台所から、包丁を使う音が響いてくる。
 遊びに来た台湾のために、日本が腕を振るってくれるそうで、手伝おうと申し出たが断
られてしまった。
 ヒマだった台湾は、日本の家にあるマンガを借りて読んでいる。彼の家にあるマンガは
質、量ともに良いものが多く、遊びに行くたびに目移りしてしまう。
 彼女のお気に入りは純愛溢れて展開が気になる少女漫画と、男の子同士の妖しい恋愛の
ボーイズラブ漫画だ。彼自身はそれにさほどの興味を示さないが、よく遊びに来る台湾の
ためか、彼女のお気に入りを揃えてくれている。
 その上、面白いゲームや、彼女の好きな乙女ゲームだけでなく、ドラマ、映画のDVD
も取り揃えられており、時間をつぶすのに事欠かない。
 忙しくて、彼がなかなかつきあえない時でも、気にならないのはこういうのをきちんと
揃えてくれるからで、不満を覚える事は少ない。
「ふー…」
 良い感じの読み切り漫画を読み終わり、ちょっと夢見がちなため息を吐いて、漫画を閉
じた。
 さて、次は何を読もうかととりあえず持ってきた数冊を眺めて悩んでいると、ふと、机
の上に黒革の手帳が無造作に置かれているのに気付いた。さっきからずっとあったようだ
が、漫画に夢中で気がつかなかったらしい。
 ボールペンが挟まれており、手帳の様子から使い込まれているのが見て取れる。自分の
ではないから、この家にいる人間のものとして考えると、日本のものだろう。
 好奇心から、台湾はそれを手に取り、開く。
「…うわっ……」
 忙しい男だが、びっしりと予定が書き込まれているのを見て、思わず声を漏らした。よ
くこんなスケジュールで、趣味の機械いじりだの絵画だのできるものである。
「…台湾さん、机の上を片付け……あ、ちょっと何見てるんですか……」
 自分の手帳をじっくりと見られて、料理を盆に乗せて運んで来た日本はわずかに眉を顰
めた。
「日本さん、このスケジュールでどうやって休んでるんですか?」
「……まあ、どうにかなるもんですよ。それより台湾さん。机の上の漫画、片付けてくだ
さい。これから料理を運びますから」
 とはいえ、取り上げる程怒ってはいないようで、ちゃぶ台の上に散らばった数冊の漫画
を片付けるように台湾に言う。
「はい…。でも、日本さんちゃんと休んでます? 寝てます?」
 とりあえず手帳を閉じて、漫画本を片付け始める台湾。
「…まあ、なんとか……」
 それは日本自身も感じているようで、ごまかすような事を言い、運んできた料理を並べ
始めた。
 盆の上の料理を並べ終わった後、まだ台所にある料理を取りに、日本は再び台所へ向か
う。台湾は再度、彼の手帳を手に取った。
 今日の予定を見ると、ちゃんと自分の来訪の旨が書かれており、予定として割いてくれ
ている。というか、前もって言っておかないと、留守だったりほったらかされたりするの
は知っていたが、こんなスケジュールではそれも当然というか、何というか。
「…あんまり人の手帳を見ないでくださいよ…」
 熱心に自分の手帳を読まれて、あまり良い気持ちがしない日本はそう良いながら、料理
の残りを並べている。
「どうしてですか? 日本さんも、私の手帳見て良いですよ?」
「…いや、そういうわけじゃなく……」
 台湾としては、自分達は親密な間柄なのだから、お互いの手帳や携帯電話を見るくらい、
して当然だと思っているのだが。
 しかし、まあいいと思ったのだろう。それ以上は日本もその事について言わなくなり、
料理を並べている。
 そして、料理を並べ終えるとまた台所へ向かった。まだ味噌汁と御飯が台所にあるから
だ。
「台湾さん。ごはんですから」
「あ、はい」
 うながされ、ようやく彼女は手帳を閉じる。気がつけば、美味しそうな料理がちゃぶ台
に所狭しと並び、目前には暖かい御飯と味噌汁が並べられている。
「日本さん、本当料理上手ですねー」
「お口に合えば良いんですけどね」
「大丈夫です。私の味覚、日本さんと、そう遠くないです」
 にこっと微笑むと、彼は照れ笑いで返してくれた。もうかなりの歳だそうだが、見た目
で言えば、台湾とそう変わりないようにも見える。
「じゃ、いただきましょうか」
 言って、日本は三角巾と割烹着を脱ぐ。割烹着の下は渋い色合いの着流しを着ており、
幼い顔付きと比べると妙にミスマッチに見える時がある。
「はい!」
 昔教わった通り、台湾は手を重ねあわせる。いただきますと言うためだ。

 心づくしの料理を食べた後、仲良く二人で後片付けをして、気ままに過ごした後、台湾
は勧められて入浴を済ませた。
 自分が風呂から上がると、彼はそれじゃと言って、今度は彼が風呂へと向かう。
 台湾としては、自分達の仲なのだし、この家の風呂はあんなに広いのだから二人でしっ
ぽり…とか思うのだが、彼は彼女に手を出して来ようとしない。
 実際、彼女としては、日本が先に風呂に入って行ったのなら、追いかけて自分も一緒に
入るぐらいの心意気はあるのだが。一番風呂だからと勧められると断りにくい。一緒に入
ろうと言っても、うっすらと笑って取り合わない。
 彼が本当は助平なのは台湾もよく知っているが、再び付き合いだしてからは妙に手出し
してこないのが、不思議だった。
 ふうとため息をつきながら、食事前に読んでいた漫画と一緒に置かれた日本の手帳に気
がついた。

 風呂から上がり、日本が頭をタオルで拭きながら居間へ赴くと、台湾が熱心に自分の手
帳になにやら書き込んでいるのが目に入って来た。
「……台湾さん…? 何、してるんですか?」
「日本さんの手帳に、私の予定書き込んでます!」
「え……」
 何をしてるんだと、思わず日本は台湾が書き込む手元をのぞき込む。
 すると、自分の手帳を見ながら、ピンク色のインクの花柄ペンで日本の手帳に台湾の来
訪期日を書き込んでいた。
 ピンクのペンというのが女の子らしくて、また妙に幼い行動が可愛いのもあって、日本
はため息と共に不機嫌さを霧散させる。
「……っていうか、日本さん、いつウチに来てくれるんですか?」
「え…?」
「私、よく日本さんとこ来てるのに、日本さんあんまりウチに来てくれないです!」
「いや…それは……。すみませんが、忙しくて……」
 それは、この手帳を見ていれば嫌でもわかる。少ない休みを自分の趣味に使ったり、ま
た別の友達の所へ、となるとさらに休みの日に台湾の所へ来訪、という機会が減るのも当
然というものだ。
 それがわかっていてもつまらなくて、台湾は無意識に口をとがらせる。
「仕事で来ても、ほとんどすぐ帰ってるじゃないですか」
「いやその…」
 仕事の日に無理に遊びに来いとは台湾も言えない。自分もそうなのはわかっているから
だ。
「私、もっと日本さんと仲良くなりたいのに、寂しいです」
 言って、台湾は目を伏せる。日本もどう言って良いかわからず、思わず口ごもった。
「その……、…でも…、あなたが遊びに来てくださるのは、嬉しいんですよ」
「………………」
 そして、慰めるようにそう言うと、彼女は上目遣いの瞳で日本を見上げる。
「…じゃあ、もっと…仲良くしてくださいよ…」
 意味ありげにそう言って、台湾は日本の手をぎゅっと握った。一瞬、息を飲んだかのよ
うに見えた日本だが、相変わらずの無表情さである。
「……私は、仲が悪いなんて思っていませんよ……。さあ、台湾さん。客間に床を用意し
てありますから。湯冷めしないうちにお休みになってください」
 しかし、彼は彼女の裏に含んだ意味を知ってか知らずか、そう言って空いた手で台湾の
肩を優しく叩いた。
「に、日本さんは?」
「私は部屋の片付けがありますから」
 そう言われてしまうと、台湾も次の言葉が出てこない。仕方なく立ち上がり、彼の言葉
に従う。
「あの、漫画、持って行っても良いですか?」
「どうぞ。ただ、読み過ぎには注意してくださいね」
「はい」
 渋った様子ではあったが、台湾は日本の言う事に素直に応じて、客間へと向かった。そ
んな様子を見送る日本の瞳は、何を考えているのか、どこを見ているのかもわかりにくい。
 そして、台湾が見えなくなると、ふと、残された自分の手帳を見た。拾い上げてめくる
と、自分が書き込んだ予定の他に、ピンク色のインクで台湾が書き込んだのが目に付く。
 こうして見ると、確かに彼女はよくこちらに来ている。ご丁寧に仕事での来訪の期日も
書き込まれていた。彼女が仕事で来訪した時や、北海道など首都から離れた場所へ直接観
光に行く時は、この家に来ない事がほとんどなのは知っていたが、なかなかの頻度である。
 それに比べ、自分の彼女の所への来訪の頻度の少なさはどうだ。行くといっても仕事が
ほとんどで休暇となるとかなり少なくなる。これは、ちょっと彼女に甘えすぎではないか
と自責の念もこみ上げる。
 しかし、自分の仕事をおろそかにするつもりはないし、どうすれば良いかと、口に手を
当てて考えた。
 そして、彼は一つ、ため息をつく。

「はーっ……」
 ため息をついているのは台湾も一緒だ。
 この家に、日本の家に遊びに来るという事は、彼ともっと深い関係になっても良いとい
うか、むしろそうなりたいという願望もあるのだ。そもそも、その気がないなら一人暮ら
しの男の所へ一人で泊まりに来たりしない。
 しかし、彼はそちらの方面ではとんと手を出してこない。
 まったくない事はないのだが、どうにも頻度が少なすぎる。親密な仲って、そういうも
のなのかと思ってしまう。
 態度から、疎んじられていたり、迷惑がられている気配は感じない。けれど、読めない
彼の表情は内心そう思っているのではと思わせられる。
 というか、彼自身「男の生理」をどう処理しているのかも気になるところだ。彼女自身、
欲求不満気味だというのに、助平な彼は本当にどうしているのだろうか。
 別の女性と? とか思うとため息をつきたくなる。
 彼の自分を見る視線は、恋人というより、孫とか妹である事が多くそれが悔しい。
 そして、台湾はまたため息をつく。

 ふと、目が覚めると見た事のある天井が目についた。
 見慣れた天井ではなかったために、一瞬、ここはどこだったかと考えて、そう言えば、
ここは日本の家だったなと思い直し、台湾は目をこすりながら起き上がる。
「ふあ……」
 あくびを一つして、近くに置いてある自分のカバンを引き寄せ着替えを取り出した。
 着替えながら思うのは、気合い入れた可愛い下着も、恨めしいくらいに役に立っていな
い事。このピンクのレース下着とか結構良い値段したのに。
 いつ何どき、心揺れるシチュエーションが訪れるとも限らない。その時に萎えるような
下着を身につけていては、乙女としてあってはならない。とは、思うものの、デザイン重
視の下着に機能性は乏しいし、寒い時は腹巻きだってしたくなる。
 買い物や観光目的などでここに遊びに来ても、得るものはちゃんとあるので、まだ良い
ものの、こうも関係がないとため息だってつきたくなる。
「台湾さん? 起きてますか?」
 ふすま越しに日本の声がして、思わずハッとなる台湾。今はブラを半分脱いだままの格
好なのだ。思わず脱ぎ立ての寝間着で胸を隠す。
「あ、は、はい!」
「朝食の準備ができましたから。居間でお待ちしていますね」
「はい」
 そう言い終わると、ふすまの向こうの気配が遠のく。彼はプライバシーの侵害を犯す事
なく、ふすま越しに声をかけただけで立ち去ってしまった。
「……………」
 別に、胸を隠す必要もなかったなと。良かったような良くなかったような気持ちになる
台湾。

                                                                 NEXT>>