている所だった。
「おはよーございます」
「あ。おはようございます。よく眠れましたか?」
「ええ」
 日干しされた布団は暖かくて気持ち良く、睡眠に関してはまったく問題がない。
「おはよーポチ君」
「あうっ」
 かの犬にそう声をかけると、いったん顔をあげて小さく鳴く。実際この犬も、台湾が日
本と知り合うよりも前にこの家にいるので、年齢のわからなさがよくよく考えると不気味
な気がする。
 この犬と初めて会った時は、自分の姿は成長不良のままだったので、幼い女の子の姿だ
った。自分が成長してこうして大人の姿となったというのに、犬は変わりなしというのが、
また何とも。
 小さめだし愛らしいし、自分達を人間の寿命などと同等に考えていけないのは百も承知
だが、百年以上前から変わらない日本と彼の愛犬の姿は、深く考えるとちょっと微妙な気
分になったりする。
 ちゃぶ台の上には白米と味噌汁、焼き魚、温泉卵が並び、漬け物が添えられていた。洋
食化が進んだとはいえ、彼はやっぱりこういうのが好きらしい。
 トーストが並ぶ事もあるが、やはり白米が朝食として出る事が圧倒的に多い。
 台湾も昔、日本にさんざんしつけられたため、今でも和食に抵抗が少ない。自分の家に
いる時はやらないが、ここに来ると、椀を直に手でもって音を立ててすする事もできるく
らいである。
「それでですね、台湾さん」
「はい」
 味噌汁飲んでいる所に、日本が話しかけてきた。
「今日、お帰りになられるんですよね」
「はい…」
 買い物も楽しんだし、のんびりゆったり過ごしたりもしたけれど。少し物足りない気持
ちがあるのが、正直な所である。
「午後の便ですよね」
「そーです」
「では、午前中は空いてらっしゃいますか?」
「……空いてますよ?」
 お椀をちゃぶ台の上に置いて、台湾は日本を見る。
「では、帰る前にちょっと付き合っていただけませんか?」
「……良いですけど…」
 少し何か含んだような日本の語調に、彼女はちょっと首をかしげた。わかりにくいと言
われる日本の思考を、他のどの国よりもよくわかるという自負を持っているが、それでも
わからない事が多い。もっとも、他人の心がよくわからないのは、国も人も同じかもしれ
ないのだが。
 ともかく、そう言うわけで、食後、帰宅の準備を始めた彼女は、少し早めにこの家を出
る事になった。
 自宅の周辺では和服で過ごす事が多い彼だが、遠出や仕事の時などはさすがに洋服を着
る。渋い色の着流しから、パーカーとジーンズ姿へのギャップは見てるとちょっと面白い。
 彼の愛車の助手席に乗り、シートベルトを締める。さすがに日本だけあって車は良い物
に乗っている。ハイブリッドで、燃費がやたら良いと専らの評判の車だ。色は白で、台湾
としてはもっと派手な色が好きなのだが、日本は白だの銀だの、彩度の低い車ばかり好む。
「で、どこ行くんですか?」
「ええ、ちょっと」
 やはり、どこか含んだような物言いをして、車を発車させる。
 それにしても、彼はいつも安全運転である。アクセルを踏み込んでぶっ飛ばしている姿
など見た事がない。
 ツーリングで二輪を借りた時も、台湾の方が夏の海岸線の気持ちよさに飛ばしまくって
いたくらいだ。
 しかし、首都の渋滞ぶりにはいつもの事ながらヒマである。それを見越して早めに家を
出たものの、ヒマな台湾はカーナビをいじくってDVDを眺めていた。
「どこですか? 空港とは方向違いますよね?」
「ええ。そろそろですね。あそこですよ」
 短いアニメのDVDが見終わったので、カーナビに画面を戻しながら尋ねると、含んだ
物言いをしていた割にはあっさり目的地を指さすので、思わずその先を見る。
 そこは、レンガ色のタワーマンションであった。
「……え? マンション…ですか?」
「ええ。仕事などで家に帰れない時に使うために、購入したんですけどね」
 都心で、駅近くのかなり立地条件の良いマンションで、日本はウィンカーをつけながら、
地下駐車場へと入って行く。
「ホテルとか使わないんですか?」
「使いますよ。ただ、コレを買った時は結構長いプロジェクトに関わっていたもので。畳
のある部屋がどうしても欲しくて買ってしまったんですよね」
 苦笑しながら、そんな事を言う。畳のためにマンションを買う心理はちょっとよくわか
らないが、彼が畳をこよなく愛しているのはなんとなくわかった。
「昔は、畳のある旅館も都心では多かったんですけど、今はベッドが主流ですよね。さす
がに観光地の旅館は畳が多いですがね…」
 自分の国の変化に、少し寂しそうに言う。彼がベッドで寝る年数と、畳の上で寝た年数
を思えば、畳への愛着を捨てきれないだろうのはなんとなく伺えた。
「…けど、都心のマンションで、畳のある部屋って、いっぱいあるんですか?」
「んー…、あったりなかったりですかね。最近は、ない事はないって感じでしょうか…。
まあ、ちょっと衝動買いに近かったんですよね…」
「へー…」
 彼がマンションを衝動買いするとは珍しいと思いながら、車が止まったのでシートベル
トを外す。
「あの、荷物は…」
「ああ、大きいのは置いていってください」
 日本もシートベルトを外しながら、朗らかにそう言った。少しはしゃいでいるような気
がするが、そうではないかもしれなくて、読みにくい。
「……で、その部屋へ行くんですか?」
「ええ。えっと…何号室でしたっけ……」
 自分で買っておきながら部屋番号忘れるとは何事であろうか。ちょっと待てとか思いな
がら、台湾は手帳を繰る日本を眺めた。
「…日本さん、このマンション…あまり使ってないんですか?」
「お恥ずかしながら、そのプロジェクトが終わったらあまり使わなくなってしまったんで
すよね…。使わないと部屋は悪くなってしまいますから、時々、掃除をしには行くんです
けどねー…。ああ、1506号室。15階ですね」
 どうやら、その部屋へ連れて行こうとしているらしい。その本心はとりあえず今は聞か
ないでおいて、台湾は歩き出す日本について行った。
 マンションは時折人が行き交い、仕事場として使っている人もいるようである。エレベ
ーターに乗って、15階まで赴き、目当ての部屋まで向かう。
「ちょっと待ってください」
 ポケットからカギを取りだして開けると、確かに室内からはほんのりカビくさい匂いが
漂ってきた。
 これは確かにあまり使われていない。
「ああ、やっぱり掃除しないといけませんね…」
 玄関へと入って行き、靴を脱ぎながらあがる日本に続いて、台湾も靴を脱ぐ。もしかし
て、もしかしなくてもこの部屋の掃除を手伝えと、そう言う事なのだろうか。
 …まあ…、いいんですけどね……。
 掃除を手伝うくらいやぶさかではないが、それならあんな含んだ言い方などせずに、最
初から言っても良いようなものをとは思う。
「掃除、手伝いますか?」
「そうですね。その方が部屋に何があるかわかって良いと思います」
 振り向いてそう言うと、日本は少し微笑んだ。
 ちょっと狭い玄関と廊下があって、何も家具が置いていない洋室と、畳の部屋が一室。
ソファやテレビなど一通りの家具が揃えられた居間は、ダイニングとキッチンが一続きと
なっていた。典型的な2LDKで、一人暮らしするにはちょっと広いくらいの造りである。
 締め切っていた窓を開け、二人で部屋の掃除を始める。掃除用具もクローゼットに一通
り入っていた。
 このマンションの部屋の台湾の感想はというと、最低限の生活用品が一式揃えられてい
るが、生活感のない部屋というか、そんな感じだ。実際、うすく埃をかぶっているものが
多く、室内のわずかなカビ臭さは人が普段住んでいないからだろう。
「冷蔵庫の中も空っぽですか…」
「使っていませんからねぇ……。でも、お茶はありますよ」
 小さめの冷蔵庫の中には脱臭剤が一つ、ポツンと入っているのがシュールで、そもそも
電源が入っていなかった。
 掃除が終わり、喉が渇いたが冷たい飲み物など冷蔵庫には入っておらず、戸棚から茶葉
を取りだして、現在はお湯を沸かしている始末だ。
「あー。このコーヒー消費期限が過ぎてますねー…」
 日本は茶葉の缶を取りだした後、インスタントコーヒーのビンも取りだして、独りごち
ている。そんなに滞在しないからと小さめのビンにしたらしいが、それでも飲みきれなか
ったようだ。
 台湾はダイニングのテーブルセットの一つに腰掛け、窓からの景色を眺めている。
 駅からの徒歩距離を考えれば便利な場所だが、日本はやはり多少遠くても自宅の畳が落
ち着くらしい。まあ、そのあたりは台湾もよくわかる。自分の事に置き換えて考えれば、
答えは自ずと出るものだ。
「ご苦労様でした。すみませんね、手伝ってもらって」
「いえ、別に、良いですよ」
 お茶を入れてもらい、台湾は窓から日本へと視線を変える。
「…それでですね、台湾さん」
「はい」
 飲もうと思ったお茶が熱かったので、飲むのを止めて机の上に置いた時だった。
「このカギ、もらってくださいませんか?」
 言って、日本がこの部屋のカギを台湾に向けて差し出した。
「………………」
 一瞬、何を言われたのか理解できなくて、きょとんとした表情をする。やがて、反芻す
るように言葉の意味を理解して、目を大きく見開かせた。
「……え……え!? ほ、本当ですか!?」
「ええ。見た通り、ほとんど使ってないのが現状です。どうやらあなたはよくこちらにい
らしてるようだし、仕事で来るならここは便利だと思います。使わないより使う事が部屋
のためでもありますし」
 信じられなくて目を見張り、そしてその見開いた瞳を日本に向ける。すると、彼は困っ
たようなはにかんだ笑みを見せた。
「良いんですかー?」
「むしろ使ってくださいと言ったところですよ。使ってもらった方が部屋のためなんです
から。それに、あなたなら汚くする事はないでしょうし」
「え…、え、でも、私物とか、私の物とか、置きまくっちゃいますよ!?」
「かまいませんよ。お好きに使ってください」
 どうやら、彼は台湾を信頼してくれているらしく、にこにこしながらそんな事を言う。
含んだ物言いはこの事だったのかと、台湾は改めて思い直した。
「とはいえ、私も使わない事はないので、今ある物を捨てられても困るのですが」
「でも、でも、そもそも少ないじゃないですか。あるものって言ったら、使うものばかり
ですし」
「着替えとか、ちょっとはあるんですよ。一応」
「日本さんの物なんて捨てないよ! …っていうか、本当に、良いんですか?」
「ええ。どうぞ」
 あっさりそう言って、彼はお茶をすすった。ちょっと信じられない気もしたが、台湾の
目の前にあるカギは、さっき日本が使ってこの部屋の扉を開けた鍵である。
「じゃ、もらっちゃいますよ! もらっちゃいますからね!」
 ぱっとカギを手にとって、手の中にカギを見つめた。嬉しさがこみ上げてきて、頬がゆ
るんできた。
 ここへ来る時に馴染みとなったホテルにはちょっと悪い気がするが、彼にこんなものを
もらってはここを使わないわけにはいくまい。というか使わずにはおられないというか。
 手の中のカギを見つめてにまにましていた台湾だが、重大な事に気付いて、思わず日本
を見た。
「あの! でもあの、これもらっても、その、日本さんとこにも行っても良いですか?」
 もしかして、彼の家に遊びに行く理由をなくして、体よくさよならさせられるのかと、
一瞬青くなる。
「ん? かまいませんよ。仕事と遊びは別でしょう?」
 しかし、どうもそんな気は毛頭なかったようで、日本に不思議な顔をされてしまった。
それを見て、ほっと胸をなで下ろす台湾。
 どうやら、純粋に厚意でこんなものをくれたらしい。太っ腹だと思うが、確かに使って
ない部屋をどうしようか思っていたフシもあるようなので、お互いにとって渡りに船だと
思っておくことにする。
 心配事が過ぎ去ると、また嬉しさがこみあげて、カギを見つめてまたにまにましだした。
そんな彼女を眺めて、日本も穏やかに微笑む。
 喜んでもらえれば、それで良い。
 そう言った雰囲気で、彼はお茶をすすった。
                                                                 NEXT>>