「おーい! ライラー! ライラー!」
 この家にいるはずの女の子の名前を呼んで、ロイは扉をどんどんと叩く。もちろん呼び
鈴というものが玄関に備え付けてあるのだが、彼の背ではまだそれに届かなかった。
 しかし、家の中はしんと静まりかえっているようで、人がいる気配はない。ロイは顔を
しかめて、玄関からちょっといった所にある窓をのぞき込もうとしたが、やはり背が足り
なかった。
 ロイがどうしようか困っていると、家の隣にある動物小屋の方から、犬の鳴き声がする。
あの鳴き声はこの家の愛犬のものだろう。ロイはとりあえずそちらに向かってみて、動物
小屋の中をちょっとのぞき込んでみた。
 いた。
 淡くて長い赤毛の女の子が、バケツを持って牛や羊たちに水をやっているのが見える。
「ライラ!」
 声をかけると、彼女はひどく驚いた顔をさせて、こちらを見た。
「ロイ? どうしたの?」
「かーちゃんが、おまえんとこにって、カマとクッキー」
「…カマとクッキー?」
 その組み合わせの意味がわからなくて、ライラはきょとんとした顔をしている。彼女の
後ろには大きな真っ白い犬が舌を出したまま、寄り添っていた。
「カマは、チハヤおじさんに言えばわかるって。クッキーはおまえが食べろって、母ちゃ
んが作ったんだ」
「うん? ………ともかく、カマの方はパパに渡せばいいのね?」
「そうそう」
「ちょっと待って。みんなにお水をあげるから…」
「おれも手伝うよ」
「え?」
 ロイは荷物を動物小屋の入り口にそっと置いて、腕まくりしながら中に入って行く。
「これ、水飲み場に入れれば良いんだろ?」
 やや強引に、ライラの手からバケツを取り上げ、彼女の方へ顔を向けた。
「い、いいよ…。私のおしごとだもの、これ」
「それ、家の方に持ってけよ」
 取り返そうとするライラを制止して、ロイは自分が持ってきた荷物を顎で指す。
「中にカマも入ってるんだ。クッキーはさっき焼いたばっかりだし。早く持ってけよ」
 そこまで言われて、ライラは多少まごついていたものの、ロイの言う事を聞く事にした
らしい。軽い足音をさせて小走りで荷物を取りに行く。その後に、白い犬もついて行く。
「…あの、ありがと」
「おう」
 彼らしくなくなんだか無愛想に返事して、ロイは水バケツを持って家畜達の水飲み桶へ
と向かった。
 程なくして、ライラが戻ってくる。やはり、彼女の後には白い犬がついて来た。
「ロイ? 終わった?」
「ああ。次、何すれば良いんだ?」
「え?」
 いきなりロイが仕事を手伝ってくれる展開についていけなくて、ライラは目をぱちくり
させるばかり。
「…牧場の仕事、おまえもやってんだろ? ヒカリおばさんとリオンがいなくて大変なん
だろ? 今」
「…そりゃ……冬とはいえ、ママがいなくて…ちょっと…大変だけど……」
 冬は農作がない分仕事は減るのだが、チハヤは他に仕事も持っているし、ライラのやる
事が増えて大変なのは事実だった。
 お手伝いはいつもの事だから大丈夫とはいえ、その量が増えるとやはり小さなライラに
とっては実際なかなかしんどい。
「一人でやるより二人の方が早いだろ。早いとこ片付けて、母ちゃんのクッキー食えよ」
「………………うん……」
 いきなりクッキーを食べろというのにも、ライラはついていけてないのだが、元来オシ
に弱いらしい彼女はなんだかよくわからないうちに頷いた。

 牧場の仕事は初めてだったが、なかなか大変だった。
 慣れないというのもあるだろうが、ライラはいつもこんなお手伝いをしているらしい。
 動物小屋の掃除をしながら、ロイは吹き出てきた額の汗をぬぐった。
 しかし、体力勝負というのなら負けていられない。ライラは目立つ事はしないが勉強の
成績も悪くないし、実は運動神経も悪くないのだ。勉強の方はともかく、運動の方では負
けられない。こちとら鉱山育ちである。牧場育ちも体力あるだろうが、鉱山育ちとしてひ
弱なところは見せられない。
「ロイ? そっちは終わった?」
「ああ。もうちょっとだ」
 ブラシをかけ終わり、ロイは自分が掃除したあたりをぐるっと見回してみる。
 学校でも教室の掃除をするが、こんなに頑張って掃除したのは初めてかもしれなかった。
「終わったぞ」
「ありがとう」
「他にやることはあんのか?」
 すぐに次の仕事を聞かれて、ライラもちょっと戸惑ったように口元に手を当てる。
「ん…大体はパパがやってくれてるから、後はもうないんだけど…」
「そっか…」
 少し拍子抜けして、ロイは肩の力を抜いた。
「じゃあ、おばさんのクッキー食べようよ。私、ミルク入れたげる」
「え? いいよ。母ちゃんのクッキーなら家にあるし」
 袖についた汚れに気がつかず、額の汗をぬぐうと彼の額にその汚れがうつる。
「だったら、ミルクぐらい飲んで行きなよ。ノド乾いてるでしょ?」
「……ん……うん……」
 確かに、汗もかいて喉も渇いている。そこは否定できなくて、ロイは思わず素直に頷い
た。
 動物小屋から一歩外に出ると、空はだいぶ暗くなっていた。空には夕焼けの朱色がいく
ばくか残っていたが、やがてすぐに消えてしまうだろう。
「うわ。今、何時だ? 母ちゃんに遅くなんなって言われたんだよなあ」
「ミルク飲むくらいの時間あるでしょ?」
「う、うん……」
 いつもより強引にそう言われて、ロイもなんだか仕方なく頷いた。確かに彼女の家のミ
ルクはびっくりするほどに美味しいのは知っているから、飲みたくないわけではない。
「タマちゃんにもミルクあげるね。来て」
「わん!」
 いつも寄り添う白い犬にもそう声をかけて、ライラは髪の毛を揺らして背中を向ける。
 その少女の背中をぼんやり見ていたら、玄関の前で手招きされて、ロイは我に返るとそ
ちらに向かった。

 冷たくて白いミルクをコップになみなみと注がれて、ライラはロイの目の前に持って来
る。
「はい、どうぞ」
「あ、ありがとう」
 汗もかいたし、そういえば割と長い間飲み物を口にしていない。ロイはコップを手に取
り待ちきれなかったようにコップに口をつけた。
「んっく…んっく…っく……」
 ライラに出されたミルクは冷たくてすごく美味しくて、喉を通りこしてもまだ飲み足ら
ぬほどに身体が催促する。
「………っぶはーっ!」
 唇の周りを白くさせながら、空になったコップを机の上にどんと置いて妙におっさんく
さい調子で息を吐き出した。
「…っちょー…、うめえー」
 腕でぐいっと口をぬぐって、やはりおっさんくさい口調でロイはそう言った。自分とこ
ろのミルクをそう言って飲んでくれて嬉しいライラは、にこにこしている。
「おかわりあるよ?」
「え? いいのか?」
「いいよ」
 そう言って、ライラは瓶からコップへミルクをまた注いでくれた。
「飲んでてね」
 そして、ミルクを注ぎ終わってロイの方に差し出すと、ライラは不意に立ち上がる。
「…どしたんだよ?」
「洗濯物。取り込んでおいてそのままだったからたたまなくちゃ」
「……………」
 ロイは洗濯物をたたむなどした事がないし、もちろん取り込みもやった事がない。とい
うか洗濯だってしたことはないのである。
 呆然としているロイを尻目に、ライラはソファーの上にうち捨てられたように重なる洗
濯物を手に取った。
「……おまえ、いつもそんな事やってんのか?」
「いつもは、ママと一緒にやるの。ママがあんまり忙しい時は私だけでやる時もあるけど、
大体はママと一緒よ」
「へ、へー……」
 コップを手にしてまま、ロイはなんだか引きつったような顔で返事をする。よく家の手
伝いをしているなーとは思っていたが、これはロイが思ってる以上に彼女は家のお手伝い
をよくしているようだ。
「今はパパと私のだけだから。量はいつもより少ないけどね」
「うん……」
 ロイの家庭はなんだかんだと人数は多い方だ。おまけにみんなよく汚してよく食べるの
で、家事をきりもりするキャシーも大変そうなのだが。
 自分の分と父親の分の洗濯物をたたみ終えたらしい。軽く二つに分けてソファの上に置
くと、ライラはロイの所へ戻ってきた。
「…終わったのか?」
「うん。量が少ないから」
 そう言って、ライラは自分の分のミルクを注ぎ、コップに口をつける。机の上に置かれ
たクッキーにも手を伸ばして、一口かじった。
「ありがとね、クッキー。キャシーおばさんにも美味しかった有り難うって言っておいて」
「う……うん」
 彼女の両親の料理の腕を考えると、ロイとしては食べ物の差し入れはこの家にとってあ
まり有り難くないのではないかと思うのだが、ライラを見ているとそうでもないのだろう
か。
「ロイも食べなよ」
「いや、母ちゃんたくさん作ったらしいし…」
「食べれば良いのに」
 そう言って、ライラはまたクッキーを口に放り込む。それを見ていると、食べても良い
のかな、という気になってロイも皿に盛られたクッキーに手を伸ばした。
 まだほのかに暖かいクッキーは甘くて、冷たくて美味しいミルクとよく合った。
「…おじさんは遅いの?」
「んー? もうちょっとかな。ママがいないから、パパはいつもより早めに帰ってきてく
れるんだけどね」
「…じいちゃんに頼めば、おじさんの仕事、休ませてくれるんじゃないのか?」
「そしたら、ハーパーさん一人で酒場する事になるんでしょ?」
「じいちゃんの事だから大丈夫なんじゃないか?」
 身内に対して妙に冷たい事を言って、ロイはミルクに口をつける。
「それが大変だからって、パパが手伝ってるって聞いたよ。……パパもね、牧場の仕事の
後に酒場のお仕事は大変だと思うの…。…でも、好きでやってるからって、前に言ってた
の。好きでやってるんだもの。そんなすぐにお休みしちゃいけないと思うよ」
「う、うーん……」
 反論できなくなり、ロイはミルクをまた飲んだ。
「…パパも頑張ってるんだもの。私も頑張らなきゃって思う」
「……ライラ……」
 大人しくて控えめだけれど、秘めた意志力は半端ない。ロイが彼女から目が離せなくな
る時は、そんなところを見つけた時だ。
「…あ、ロイ、時間大丈夫?」
「あ。やべ」
 ふと窓を見れば、すでに陽もとっぷりと暮れて真っ暗になっていた。ロイは慌ててミル
クを飲み干すと、口をぬぐう。
「ミルク、サンキュな。すげー美味かった」
「あ、うん」
 丸イスから立ち上がり、ロイは慌てて帰り支度をととのえる。
「ごめんね。私がミルク飲んでってって言ったから…」
 すぐに終わると思っていたのだが、少しまったりしてしまった。
「いいよ、いいよ。ミルク美味かったし。あ、カマはおじさんに渡してくれな」
 上着を羽織り、ロイはもう一度壁掛けの時計に目をやる。
「私、ロイのおうちまで送るよ」
「はあ?」
 突然の申し出に、ロイは素っ頓狂な声をあげた。思わず玄関に向かった足を止めて、彼
女の方へ振り返る。
「な、なに言ってんだよ。おれは慣れてるから大丈夫だって。何だっておまえがおれを送
るなんて言い出すんだよ」
「だって、お外真っ暗じゃない。大丈夫よ、タマちゃんと一緒だから」
「いや、だって、おまえ、おれんち来たら一人で帰る事になるんだぞ!」
「タマちゃんと一緒よ」
 ライラは絶対的な信頼をおいている愛犬の名前をもう一度口にする。
「犬と一緒だからって、こんな暗い中、鉱山からここまで一人で帰って良いって事になん
ねえだろ!」
「大丈夫よ! タマちゃんと一緒なら!」
「大丈夫じゃねえって! 吊り橋だって渡るんだぞ!」
「大丈夫だって! 鉱山くらい私だってたくさん行ってるんだから!」
「そりゃ明るい時の話だろ! こんな暗い時の話じゃねえだろ!」
「なによ! タマちゃんがそんなに信用ならないの!?」
「犬の話じゃねえよ!」
 わあわあぎゃあぎゃあ二人が言い合っている中、不意に玄関の扉が開かれた。だが、言
い合いに夢中になっている二人はそれには気づかなかったらしい。
「……ただいまっ…て……何してんの?」
 チハヤが酒場を早引けして帰って来たのだが、帰ってくるなりなぜかいるロイとライラ
の言い合いを目前にして、小さく眉を潜めた。
 しかし、チハヤの声は言い合いをしている二人には聞こえなかったらしい。なおもぎゃ
あぎゃあと言い合いを続けている。
 チハヤはため息をついた。


                                                                 NEXT>>