「ああ…やっぱり遅くなっちゃったか…」
 チハヤはホールの壁にかけられている時計を見上げ、小さくため息をつく。漁協の連中
が宴会で盛り上がり、料理のみの担当だったチハヤだが追加注文が結構来てしまい、予想
はしていたが、予定の時間はだいぶ過ぎてしまっていた。
「すまないな。もっと早く終わるかと思ったんだが」
 今日の売り上げを計上しているハーパーが、帰り支度をしているチハヤに低い声で話し
かける。
「いえ、きっとこういう事になるだろうなと予想はしてたんで」
 まあ、仕方がない。妻にも予定の時間よりきっと遅くなるだろうというのは伝えてある。
「ごめんね。それからお疲れ様」
 掃除道具を片付けながら、キャシーが声をかけてきた。チハヤは軽く手を振ってそれに
答えて薄手の上着を羽織る。そろそろ夏も近いのでこの上着も着なくなるだろう。
 そんな事をぼんやり考えながら、簡単に挨拶をしてチハヤは酒場を出た。
 外に出ると外気が少し寒く、空を見上げれば、雲に半分ほど隠れた半月が浮いていた。
「だいぶ遅くなっちゃったなー。ヒカリは夕飯食べちゃったかな…?」
 今日、仕事に出る時に彼女にきっと遅くなるだろうから、夕飯は先に食べてしまって良
いと言ったのだが、彼女はにこにこして首を振った。
「だってパパさん、いつも仕事終わってから食べるじゃない。昨日も待っててくれたし、
私だけそんな事できないって。大丈夫よ、私だってちゃんと料理作れるんだから」
 実際、彼女の料理の腕もかなりものなのは知っている。ただ、チハヤの方が料理を作る
事が好きだし彼女も忙しいので、チハヤが作る事の方が多いというだけで。
「うう…けど、おなか減ったなぁ」
 鳴りそうなお腹をさすり、チハヤは歩きながら苦笑する。酒場で料理をしている時は料
理に集中しているし、試食もしたりするので仕事中は我慢できるのだが、仕事が終わった
途端に覚える空腹感はかなりものだ。
 独身の時はさすがのチハヤも遅い仕事の後は簡単なもので済ましていたが、結婚してか
らはちゃんと妻が作ってくれていて、そういう所は素直に有り難い。
 チハヤの帰りが遅く、明日の朝が早い時などは彼女も先に夕飯を食べてしまうが、それ
でもちゃんとチハヤの分が食卓に乗っているのは助かる。
 石畳で舗装されている道は街の中だけで、そこから出ると舗装されていない道となる。
昨日の雨のせいでいつもは固い土の道もゆるくなり、所によってはぬかるんですべりやす
い。そんな道を、懐中電灯を手にチハヤは家路を急ぐ。
 とにもかくにも、おなかがすいた。基本的に早寝早起きなヒカリはもう寝てしまっただ
ろうか。
 そんな事を考えながら歩いていると、ようやっと自宅が見えてきた。窓にも明かりが灯
っているから、妻はまだ寝てはいないらしい。
 酒場を出た時間を考えると、だいぶ遅くなってしまったはずだが、起きてくれているら
しい。チハヤは知らず早足になって歩き出す。
 玄関でサンダルの裏についた泥をはらい、玄関を開けると傘立てに傘を突っ込んだ。
「ただいまー」
 中にいるであろう妻に声をかけるが、何故か返事がない。起きているなら、彼の大好き
なあの笑顔で出迎えてくれるはずなのに。
「…え?」
 口の中で小さくつぶやいて、チハヤは顔をしかめる。自分が玄関についた直前に寝てし
まったというのだろうか。
「ヒカリ?」
 妻の名前を呼んで、チハヤは廊下を突き進む。居間にもいないのだろうかと、訝しみな
がら居間の扉を開けると、そこが真っ暗なので驚いた。
「え?」
 さっきまで明かりがついていたのではなかったのか。我が目を疑いながら、扉の近くに
あるはずの居間の明かりのスイッチを手探りで探し当てて、スイッチをつけた瞬間。
 パーン!
「ふえっ!?」
 突然鳴り響いた破裂音にすくみ上がる程に驚き、一瞬、何が起こったのかワケがわから
なかった。
「パパさーん、お誕生日おめでと〜う!」
 振り向けば、チハヤの大好きなあの笑顔を浮かべた妻が、幼い赤ん坊を抱きながら、ク
ラッカーを手に立っているではないか。
「ヒ、ヒカリ…?」
 まず驚いたのが先に来て、彼女が言っている事に気がつくまで何拍かを必要としてしま
った。
「……あ……、そ、そうか……。今日は僕の誕生日だったか……」
 その事を忘却していたわけではなかったが、誕生日などで騒ぐ年齢でもなかったし、今
日の仕事は遅くなりそうだったので口にしはしなかったが、まさかこんな演出をされると
は思ってもみなかった。
「うん! ホラ、ライラちゃん、パパさんにおめでとうのちゅーね」
 言って、ヒカリは抱いていた娘の口をチハヤの頬に押しつけてくる。ミルクくさい娘の
匂いが彼の鼻腔をくすぐった。
「あ、ありがとう……」
「ふふふ。おかりなさい!」
「あ、うん…、ただいま……。ありがと……」
「ね、ね、おなかすいてるんでしょ? ご馳走つくったんだよ!」
「う、うん」
 はしゃいだ様子のヒカリにやや圧倒されて、チハヤはたじろぎながらも頷く。
「さすがにライラちゃんのごはんは済ましちゃったけど、ご馳走は主役がこないと始まら
ないからね。コート脱いできて。用意するから!」
「う、うん…」
 まだ展開についていけず、チハヤはとりあえず頷いて、それからヒカリに軽く背中を押
されるままに、居間を出た。
 パタン。
 扉が閉じられてから、数拍。それから、やっと事態が飲み込めてくる。
「そ、……そっか……」
 居間の明かりは単に自分を驚かすためだけの演出で、別にヒカリが先に寝たわけでもな
かったし、それはつまり、今日が自分の誕生日だったからなわけで。
「そっか……」
 もう一度そう言って、チハヤはやっと喜びの感情がわいてきた。急に気持ちが軽くなっ
て、足取りも軽くなって、コートを脱ぐために自室へと向かう。
 再びチハヤが居間に戻ってくると、さすがに真っ暗だった演出はなく、代わりに美味し
そうな匂いと、やわらかい熱気に包まれていた。
 料理をするチハヤにはすぐにはわかったが、キッチンで火を使ったために充満する熱気
である。どうやら、ヒカリが料理を温めなおしたためにキッチンで火を使っているらしい。
「もしかして、ヒカリもごはん食べてないの?」
 居間とダイニングは一間で続いており、ダイニングの向こうのキッチンにいるヒカリに
声をかけた。
「当たり前じゃない。こういうのは一緒に食べないと!」
 彼女は可愛らしいエプロンをつけて、やや慌ただしげに立ち回っている。
 娘は幼児用の椅子に座らせられ、なにやら手を伸ばして振り回していた。虫でも追い回
しているかのような手つきだが、チハヤがいくら目をこらしてもそれらしい羽虫は見つか
らない。チハヤがいぶかしがる目つきをする前に、ヒカリの声が飛んでくる。
「座って待ってて。準備するから」
 冷めても大丈夫なものはそのまま食卓の上に乗っており、皿もグラスもすでに準備して
いたようだ。食卓の上の花も、チハヤの好きなピンクキャット草に変えられており、思わ
ず顔をほころばせる。
「まずは、ハイ! じゃーん!」
 自分で効果音をつけながら、ヒカリは冷蔵庫からオレンジの匂いただようケーキを取り
だして見せた。
「オレンジケーキ焼いたんだ」
「うん。悪いけど、パパさんの年齢分のロウソクは勘弁してね」
 云って、ホールのケーキをチハヤの目の前に持っていき、ロウソクを五本、ケーキの丸
い縁にそって置いていく。
「いいよ。そういうトシでもないし…」
 自分が今日、なってしまった年齢を考えながら、さすがに彼も苦笑した。
「はいはいっと…」
 マッチを擦って、手早く彼女はロウソクに火をつけていく。キッチンでは何かを暖めな
おしているようで、ぐつぐつと似ている音がダイニングにも響いていた。
 火を点け終わると、ヒカリはチハヤの隣に腰掛け、すぐそばの幼児椅子に座らせていた
娘を膝の上に置く。それから、リモコンでダイニングとリビングの明かりを消すと、ロウ
ソクの灯火だけが橙色に浮かび上がった。
「じゃ、パパさん。お願いしまーす」
「は、はは……」
 去年はヒカリの妊娠時の悪阻がひどい時期で、こんな事をできる余裕なんかなかったけ
れど。しかし、このトシになると、火を一気に吹き消すという行為がなんだか気恥ずかし
いという事に気づいてしまった。
 横目で隣にいる妻子を見ると、妻はにこにことこっちを見てるし、娘は眠そうな顔で大
人しく母親に抱かれている。
 逡巡したのもつかの間、チハヤは意を決してロウソクの火を吹き消した。
「わー。おめでとー」
 パチパチと小さな拍手が響いて、ヒカリの声が聞こえる。やがて、パッと明かりがつい
て、再び横を見ると、ヒカリがリモコンを机の上に置いた所だった。
「誕生日おめでとう、チハヤ。生まれてくれて有り難う」
 不意に、そんな言葉と共に頬に柔らかい感触。ヒカリがチハヤの頬にそっと口づけした
のである。
「っ……!」
 まさかそんな事を言われるとは思っていなくて、チハヤ思わずまともに顔を赤らめてし
まった。
「はい、ライラちゃんも」
 そんな彼に構わず、ヒカリは眠そうだった娘の唇を再びチハヤの頬に軽く押しつける。
「う、うん……。あ、ありがと……」
 ほっぺにキスくらい、なんて事はないはずなのに、心臓のドキドキがおさまらない。
「ライラちゃん、おねむの所ごめんね」
 ドギマギしているチハヤをよそに、ヒカリは娘を抱き上げて、席を立つ。娘をベビーベ
ットに寝かしつけに行ったらしい。
 少し落ち着いてきたチハヤは、ヒカリの背中を横目で見送って、それから目前の料理を
改めて見やる。
 チハヤの好きなオレンジケーキが目前にどんと居座り、豆腐サラダと、ジャガイモの冷
製スープ、カキのバター炒めに青野菜が添えられたもの、それからパンがいくつかバスケ
ットに重ねられていた。バターやジャムもちゃんと並んでいる。食材はウチの畑や、海や
森の恵みのもので、そのどれもがこの街でとれるものばかりだ。
 こんなに美味しい食材に恵まれ、抜群の腕の料理人がいるこの街へ来たのは、もう何年
前になるだろうか。ここに永住するとか、そういう事は特にその時は考えなかった。まさ
か結婚までして、家庭を築く事になるなんて、思いもしなかったのに。
 まあ、一時期は気候が安定せず、急激に土地がやせた事もあったけど。
「もー、ヒカリってば、突然明かりを消すんだもん。ビックリしたの〜」
 不意に、可愛らしい子供の声がどこからか聞こえて、チハヤは驚いて周囲を見回した。
 ……いない。
 最近、不意に聞こえてくる謎の子供の声。結婚した当初は聞こえなかったのに、娘が生
まれた頃から、聞こえるようになった。
 最初は自分が疲れているだけだと思ったのに。幻聴と思うには、同じ声で、その時の状
況に合った内容のものが聞けるのである。
 まさか……。
 いやいや、そんなもの、いるわけがない。
 チハヤはぶるっと首を振って、幽霊の存在を打ち消した。その時、なんだかオレンジ色
の帽子と衣服を着た、羽根の生えた謎の物体が視界の端っこに映る。
「っ!?」
 思わず席を立ち上がり、慌てて見過ごしたその場所を凝視した。しかし、何度目をこす
っても、さっきの羽の生えた小人は見る事はなかった。
 幻聴の上に幻視まで……。
 疲れているのかと、チハヤはもう一度目をこする。
「ごめんごめん。すぐに用意するからねー」
 目をこすっていると、ヒカリがパタパタと足音をさせて食卓にやって来た。
「もう、良い感じに熱くなってるね」
 ヒカリは真っ直ぐキッチンに直行し、ぐつぐついっている鍋をのぞき込む。火をとめて、
蓋をあけると、トマトの匂いが強く漂った。
「……ブイヤベース?」
「そう! 昨日のアロワナが入ってまーす」
「!」
 じゃあ、昨日の釣りは、もしかしなくても、このために…。
「アロワナの身は淡泊で美味しいって本当なんだね。味見して、やっぱり魚についてはタ
オさん達ってすごいなあって思っちゃった」
 言いながら、ヒカリは深皿に鍋の中身を注いでいる。
「…じゃあ、昨日の釣りは?」
「うん! 本当はカレイかタラにしようと思ってたんだけどね。ちょうどあの天気だった
でしょう? せっかくだからトライしてみようと思って! あなたには心配かけちゃった
みたいで、悪いなって思ったんだけど」
 深皿に盛られたブイヤベースは、色んな具材の入ったトマトスープに、白身の魚の切り
身が中心に置かれていた。
「あのアロワナ大きかったから、みんなにいっぱい配ったんだけど、それでもまだ残って
るの。白身魚のレパートリー、パパさんも一緒に考えてね」
 自分の分を盛って食卓の上に置くと、ヒカリは今度は床に置いてあったらしい瓶を取り
出す。おそらくそれは、一昨年あたりに彼女がつくったという葡萄酒ではないだろうか。
チハヤも前に飲ませてもらった事があるが、ジュースとも酒ともつかぬほどに、フルーテ
ィーな味だったのを思い出す。
 その紅い液体がチハヤの前に置かれたワイングラスに注がれていく。
 これだけの準備を、彼女はしてくれたのだ。
 客観的にみても、チハヤは家庭環境的に恵まれた育ちではなかった。グレたりこそしな
かったものの、自分自身真っ直ぐ育ったなどという自覚はない。
 そんな自分でも、家庭を持ってこんなふうに祝ってもらえる日が来るなどと思ってもみ
なかったのに。
 なんだか胸がいっぱいになってきて、熱くなってきたけれど、それを彼は懸命に堪えた。
「はい、おまちどおさま! 食べよう!」
 瓶の蓋を閉め、再びすみの床に置くと、ヒカリはチハヤの前の席に腰掛ける。
「…じゃ、じゃあ、いただこうか」
「うん!」
 潤んだ瞳を悟られないように無理に笑顔を作って、チハヤはワイングラスを手に取った。
「おめでとう、チハヤ」
「おめでとうなのー!」
 ありがとうと言う前に、さっきの怪しい子供の声に、チハヤは思わず声を詰まらせる。
「…………どうしたの?」
 何も答えず、声の聞こえた方に思わず目をやるチハヤに、ヒカリが不思議そうな顔をし
た。彼女はあの声が聞こえなかったらしい。
「い、いや、な、なんでも、ない。なんでもないんだ! そ、その、ありがとう! 乾杯!」
「うん! 乾杯!」
 二人は持ち上げたグラスを軽く打ち付け合った。


                                                                 NEXT>>