「遅い……」
 チハヤは不機嫌そうに暗い窓の向こうを見やってつぶやく。窓ガラスには雨粒が叩きつ
けられ、それだけでも外の天気の悪さが伺えた。
 彼の妻がこんな天気だというのに「ちょっと釣りに行ってくるね」などと、笑顔で宣い
赤ん坊を抱いてびっくりするチハヤをそのままに、あっという間に外に飛び出してしまっ
たのである。
 雨は今日一日中降っているが、夕方頃から雷も鳴り出して、どう考えても「ちょっと」「釣
りに」行くような天気ではない。確かに、彼女は晴れの日も雨の日も、台風の日も大雪の
日も外を出歩き、結婚した当初は驚愕させられた。
 まだ赤ん坊が生まれる前は、心配したチハヤが彼女を捜して外に出て、結果チハヤは風
邪をこじらせ、当の彼女はまったく元気というなんとも苦い経験もしている。
 そんな過去があっても、チハヤは赤ん坊がいなかったらもう彼女を捜して外に出ている
事だろう。小さな小さな娘は二人の初めての子供で、目に入れても痛くない程で、さすが
のチハヤも、この小さな娘を置いてけぼりにするわけにはいかなかった。
「ったくもう……。何やってんだろ……」
 苛立ちを押さえきれずに、チハヤは口の中でつぶやき、眉間のしわを深くさせる。部屋
のすみっこでは、ペットのボーダーコリーがイライラしているチハヤを尻目に、丸まって
眠っている。動物好きの妻が以前から飼っている犬で、妻ほど動物が好きでもないチハヤ
だが、機転が利いてなかなか賢い犬なので、彼も憎からず思っている。
「ふぎゃっ、ふぎゃっ、ひぎゃあっ!」
「あ…!」
 突然、ベビーベッドで大人しく寝ているはずの娘が泣き出して、チハヤは慌てて窓から
離れた。
「そっか。そろそろミルクの時間だ……」
 時計に目をやり、彼は慌てた様子でキッチンに立ってやかんに火をかける。妻がいるな
ら授乳させるところだろうが、いなければ市販のミルクを飲ませるしかない。
 チハヤは慣れた手つきで粉ミルクをほ乳瓶に入れ、それからちょっと背伸びして、ベビ
ーベッドの方に目をやる。
 娘は手足をばたばたさせて泣き続けているようだ。側によって抱き上げてあやしてやり
たいところだが、ミルクを作るにはお湯を一度沸騰させてから冷まさなければならない。
早く沸いてほしいお湯はなかなか沸いてくれない。
 やっとちょうど良い温度のお湯ができると、少し慌て気味にやかんのぬるま湯をほ乳瓶
に注ぐ。
「はいはーい、ライラちゃんごはんだよー」
 チハヤはほ乳瓶の蓋をしめて中身をしゃかしゃかと振りながら、ベビーベッドへと赴い
た。
「よしよし…。おなかぺこぺこかい?」
 泣き続ける娘を抱き上げて、軽くあやしながら手にしたほ乳瓶の乳首を小さな口元に持
っていく。
「ふぎゃあ、ふんぎゃっ、んぎゃっ……、……………」
 やはりお腹が空いていたらしい。乳首を唇に当てただけでそれに吸い付き、あっという
間に大人しくなってミルクを飲み始めた。
 初めての子供だけあって、チハヤも彼の妻も試行錯誤というか悪戦苦闘の毎日だが、そ
れでも小さくて愛らしいこの存在に、気がつけば癒されている。
 さっきまであんなにイライラしていたというのに、ミルクを飲み続ける娘を見て、チハ
ヤの顔はいつの間にかほころんでいた。
「ん? もうおなかいっぱいかい?」
 どうやら飲むのを止めたらしい娘に気づいて、ほ乳瓶を離す。
「はいはい、げっぷげっぷと……」
 とりあえずほ乳瓶をベビーベッドの端っこに置いて、赤ん坊を縦に抱っこにして背中を
軽く叩いてやる。そして彼女がミルクを飲み込んだのを確認すると、チハヤはそのまま娘
を抱いて窓の方へ歩いて行った。
「……っとにもうー…。困ったママさんだよねー」
 お腹いっぱいになってまどろみ気味の娘に話しかけて、真っ暗な窓の外をうかがう。あ
まりにも暗すぎるため、のぞき込んでも景色もよく見えない。いつもはこの窓からよく見
えるはずのウチの畑だってまったくよくわからない。
 夕飯はとっくに支度してあって、熱々だったシチューはもう冷めてしまっているだろう。
いつもの夕飯の時間も過ぎて、空腹であるのもそうだが、こんな天気の中飛び出したまま
帰ってこない妻が心配で心配で仕方がない。
 確かに、彼女はどこか不思議な所があって、あの小さな身体のどこにそんな力があるの
かというほどに体力があって頑健だ。農作業で鍛えているというのもあるかもしれないが、
それにしたって何か不思議なものでも食べたのではないかという程にタフである。
 これくらいの雷雨など、彼女にとっては平気なのかもしれないが、平気じゃないのは心
配して待っているチハヤの精神の方だ。
 娘を抱いたまま、窓の外を睨み付けていたチハヤだが、娘がいつの間にか眠ってしまっ
たのに気づいて、ベビーベッドへと運んでやる。
 ほ乳瓶を片付けながら、時計に目をやると思ったより時間は進んでいない。
 ため息をついて、チハヤはほ乳瓶を消毒するための湯をわかす。
 まだシチューは温め直さない方が良いのだろうか。

 チハヤがソファに座ったり立ったり、行ったり来たりを繰り返している頃。玄関の方で
扉が開く音がした。
「!」
 ちょうどソファに座ったチハヤはすぐさま立ち上がり、スリッパをぱたぱたさせて玄関
の方へと小走りする。部屋の隅っこで眠っていたはずの犬も起き上がり尻尾を振りながら
チハヤを追い越して玄関に向かった。
「どこへ行ってたの!」
「あー、ごめーん。もうちょっとってねばってたら遅くなっちゃったー」
 チハヤの第一声に妻は、びしょ濡れの雨合羽の水を払いながら、すまなさそうな笑顔で
謝る。
「もー、びしょ濡れじゃないか。早く熱いシャワー浴びて、あったまってきなよ」
「うん。有り難う。ほら見て! ねばったかいがあって、大きなアロワナが連れたんだよ」
 雨合羽を着たまま、彼女は足もとに置いてある巨大なアロワナを持ち上げて見せた。
「!」
 軽く彼女と同じ身長か、それ以上はありそうなアロワナを持ち上げて見せられて、チハ
ヤは目を見開く。犬も巨大なアロワナに驚いて思わずワンワンと吠えだした。
「なっ…なに、これ……」
 アロワナが大きい事もそうだが、これを彼女が釣ったという事と、この雨の中持って帰
って来たという事実に、言葉を失う。
「タオさんからね、アロワナは身が淡泊で美味しいって聞いてね。女神様の樹のあたりの
泉で頑張って釣って来たんだよ」
 目も口も大きくさせて呆然とアロワナを眺めていたチハヤだが、不意に我に返る。
「…と、ともかく、身体を冷やさないように。熱いシャワー!」
「あ、はーい」
 彼女の方も我に返り、急いで雨合羽を脱ぎにかかる。濡れた雨合羽をそこにあるポール
に引っかけると犬に追いかけられながら彼女は浴室へと向かった。
 一人、玄関に残されたチハヤは巨大アロワナを前にして、一瞬途方にくれるようにため
息をつく。しかし、やがて部屋の奥に引っ込んで大きなビニールシートを持って来ると、
とりあえずアロワナを包んだ。
「…けど…、これを釣って持って帰ってくるって……」
 そんな女がそうそういてたまらないのだが、実際にいて自分の妻となっているという現
実。しかも天気は雷雨。
 深く考えるのはやめて、チハヤはため息をつきながら台所の方へ向かった。

「ただいまー、ライラちゃん。おねむでちゅかー?」
 タオルを首にかけたまま、彼女は大人しく眠っている娘をのぞき込んでいる。熱いシャ
ワーを浴びたのだろうけど、濡れた髪の毛がチハヤは気にかかっていた。
「ちゃんと髪の毛も乾かすんだよ?」
「はいはい。わかってますって」
 シチューを暖めなおし、夕飯の支度をしているチハヤに声をかけられて、彼女は苦笑し
ながらタオルを頭にかぶる。
「でも、ごめんね。ずっと待ってたんだね」
「当然でしょ。先に食べるわけにはいかないじゃないか」
 なにより、彼は美味しそうに自分が作ったごはんを食べる彼女が見たいのだ。
「ほらほら、ちゃんと乾かしてよね。シチューは熱くしとくから」
「有り難う」
 ドライヤーをかけてもまだ多少半乾きな気がする彼女の髪の毛だが、服も着替えたしも
うそこまで心配しなくても良いだろう。
「あー、おなかぺこぺこ。美味しそう〜」
 本当に嬉しそうな顔をして、彼女はチハヤが用意した食卓の上の夕飯の数々を見た。
「僕もおなかすきすぎてるよ。食べよう」
「うん。いただきます」
 そして、彼女はとても美味しそうにチハヤの料理を食べ始める。空腹というのもあって
か、今日の料理は自分でも美味しくできたと思った。
 やっぱり料理は美味しく食べてもらってこそだと心底思う。
 さっきまであんなに不機嫌そうだったのに、今のチハヤは笑顔で妻と歓談していたし、
食もよく進んだ。
「あのさ、ヒカリ」
「ん?」
 シチューのスプーンを口に入れたところで、呼びかけられそのポーズのまま目だけでチ
ハヤを見る。
「明日の仕事は遅くなりそうなんだ。宴会の予約が入ってさ。料理もそれに合わせて作ら
ないといけなくてさ」
 そう言われて、彼女の表情にほんの少しかげりが見えたような気がした。
「…そう。じゃあ、何時頃に戻れそう?」
「うーん…。そんなに遅くならないようにはしたいんだけどね。料理はともかく後片付け
が大変そうでね」
「そっか…。それじゃ、明日は私が夕飯作って待ってるね」
「悪いね」
「ううん。私だって今日はチハヤに随分心配かけたみたいだし」
「…けどさ、何だっていきなりアロワナを釣ろうだなんて思い立ったわけ?」
「オズさんとタオさんから、巨大アロワナは天気の悪い日にしか釣れないって聞いてね。
今日みたいな天気なら! って思って」
 釣り好きを通り越して釣り馬鹿な一族からの情報を元に、どうにも衝動的に飛び出した
感が伺えて、チハヤはため息をつく。こういう人だとわかっていたけれど、こういう女に
惚れているのは誰あろう、チハヤの方だ。
「でもね。女神様の泉のところは天気の影響を受けないんだよ。あそこを出た途端、雨が
もっとひどくなっているから驚いちゃった」
「…そういや、あそこは不思議な場所だって聞くけど」
 チハヤはまだその女神の樹がある場所へ行った事がない。興味がないのもそうだし、別
に行く理由がないからだ。とはいえ、妻がずっと雨に当たりっぱなしだったわけではない
と知って、ほっと息をつく。
 それから、チハヤはふっと窓の方に目をやる。もうカーテンを閉めてしまったし、カー
テンを開けたところで真っ暗なので外の様子がわかりようもないのだが、雨は変わらず降
り続いているようだった。
 しかし、ウチの犬は何を一匹で遊んでいるのだろうか。尻尾を振って、虫とでも遊んで
いるかのような仕草だ。
「ん?」
 一瞬、犬の視線の先にキラリと飛ぶ何かが見えたような気がして、思わずそこを凝視す
る。
 けれど、やはり目の錯覚だったらしい。そこには犬が一匹で空飛ぶ虫か何かを追いかけ
ているように、はしゃいでいるのが目に映るだけだ。
 精神的に疲れたのかなと思って、チハヤはふっとため息を吐き出した。


「や、悪いね、チハヤ。昼間から頼んじゃってさ」
「別にいいよ。予約が入ってるなら仕方ないだろ?」
 妻子に対してとはうってかわってそっけなさすぎる口調だが、そんな彼に慣れきってい
るキャシーは特に気にしていないらしい。
「今日は漁協の人ばかりだからさ、魚料理を中心に頼むよ」
「うん。さっき漁協をのぞいたらイキの良いのがいくつか入ってたね。今夜の宴会用にっ
てちょっとおまけしてもらったから、全部使うよ」
「お願いするね」
 キャシーは掃除をしながら、下ごしらえを始めようとするチハヤにそう言った。
「ところで、ここのお酒、置きっぱなしだけど、どっか移動させるの?」
 チハヤは厨房の足もとにとりあえず置いておいた感が漂う、積み重ねられた酒のケース
を見やる。
「あ、それね。父さんがとりあえずそこに置いといたんだ。倉庫の方に運ばないといけな
いんだけど、それかなり重いから……」
 モップをかける手を止め、キャシーが言いかけるとチハヤはその重そうな酒のケースを
持って倉庫へ向かっている所だった。
「……え?」
 かなり重たそうだったので、父親のハーパーとチハヤで手分けして運んでもらおうと思
っていたシロモノだが、彼がひょいと持って運んでしまった。
 程なくして戻ってきたチハヤを思わずまじまじと見つめていると、その視線に気づいた
彼が小さく眉をしかめる。
「…なに?」
「……いや、さっきのケース…。かなり重いだろうから、後で父さんとチハヤで手分けし
て運んでもらおうと思ってたんだけど…」
 キャシーが知っているチハヤは、決して力自慢の男ではなかったはずなのだが。
「ん? んん…。ああ、まあ、僕もなんか前よりだいぶ力ついたみたいだから?」
 自分のことなのに、どこか投げやりにそう言ってチハヤは厨房で手を洗う。
「ちょっとちょっと、チハヤ。力こぶつくってみてよ、力こぶ」
「何でそんな事しなくちゃいけないのさ」
 モップを持ったまま、キャシーが厨房に寄って来るが、チハヤは露骨に顔をしかめさせ
た。
「いいからいいから、ほら!」
 とはいえ、別にキャシーの言う事に反抗するつもりもないらしく、チハヤはちょっと嫌
そうな顔しながら袖をまくって力をこめてまげてみた。
「うわ!」
「うっわ!」
 思っていたよりも大きく力こぶが盛り上がったものだから、キャシーが驚くよりも前に
チハヤ自身が驚いて声をあげる。
「ちょ、どうしたのチハヤ。ひ弱とはいかなくても、とてもガテン系には見えなかったア
ンタが!」
 キャシーもなかなかひどい事を言っているような気がしたが、それよりも自分の筋肉に
改めて驚いてそれに構ってられなかった。
「ど、どうしたんだろ……?」
 腕を何度か曲げてみせて、そう言えば以前よりも引き締まった自身の腕を見る。
「……うーん…。やっぱアンタ、ヒカリと結婚したのが大きいんじゃない? それからア
ンタ随分変わったしさあ」
「そうかな……。……そうかも……」
 言われて最初は懐疑的だったが、色々と思い起こしていくにつれ心当たりがありすぎる
事に気づいた。
「…一体どういう生活の変化があったわけ?」
「どういうって……。…まあ、彼女の仕事を手伝うんだけどさ。彼女、いきなり「ちょっ
と採掘に行ってきて」って、重そうなハンマー渡すんだよ。いきなり」
「わー。さすがヒカリだー」
 思い出すだけでもゲンナリするのか、チハヤはその表情でその時の事を語り、キャシー
は感情のこもらない声を出す。
「採掘ってさ、あの重たいハンマー持って暗い鉱山の中入って、日長鉱石やら宝石やらを
探すために、ハンマー振ってんだよ? 初めての日は筋肉痛が酷かったよ」
 そう言えば、新婚当時、やたらげっそりした顔のチハヤを見た事があるが、もしかしな
くてもその時だったかもしれない。
「他にも一緒に散歩に行こうって、誘われるんだけどさ。ウチ、犬飼ってるじゃん。ボー
ダーコリーの。そいつと一緒に夢中になって全力で走り出すんだよ? 犬とスピードで張
り合うなっての、って思ったよ」
「そしてあんたは置いて行かれたと」
「サンダル履いてたし」
 キャシーの的確すぎるツッコミに、チハヤは反論するようにつぶやいた。
「…もういい加減慣れたけどね。確かに今なら最初の時ほど採掘も辛くないしね。散歩も
まあ、ついていけない事もなくなったし」
「あんたもハードな生活してんのねえ…。そりゃ、そんな力こぶもつくわ」
「しかも彼女妊娠中も採掘行こうとするんだもの。僕が行くしかないじゃん」
「ヒカリも相変わらず無茶な生活してんのねえ…」
 チハヤの妻とも親交が深いキャシーだが、彼女もヒカリの突拍子もない行動には驚かさ
れている。
「昨日だって、「ちょっと釣りに行ってくる」って言ってさ、自分の身長ほどのアロワナ釣
ってくるんだよ。ビックリしたよ」
「…ちょ、昨日って、雷雨だったじゃない」
「そうなんだよ」
「…………はー……」
 彼女をよく知っているキャシーでさえも、呆れ驚いて、口をぽかんとあける。
「あの天気の中、「ちょっと」「釣りに」だよ。なにがどう、どこが「ちょっと」なのか全
然わかんないよ」
 ふーっと長い長いため息をついて、チハヤは小さく口をとがらせた。
「ううーん。だいぶ慣れてきたアタシもあの子にはビックリさせられるけど。結婚したア
ンタはもっとビックリさせられてるわけだ」
「そういうこと。………ま、良いんだけどね」
 そう言って、チハヤは軽く肩をすくめて見せる。
「……良いんだ」
「ま、ね」
「……アンタさ、ほんっっっっっとに…、変わったよねー」
 言葉に力と時間をこめて、キャシーがそう言うと、チハヤは少し嫌そうな顔をした。
「うるさいな…」
「まあ…、アンタがそれで良いっていうなら、良いんだろうけどね。そんな事言っときな
がら、幸せそうだし」
「な、なんだよっ…」
 肩の力を抜いたキャシーが呆れたように、でもにっこり微笑むと、チハヤはまともに顔
を赤らめる。
「さーて、掃除掃除っと」
 これ以上文句を言われないうちに、キャシーはモップを手に、掃除を再開させた。



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