「ええ!? おまえんとこ、かーちゃんいないのか!?」
 教室で帰る前の連絡事項を先生から伝えられた後、生徒達はめいめいにノートや鉛筆な
どの学習用具をカバンにしまうなどの帰る用意をしていた。
 そんな中、何となしに前の席の女の子に話しかけたロイは、少女の現在の家庭の事情に
思わず大きな声を出した。
「…今だけだよ。おじいちゃんの所に行ってるだけだし」
 ロイがあまりに大きな声を出すので、大人しい少女はカタチの良い眉をちょっとしかめ
て見せる。
「今だけって……メシとかどーしてんだよ?」
「ごはんはパパが作ってるよ、もちろん…」
「…あ! あ、そうか。おまえんとこのとーちゃんはチハヤおじさんか…。ウチのかーち
ゃんより料理うまかったよな……」
 ついつい自分の家庭が標準として考えてしまうので、料理は普通母親がするものだとい
う通年を持っていたロイは、彼女の父親を思い出して頭をかいた。
「で、でもよ、掃除とか洗濯とか、どーしてんだ? それもおじさんがやってんのか?」
「うん」
「げ」
 こともなげに少女が頷くので、ロイは小さくうめく。
「…ウチのとーちゃんとだいぶ違うんだなぁ、おまえんとこのとーちゃんは…」
「…別に……。どうだって良いじゃない、そんなこと…」
 ノートをカバンの中にしまい、彼女はパチンとカバンのフタの金具を閉めた。母親が現
在いない事を騒ぎ立てられたのが嫌なのか、いつもは穏やかな彼女のご機嫌はななめ気味
のようである。
「じゃあ、おじさんがおまえとリオンのメシ作ってんのか」
「…リオンはママがおじいちゃんとこに一緒に連れてったわ。本当は、パパとわたしも行
けたら行こうって最初は言ってたんだけど、動物たちを放っておけないし、パパもお仕事
があるし、わたしも学校があるし…。だから、今はパパとお留守番なのよ」
 どうやら、母親に一緒に連れて行ってもらえなかった事が彼女をご機嫌ななめにさせて
いるらしい。
「へーそうなのか? じーちゃんに頼めばなんとかしてくれるんじゃねえか? おじさん
の仕事」
 ロイの祖父は酒場を経営しており、彼女の父親は酒場に勤めている。そういう関係から
も、ロイと彼女は他の子供より馴染みは深かった。
「だから、パパのお仕事だけじゃないのよ。…そりゃ、ハーパーさんに頼めば何とかして
くれるかもしれないけど…。それにおじいちゃんの所、すごく遠いのよ。だから、パパは
たくさんお仕事休まないといけなくなって悪いって、パパも言ってたもの」
 律儀にロイの質問に答えていた少女は、これ以上この話題にしてほしくないようで、マ
フラーを巻き終わるとカバンを持って席から立ち上がる。
「アンジェちゃん。一緒にかえろ!」
 そして、ロイに背中を向けると、いつも帰り道を共にする仲の良い少女に声をかけた。
「あ、…あの、ごめんね、ライラちゃん…。きょ、今日はひいおばあちゃんの所に行って、
それからママと一緒に帰るの…ごめんね…」
 しかし、アンジェからはひどく申し訳なさそうに断られてしまった。
「ごめんね…ライラちゃん」
 別に自分が悪いわけではないだろうに、アンジェはもう一度ライラに向かって謝る。少
しビックリした顔をしていた彼女だが、ふっと肩の力を抜いた。
「ううん。別にいいよ」
 気にしないように手を振って、ライラはなんとか笑顔を見せる。
「せんせー、さよーならー!」
「うむ。気をつけて帰るんだぞ」
 いつも元気なルーシィが先生に向かってぶんぶん手を振り、学校の出入り口から飛び出
すのが見えた。それを見送って、ライラは一息つくと先生に向かってぺこりと頭を下げる。
「さようなら、先生」
「さようなら。……さっき、キミのところの母上がいないと聞いたが……」
 さっきの会話を、先生はちゃんと聞いていたらしい。どうやら心配しているらしく、そ
れを口にしてきた。しかし、それについて触れてほしくないライラは両手をばたばた振っ
て苦笑いをする。
「だ、大丈夫です、先生! あ、っと、ウチのパパ、お料理上手だし、ママがいなくても、
大丈夫なんです」
「…しかし、キミの父上は夜、働いているんだろう? その時はどうしてるんだね?」
「大丈夫ですってば! ウチにはパパより強そうなタマちゃんがいるんで、大丈夫です!」
 彼女の父親が聞いたらガックリしそうな適当な言い訳をして、ライラはそれ以上先生に
突っ込まれたくない一心でそう言った。
 ちなみに“タマちゃん”というのは、彼女の家で飼われているペットの大型犬の事であ
る。どうして大型犬に“タマ”なのかは、名付けた彼女の母親しか知らぬ事だが、まだ誰
もそのあたりを突っ込んだ事がないらしい。
「…良いのか、おまえそんな事言って」
「いいの! もう、うるさいなあ!」
 彼女の父親もよく知ってるロイが突っ込むと、ライラはとうとう怒り出してしまった。
「それじゃ、さよなら!」
 そして、とってつけたように先生に向かって一礼すると、さっきのルーシィのように学
校を飛び出してしまう。
「……どうしたんだ? アイツ?」
 何がどうしていつも大人しくてマイペースな彼女が怒ったのか理解できなくて、ロイは
彼女の背中を見送りながら目をパチクリさせた。
「…さあ…」
 ロイの隣で本をカバンにしまっていたヒースも首をかしげさせる。
「…ふむ……。ちょっとチハヤに確認してみるか…。ロイ、酒場は今日もやってるんだろ
う?」
「あ。はい。やってます。」
 少しお行儀悪くイスに座っていたロイは少し姿勢を正して先生に答えた。
「帰ろう、ロイ」
「あ、うん」
 帰り支度を整えたヒースが、座っているロイを促すと、彼も立ち上がる。
「じゃあ、せんせー、さよな……」
「あ、ちょっと待ちたまえ、キミ達」
 元気よく学校から飛び出す少年二人を先生が呼び止めたものだから、走りかけた二人の
少年は思わず顔を見合わせた。

「どう? どう? アタイのステップ!」
 真っ先に学校を飛び出したルーシィは母親がいる酒場に入り、舞台の上で授業中に考え
ついた新しいステップを披露していた。
「へぇー。なかなか良いじゃない」
「へへーん」
 ぱちぱちと母親に褒められて、彼女は満面の笑顔でブイサインを作って見せる。
「……シーラ…。酒場に子供を入れるんじゃない……」
「あら、良いじゃない。まだそんなに遅くないんだし」
 酒場の店主のハーパーが困った顔をしていると、見る人によっては怒っているように見
えたかもしれない。実際怒っちゃいないのだが、どうにもいかつい彼の容姿がそう見えさ
せているのは、彼自身がずっと気にしていた事だ。
「じーちゃん!」
「ロイ!」
 そんな時に、ロイとヒースが酒場に飛び込んできたので、ハーパーは驚いて声をあげる。
「…酒場に来ちゃいかんといつも言ってるだろう。ヒースまで連れて来て…早く帰るんだ」
「ほーら。ハーパーさんとこだって来てるんじゃないの」
 ハーパーの孫が来た事で、シーラが勝ち誇ったように言うものだから、ハーパーはさら
に困った顔で我が孫を見下ろした。この寒い中だというのに、あまり厚くないコート一枚
でも元気そうである。
「じーちゃん! 今日は先生を連れて来たんだ」
「先生? ……どうした、酒場に来るなんて随分珍しいな」
 一瞬、ロイの言っている事がわからなかったハーパーだが、ロイとヒースが指さす先に、
教師のギルが酒場に姿を表していた。下戸のギルが酒場に来るなんてまずない事なので、
ハーパーも驚きを隠せない。
「どうも有り難う。案内してもらって悪かったが、キミ達はもう帰りなさい」
「えーなんでー」
「どうしてー?」
 案内させるなりすぐに酒場から出て行かせようとするギルに、少年二人は揃って声をあ
げた。
「本来、酒場に子供は来てはいけないものだからだ。今回は案内してもらったし、そこは
礼を言うけどね。さあ、遅くならないうちに帰りなさい」
 穏やかなギルの声に、またも顔を見合わせるロイとヒースだが、先生の言う事に反する
つもりはないらしい。
「…んー…、ま、いいか。じゃ、オレ帰るね。先生、じーちゃん、それにシーラさんと、
チハヤおじさんも、さよならー」
「…ばいばーい」
 ロイは素直にギルの言う事に従い、ヒースはあまり納得していなさそうだったが、ここ
に一人残るつもりもないようで、ロイに続いて酒場を後にした。
「それからルーシィ。キミは速やかに帰りたまえ。学校から真っ直ぐに酒場に来るとは何
事だ!」
「えーっ!」
 そして、ギルはさっきとはまた違った厳しい口調で、舞台の上のルーシィをビシッと指
さす。
「だってアタイかーちゃんと一緒だもん! かーちゃんと一緒ならいいじゃーん!」
 ルーシィは慌ててそばにいるシーラの腰に抱きついた。
「母親と一緒だから良いというより、学校が終わって家にも帰らずにしかも酒場に真っ直
ぐ来るというのがダメなのだ。また宿題を忘れましたで済ませるつもりか?」
「ぐっ!」
 運動神経は良いが勉強はすこぶる苦手というルーシィ。それは個性だからギルもそこを
どうこう言うつもりはないが、宿題をやってこなかったり忘れ物が多かったり、そこのと
ころは教育者として見逃す事はできないのである。
「かーちゃーん!」
 母親に助け船を出してもらおうと、ルーシィはシーラの腰に抱きついた。
「いいじゃない。それくらい」
「良くないだろ! 酒場だぞ!」
「シーラ。ギルの言うとおりだ。ルーシィを家に帰らせろ」
 シーラがあまりに軽い調子で言うものだから、ギルがいきりたつとハーパーも後押しし
てくれた。さすがに、ギルとハーパーにまでも言われて、シーラは肩をすくめる。
「……まあ、確かにあんたに酒はまだ早いからね。踊りだけなら、私もどうこう言うつも
りもないんだけどね」
「かーちゃーん……」
 母親が味方になってくれず、ルーシィは情けない声をあげるが、やがてあきらめたらし
い。大げさなため息をついて、カウンターの裏に放りっぱなしだったカバンをかついで、
口をとがらせながら彼女も酒場の扉を開けた。
「寄り道しないで帰るんだぞ」
「はぁーい!」
 ルーシィの背中にかけられる声にやけくそ気味に返事して、彼女も酒場を出て行く。そ
んな彼女を見送って、ギルは思わずため息を漏らす。悪い子ではないし、本人に悪気がな
いのはわかっているのだが、いかんせん問題行動を起こす事が多いのが、彼の悩みのタネ
だ。
「……で、何しに来たんだ? まさか酒を飲みに来たんじゃないだろう?」
 同じくルーシィの背中を見送っていたハーパーだが、下戸のギルが酒を飲みに来たとは
思えなくて、早速疑問を口にする。
「あ! ああ。そうだった。実は今日はチハヤに話があって来たんだ」
「え? 僕?」
 さっきまでまるっきり他人事で料理の仕込みをしていたチハヤは、まさかこっちに話が
来るとは思えなくて、驚いて顔を上げる。
「ライラについてなのだが…」
「え? ライラが学校で何か?」
 愛娘がまさか学校で問題を起こしたとは思えず、さらにチハヤの声は大きくなる。
「いや、そういうわけじゃない。そうじゃなくて、ヒカリとリオンがいないとライラが今
日話していたので、気になったんだ」
 ライラは少し大人しい所もあるが、子供にしてはしっかりしているし、模範的な良い子
である。
「あ、ああ…その事か…」
 ギルの話で、チハヤは彼の来訪に合点がいったようで、ほっと胸をなで下ろす。
「キミも夜遅いだろう。大丈夫なのかと思って」
 どうやら娘の事を心配して来てくれたらしいとわかり、チハヤはなんとも言えず苦笑し
た。
「僕も心配なんだけどね。一応、ウチの奥さん達が帰ってくるまで、いつもより早引けさ
せてもらう事にしてるんだけど。それでもどうしても帰れない時はキャシーに見てもらう
よう、頼んではいるんだ」
「…そうか…。…大変なようなら、僕もあの子の様子を見ようか?」
「ありがとう。…でも、キミが来たら、多分、ライラは緊張しちゃうし、キミだって仕事
あるだろ? 気持ちだけ受け取っておくよ」
 苦笑いしながらも、チハヤはギルの申し出を断る。気持ちは嬉しいのだが、そこまでし
てもらうと気がひける。
「…緊張って……。まだ僕はライラを叱った事はないんだがな……。あの子は良い子だか
ら、叱られる事なんてしないんだが…」
「いやいや。そうじゃなくって。ライラにとってキミは先生だろ? キミが来ると家庭訪
問と受け取るだろうし…。それじゃくつろげないし」
 それだけ、ライラがギルに対してある種の畏怖の念を持っているのだ。いつだったか、
娘が先生は几帳面だから緊張するとこぼしていたのを、チハヤは覚えている。
「…大丈夫だって。そう遅くならないようにさせてもらってるし、いざとなったらキャシ
ーに頼むから」
「短期間だからな。まあ、夜遅くに料理を頼む者も少ないし、簡単なつまみ程度ならオレ
だって作れる。ヒカリの実家は遠いらしくて大変なようだからな。チハヤの所にはウチの
ロイも、世話になる事もあるし、まあ、困った時はお互い様だ」
 チハヤの言葉を後押しするように、ハーパーが重ねて言ったので、ギルも不安げな表情
を少しやわらげた。
「……そうか…。…そうだな…。一人で留守番させるのも良い経験になるかもしれないも
のな。…失礼した」
「いや、有り難う。心配してくれて」
 そう言って引き下がるギルに、チハヤは相変わらずの苦笑を浮かべながらも、礼を言う。
彼が他人の言動をヒネて受け取る事もなく、こうも素直に礼を言えるようになったのは結
婚したあたりからだ。結婚して、子供ができてから、彼も随分変わった。


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