ギルが出て行った扉を見送って、チハヤは小さく息をつく。
 もちろん、娘一人を家に留守番させっぱなしに不安がないわけない。だが、仕事もしな
いといけないし、嫁が帰ってくるまでの辛抱を自分も娘もしなければならないのだ。
「なーにー? ヒカリ、いつの間に実家なんて帰ってんの?」
 不意に、一連のやりとりを見ていたシーラがカウンターに体重をかけてチハヤに話しか
けてくる。
「……先週からだね。あっちのお義母さんがなんか倒れたらしくてね。滅多に帰れないか
ら、この際だからってリオン連れて、ね。最初は家族みんなで行こうかって話してたんだ
けど、奥さんの実家はやたら遠いし、あっちのお義母さんの容態によっては長引くかもし
れなくて、そんな長い間、牧場の事をほったらかしにするわけにもいかないしさ。で、仕
事と学校がある僕とライラが残ったってわけ」
 まだ学校にいけるトシではない息子を連れて、彼の嫁は船に乗ってこの街を出発した。
昨夜、やっと実家に着いたという連絡が来て、本当に交通の便が悪い場所である。
「ああ、そういえば、前にヒカリの実家行くってんで、あんた随分長く休んだ事あったわ
よね。私のオオトリ島よりも時間かかるらしいんだもの。どれだけ遠いんだかって思った
けど」
 一回だけだが、チハヤは彼女の両親に会った事がある。優しくて穏やかで働き者という、
こんな家族が実際にいるのかと思うほど理想的で円満な家庭であった。何だってこんな素
晴らしい家庭から、遠く離れたこの町にやって来た嫁の気持ちはよくわからなかった。
 大人になったから独り立ちする、というのはわかるのだが、なにもこんな遠い場所にま
で来なくたって…と思ったものである。何せ、彼女の実家の滞在時間と、往復時間が同じ
だったというのだから、チハヤも呆れた。
「とにかく交通の便が悪い場所でね。…ちょうど、ここみたいに田舎でさ。のんびりはし
てるんだけど、それだけというか。そんな場所だったよ」
「へー。ね、ね、あの子のご両親ってどんな人だった?」
 チハヤの嫁とも親睦が深いシーラは彼女の両親の事を突っ込んでくる。
「…うん? お義父さんは、穏やかで優しい人だったな。お義母さんの方は…明るくて、
元気な感じの人だったよ」
「へー! へー! 前にさ、ヒカリが自分の母親とリーナがよく似てるって言ってたんだ
けど、似てた?」
「そうそう、それそれ。それね。奥さんが自分のお母さんとリーナはよく似てるって言っ
てたから、まさかと思ってたんだけど、本当に似てたから驚いたよ」
 包丁を手に持ったまま、チハヤはシーラの方を見てそう言った。
「あらー、本当だったの? ふーん…、ちょっと見てみたいかも……」
 肘をついた指の上に軽く顎を乗せて、シーラは宙をぼんやりと眺めている。
「僕も行けたら行くんだけどね。…ウチの牧場をカラにするわけにはいかないし、人に頼
むにしても長期間だから気がひけるし、ライラも学校を長く休ませるっていうのもね…。
とにかく、遠すぎるんだよ……」
 本当に何だってまた、あんな田舎から、またこんな田舎にまでやって来るのか本当によ
くわからなかった。とはいえ、彼女がここに来たから、彼も彼女と結婚できたわけだが。
「よっぽど不便みたいね?」
「ああ」
 シーラの言葉にため息混じりに頷いて、チハヤは料理の仕込みを再開した。
「…すまないな。ライラ一人で居させるのは心配だろうが…」
 気兼ねして、ハーパーが低い声を出し、チハヤは苦笑いを浮かべる。
 実のところ、チハヤは酒場で働かなくても十分な生活ができるほどの稼ぎが、家の方で
あるのだが、料理が得意な彼は趣味と実益を兼ねて、パートタイムで働かせてもらってい
る。酒場の方も彼の料理の腕は有り難いので、家の仕事が終わってから、チハヤに来ても
らっているという案配だ。
 今回のような場合は、嫁が実家に帰っている間だけ、休むという選択肢もあったのだが、
それだとハーパー一人で酒場を切り盛りせねばならずツライらしい。なので、パートタイ
ムからさらに少ない時間で現在チハヤはここで腕を振るっている。
「…まあ、仕方がないですよ。ギルの言うとおり、あの子も、お留守番は良い経験になる
だろうし」
 苦笑いを浮かべたまま、チハヤはそう言ってまたまな板の方に視線を落とした。
 一日二日なら、娘も我慢してくれるだろうが、それが続くとチハヤの方も心配なのだが、
ここは我慢してもらうしかないだろう。
 ため息を飲み込んで、チハヤは料理の方に頭を切り換えた。
 早引けさせてもらってるし、娘が寝る前くらいには帰れるはずだ。


「なあおい、ライラ」
 就学時間が終わり、チャイムが鳴り響く中、ロイは前の席に座っているライラの長い髪
の毛を軽く引っ張って話しかけた。
「きゃあ! なにするのよ!」
 髪の毛を引っ張られただけでなく、彼女に、その話題は彼女をご機嫌ななめにさせるら
しい。いつもは穏和な彼女がむっとした顔を振り向かせてロイの方を睨み付ける。
「今日もチハヤおじさん仕事なんだろ?」
「…そうよ」
 ロイの質問に無愛想にそう言って、ライラはノートやら教科書やらをカバンにしまう。
そんな彼女の横顔を見つめて、ロイは昨日思いついた事を口にした。
「……だったらよ、おじさん帰ってくるまでおれが一緒にいてやろうか?」
「え?」
 それは、彼女にとって相当意外な申し出だったらしい。大きな目をさらにまん丸にさせ
て、ライラはロイを見る。
「……なんで?」
「なんでって、チハヤおじさん遅いんだろ? 帰ってくんの。一人で大丈夫なのかと思っ
て」
「……大丈夫よ。タマちゃんいるし。ごはんはパパが作っておいてくれてあるし」
「……ふーん……」
 まあ、断られたら仕方がない。ロイは机の上に腕を組んで、前の席の長い赤毛の女の子
を見つめた。
 父親譲りの薄い色の赤毛と紫の瞳。顔立ちはまるっきり母親似で穏やかな面差しをして
いる。このクラスの女の子はみんな可愛いが、彼女も例外に漏れず、である。
 彼女が動くたびに、淡い赤毛が揺れた。その毛先が妙にくすぐったそうに跳ねる。
 何故か目を離せずに彼女を眺めていると、ライラは不意に振り向いてロイを見た。その
顔はさっきのご機嫌ななめな表情ではなく、いつもの明るい可愛らしい笑顔を浮かべてい
る。
「……でも、ありがとう」
 一瞬、何について礼を言われたのかわからなかったが、さっきの申し出についてらしい
と気づいた。
「…え? ………あ、……うん……」
「…ライラちゃん…。今日は一緒に、帰りましょう?」
「あ、うん!」
 いつも一緒に帰るアンジェに話しかけられ、ライラもにこっと微笑む。そして、なにや
らおしゃべりしながら、彼女は学校を出て行った。
 ロイは、そんな彼女の出て行った扉の方をぼんやりと眺めている。
「ロイ! どうしたの? 帰ろうよ」
「へ? ……あ、ああ…うん。……そうだな」
 帰り道が同じヒースに声をかけられて、ロイはハッと我に返った。一体、何にぼんやり
していたのか、自分自身よくわからず、彼は首をかしげながらも帰り支度を始めた。

 ロイは学校から帰って、おやつ代わりにゆで卵を食べながらテレビを見ていた。
 母親は台所の方で何か作っているようで、なにか香ばしくて甘い匂いが漂ってくる。
 ちょうど、ロイが毎週見ている戦隊モノの再放送がされていて、前に見た内容でありな
がらも、ロイはゆで卵を食べる手をおろそかにしつつ、それに見入っている。
「ロイ、ローイ!」
「……なんだー、かーちゃん」
 台所から名前を呼ばれても、ロイはテレビから視線を離さないまま、やや上の空な声で
返事をした。
「ロイ! あんたちょっとおつかい頼まれてよ」
 母親のキャシーが、大きな布袋に紙袋を入れながら、テレビのある居間の方に姿を表す。
「あとでやるよ」
「今、行って来なさい。早く行かないと、この季節すぐに暗くなるんだから」
「うーん」
 しかし、ロイは生返事をしたまま、やはりテレビから視線を離さない。それを見ていた
キャシーのこめかみに血管がぴしっと浮き上がる。
「ロイっ!」
「は、はいいっ!」
 大声で怒鳴られて、ロイは思わず飛び上がった。
「テレビを消しな!」
「わ、わかったよぉ〜」
 渋々であるが、慌ててテレビのスイッチを消してやっとロイは母親の方に振り返る。立
派な体格をしているロイの父親だが、怒ると怖いのは母親の方であるのを、彼は一番よく
知っていた。
 キャシーはため息を一つつくと、すぐに表情を戻して持っていた大きな布袋をロイに差
し出す。
「…っとに……。……ともかく、これ、ライラちゃんの所に持って行って」
「え? ライラの所に?」
 まるで意外な場所へのおつかいに、ロイはきょとんとした顔をさせる。
「そう。ヒカリが出かける前に農具のメンテを頼まれてたんだけど、カマだけはちょっと
時間かかってね。それが今日終わったから、届けてちょうだい。あと、クッキーを焼いた
から、それもね。」
 さきほどの香ばしい匂いはこのクッキーだったか。ロイは手渡され布袋をのぞき込んで、
思わずひくひくと鼻を動かす。布袋の中には、カマが入っているらしい包みと、香ばしい
匂いを発する紙袋があった。
「…そのクッキー…、おれの分もある?」
「大丈夫だよ。みんなの分作ってあるから」
 ロイが布袋の中に視線を落としたまま言うと、キャシーはにこっと微笑んだ。
「……でもさ、かーちゃん」
「ん?」
「ライラんとこ、今、ライラ一人なんだろ? これ、ライラに渡せば良いのか?」
「んー…。カマはライラちゃんのお父さん宛だから。お父さんに言えばわかるって、ライ
ラちゃんに伝えて。あと、クッキーはライラちゃんに渡してね。あの子、今一人でお留守
番だからね。私も行ければ良いんだけど、こっちもなかなか手が空かなくてね」
「…わかった……。……なあ、かあちゃん」
「なんだい?」
「…おれ、少し遅くなっていい?」
「…どうして?」
「いや……ライラ、今、一人で留守番してるから…。なんか手伝う事あったら、手伝って
こようと思って」
 息子の言葉に、キャシーはちょっと顎をひいて驚いて、それからぱっと明るく笑い出し
た。
「あはははっ。いいよ。でもあまり遅くならないようにするんだよ」
 わしわしと息子の頭を撫でて、キャシーはまだ笑っている。
「うん。いってくる」
「いってらっしゃい。ライラちゃんによろしくね」
「うん!」
 ロイは荷物を持って玄関の方に向かう。その後ろ姿を見送って、なにやらキャシーはに
やにやしているようだった。
「ただいまー…」
 息子と入れ違いに、オセがくたびれた表情で居間に入ってくる。
「ああ、おかえり」
「…ロイのヤツ、これからどこに行くんだ? なんか妙に張り切ってたみてえだが」
「くっくっ…ふふっ…、チハヤのとこにね、おつかいを頼んだんだよ」
「チハヤんとこ? あそこは今、ライラちゃんが一人でいるんだろ?」
「そうそう。ロイ坊ったら、ライラちゃんの手伝いしてくるんだってさ」
 まだにやにや笑いがおさまらないキャシーは、既に見えなくなった息子の方を見ていた。
「ん? なんでだ?」
「ふっふ、なんだい、わかんないかい?」
「あー?」
 オセはまったく合点がいかないようで、ちょっと眉を寄せて同じく息子が出て行った方
を見る。
「あはははは。可愛いねえ〜」
「え?」
 笑い出した女房の言っている事がわからなくて、オセはますます眉をしかめた。
「ライラちゃんみたいな良い子がお嫁に来てくれたら、私も安心ってもんだけど、チハヤ
が反対しそうなんだよねー」
「え? あ? おい、まさか?」
 やっとキャシーの含み笑いに気がついて、オセは目を見開かせる。
「多分ね。まあ、まだ自分の気持ちにも気づいてないみたいだけどね。なーんか、ライラ
ちゃんによくちょっかいかけてるなーと思ったら。そういう事だったか」
「おいおいおいおいおい、本当かよ」
 予期もしていなかった息子の成長に、オセは逆に驚いている。
「あいつ早いな、いくつだよ…オレん時なんか……」
 思わず息子の年齢を指折り数えて、早熟な息子と自分を比べてその差に愕然とした。
「あんたの事は良いから。ほら、さっさと顔洗ってきなよ」
「お、おう…」
 女房にさらっと流されて、オセはまだ納得いかないながらも、洗面所に向かった。


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