古びた鏡台に向かい、しっとりとした長い黒髪を丁寧にブラッシングしている後ろ姿。
幼いアルベルは、その後ろ姿をじっと見つめていた。
―どうしたの? アルベル…。
 おそらく、そんな言葉を聞かされたような気がする。
 たおやかな声ではなかっただろうか。声がどんなであったかも、記憶はあやふやだ。た
だ、どんな言葉をかけられたかは、覚えている。
 瞳は自分と同じ色だったはずだ。たぶん。
 顔の造形もあやふやで、おだやかな面差しという印象でしかない。
―アルベルはおまえに似ているな…。
 父親が、いつだったかその女に向かって言った言葉。一字一句そう言ったか定かではな
いが、確か、そんな事を口にしていた。
―この頭の方は、俺と似ているな。…バサバサと、まとまりがないところなんか…。
 父親の大きな手が、自分の頭にのる。不思議と父親の顔ははっきりと思い出せる。父親
の顔は記憶にしっかり残っているから、無意識に自分で修復しているのかもしれない。
―アルベル…。
 自分を呼ぶ声。
 一人で着替えも満足にできないような年頃。うまくボタンをつけられない自分に、そっ
と白い手がのびてきて、優しくゆっくりボタンをつけていく。触れる手の温度が暖かかく
て、なんだか甘い気持ちになってくる。
 つないだ手の記憶が、白くて細い指で、明らかに父親ではない手。
 伸びてきたその手を見ながら、それをつかみに行く。
 見上げて、彼女の顔を見ていたはずなのに、何故か長い黒髪の人という印象でしかない。
 アルベルは、その女の事が好きだったんだと思う。
 たぶん。
 けっして気分の悪い記憶ではないから。
 あの日、父親は机の上に組んだ手に額を乗せて、ひどく落ち込んでいた。周りの空気さ
え暗くするほどに落ち込んでいた。
―どうしたの。
 そんな言葉を言ったあと、父親は珍しく疲れきった顔を見せた。
―かあさんが…、いなくなったんだ…。
 いなくなった。
 いなくなったとは、どういう事なのか。
 大人の事情とやらで、くわしく聞かされなかったか、もしくは忘れてしまったか。それ
がどういう事なのか、未だわからないままだ。
 蒸発したか、もしくは死んだか。そのどちらかであろう。
 父親のふしくれだった手につかまって、黒い人々の群れを歩く自分。
 前後にいくつかそういう事をしていた記憶があるので、もしかすると、その女の葬式が
その中に含まれていたかもしれない。
 あの頃のアーリグリフは不作が続き、おまけに例年よりもひどい寒波が押し寄せ、とど
めのように疫病がはやったので、アルベルの親戚も幾人か死んでしまった。
 そのため、何度か葬式に参列させられた記憶があり、そのどれかなのか、それともどれ
でもないのか。アルベルにはわからない。
 あの女は肖像画に描かれる事を嫌がったと聞く。昔、シーハーツに行って、家族の姿を
施術で鏡に定着しよう、とかいう話があがったが、それも良い顔をしなかったといつだか
聞かされた。
 だから、ますますアルベルの脳裏には顔がハッキリしない。
 当たり前だが、アルベルはあの女を名前で呼んだりはしなかったので、どんな名前だっ
たかも思い出せない。
 さすがに、アルベルももう子供ではないので、ウォルターあたりに聞けばすべてがわか
るだろうと思う。調べれば、名前くらいはわかるだろう。
 だが、そんな事をする気にはなれなかった。
 自分がここに存在している以上、自分は彼女の腹から産まれた人間であり、つまり彼女
も現実に存在していたのだ。しかし、アルベルは現実感をもって彼女の存在を感じる事が
できない。記憶の中にだけ住むような、実にあやふやでつかみどころがない。
 それでも、そのやたらに儚い存在は、なにか憧れる思いを抱き、見つければ手を延ばし
たいと感じる。その手が届く事はないのは、永遠にありえないというのがわかっているの
にも関わらず。
「……長…、団長…。団長!」
 自分を呼ぶ声に、アルベルはようやく我に返る。
「団長、聞いてますか?」
 ぼんやりとしているアルベルに、部下は黒い兜のスキマから、困った顔を見せる。
「…いや、全然…」
 本当にまったく聞いていなかった事を正直に言うと、彼はほんの小さくため息をついた。
「しっかりして下さいよ。後程、シーハーツ女王がこちらに挨拶周りに来るそうですから。
団長もそれに合わせて、挨拶してください」
「聞いてねえぞ、そんな事は」
「ですから、さっきからずっと申し上げているじゃありませんか。勘弁して下さいよ」
 情け無さそうな部下の声に、アルベルは空を見上げる。そういえば、さっきからずっと
彼の声がどこかで聞こえていたような気はする。
「国王が挨拶して終わりじゃねえのか」
「団長のご活躍は、あちらの耳に届いているのです。こちらに国に来ている以上、あちら
も無視するわけにもいきませんよ」
「面倒くせえな…」
 こんな事になるなら、来るんじゃなかったという思いになる。国王の護衛という事で、
仕事でなかったらまず来なかった。
「あ、ほら、来ますよ」
 部下の騎士がそれとなく指さす先に、女王と執政官、そしてクリムゾンブレイドの二人
がこちらに向かって歩いて来るではないか。
「はええな」
「ですから、そうなる事になったと、先ほどから何度も…」
「わかった、わかった。うっせぇな。やりゃ良いんだろうがよ」
 情け無さそうな声の部下がいい加減うるさくなってきて、アルベルは頭をぼりぼりとか
きながら、ひどく億劫そうに椅子から立ち上がった。
「お久しぶりですね。アーリグリフの騎士よ」
 言葉遣いはやや尊大だが、威厳がこめられていて、少しの嫌みもない口調。物静かで、
風格漂うたたずまい。そのへんの一般人ならば、すぐに気後れしてしまうのだろうが、ア
ルベルは相変わらず面倒くさそうに突っ立っているだけある。
 ついこの間まで戦争をしていた国の王であるが、別にアルベルは彼女の事を好きとも嫌
いとも思った事がなかった。敵国の王だからといって、憎む対象とは思わなかったし、実
際に会ってみれば、それほど嫌な相手ではないと思う。
「そうだったか?」
 敵国だろうが、友好国だろうが、何がどうというわけでもない。アルベルはやっぱり面
倒くさそうにそう答えた。
 小さなため息が女王の後ろの方から聞こえる。例の一件にて、一緒に旅をした事もある、
クリムゾンブレイドの片割れだ。赤毛を短くした方がそうである。銀髪の方はまったく表
情を動かさない。近くにいる執政官の方が、顔色が変わりやすくて、並べると比べやすい。
 彼らの方も式典、という事でおそらく施術士の正装をしていた。なんだか見慣れない格
好の赤毛の女の方に一瞥くれる。一緒に旅したともなれば、さすがのアルベルでも気に止
めるものだ。こういう場で無かったら、二言、三言くらいは会話しただろう。
 絶対何か言いたそうな執政官と、赤毛のクリムゾンブレイド。女王の言葉よりも、背後
の二人の反応の方が面白い。
 二人とも、女王の手前、おさえているのだろうが、女王がすぐ近くにいなければ、苦言
以上のものを言ってくるに違いない。
「以前に出会ったのは、卑汚の風がおさまる前の事ですから。それ以来という事になりま
すか」
「あー」
 アルベルの女王に対する、というか、仮にも国の将軍ともあろう者の言葉遣いや、態度
ではないというのにも関わらず。女王は眉一つ動かさず、淡々と話す。
「あれ以来の調子はいかがですか?」
「ま、それなりだ」
「そうですか。何もない事がなによりです」
 相変わらず淡々としゃべる女王。アルベルとしては、顔色がすぐに変わる執政官を相手
にした方が、からかい甲斐がありそうだと思ってしまう。
 やはりこの何があっても動じない意志と、全ての者に対する寛容さは見た目以上に、年
齢をかさねているからか。
 彼女の広い額にかかる艶やかな黒髪。こちらを真っすぐに見つめる紅い瞳。
―あの女も生きていれば、この女くらいの年頃で、こんな感じになっていたのだろうか。
 ふと、アルベルはそんな思いにかられる。
 彼女の、上品に青く塗られた唇からつむがれる言葉がいやに耳に心地よく感じて、アル
ベルは、あのどうあがいても手の届かない存在を思い出す。
 本当に死んでしまったのか。それとも、蒸発してしまったのか。
 調べたくないのは、もしかすると、生きているかもしれないという望みを壊したくなか
ったからなのかもしれないと、今さらながらに思いはじめる。
 いまさら詮無いことでもあるのだが。
「……私の顔に何かついていますか?」
 どうやら、女王の顔をずっと見つめ続けていたらしい。そう声をかけられて、アルベル
はいささかギョッとしてしまった。
「あ…いや、そ……、…………別に…」
 何か言いかけて、それからやけにぶっきらぼうでスネたような声を出してしまった。
「そうですか」
 そんなアルベルに、女王は特に気分を害したわけでもないようで、軽く小首をかしげた。
「それでは、失礼いたします。ごきげんよう」
「ああ」
 いくらかぞんざいさが減った態度で、アルベルは短くうなずく。女王は優雅に会釈をす
ると、身をひるがえし、お供の3人に一瞥くれて、歩きだす。相変わらず表情を動かさな
い銀髪の女と、眉をひそめた視線をよこす赤毛の女。そして、高官のくせに感情剥き出し
にして睨みつける執政官をぼんやりと見送る。
「だ、団長…良いんですか? 女王相手にあんな態度で」
 今までのやりとりを間近で見ていた騎士は、なんとも気弱そうな声を出す。
「良いんじゃねーか? こんなちっせえ事で大騒ぎする女じゃねえようだしよ」
「そ、そうですかねえ…」
 もう一度、アルベルはシーハーツ女王に目をやる。
 シーハーツ侵略の話を聞かされた時も、特にどうとは思わなかった。戦争中も、やはり
何とも思わなかった。だが、こうして知ってしまうと、いざ戦いとなり、敵として彼女を
切り殺すのは、躊躇するようになりそうだな、とぼんやりと思う。
 アーリグリフの軍人として、敵であるならば誰であっても殺せる自負はあるが、それで
も躊躇はしそうである。
 これも、馴れ合いか。
 友好を深めるとかの建前で、いくらこんな下らない催しをやろうが、そんなの何になる
のかと思っていたが。
 こんな二言、三言の会話で馴れ合いもクソもあるものかと、思い直すのだが、それでも、
自分はすぐに刀を振り下ろせないような気がした。
 まあ、そんな事にならないように、こうして馴れ合いをしようと上でやっているわけだ。
 後ろの首筋のあたりをかきながら、ため息をつくと、アルベルはまたどっかと椅子に腰
を下ろす。
 そして、近くにあった食べ物に手をのばす。
―アルベル。食べる前には、きちんと手を洗いなさいって、いつも言ってるでしょう。
 いきなり、アルベルの脳裏にだれかの言葉がひびく。一瞬、びっくりして延ばした手を
引っ込めた。
「どうしたんですか、団長?」
 突然、何かに驚いたようなアルベルに、騎士が少し怪訝そうな声を出す。
「あー…、なんだ、その、手ぇふくもんとか、ねえのか?」
「あ、お待ち下さい。用意してまいります」
 食べる前に、手が洗いたいのだとわかった騎士は、ハッと気が付くと、急いでボウルと
ナプキンを取ってくる。
「…………」
 別に、そこまできちんと洗いたかったわけでもなく、手がふければそれで良かったのだ
が、目の前にきちんと手洗いボウルとナプキンを用意されてしまったので、仕方なくそれ
で手袋を外した右手を洗った。
 幼い頃、親にも、ウォルターにも、執事にも、メイドにも、その他の大人にも、似たよ
うな事をさんざん注意されたので、記憶がごちゃまぜになっているようだ。あの女が自分
にそう言う事を言ったのか、実際にはひどく曖昧だし、口調もそうであったのかもやはり
曖昧なはずなのに。
 なんだかこの国が苦手になってしまいそうで、アルベルは人知れず、ため息をついた。


                                   END


















































なんだか、まとまりのない感じのハナシです。
いつだったか(かなり前ですが…)の拍手で、アルベル両親の馴れ初めが読みたいとのコメ
ントをいただきまして。私も面白そうだと思って書いてみた話なんですが、アルベルの父
親はどことなく印象があっていろいろ妄想できたんですが、母親については正直、特にこ
れといった印象がないのです。
個人的に、アルベルって男所帯のむさい所で育てられた印象があるので、母親の影を感じ
ないんですよねー。まぁ、ゲームの感じだと、もう両親いないっぽいし。となると、彼が
ちっさい頃にいなくなってんじゃないかなーと思ったわけです。
いや、アルベルって顔や背格好や、服装のワリにはオヤジくさいところがある感じで、む
さい所出身な感じがね。するのですよ。つーか、この人、戦ってる時ってわりとガニマタ
ですよね…。素浪人を意識したんですかね…。
結局、彼の母親、つまりグラオの嫁がどんななのか、自分が見当つけられなかったために、
こんなハナシになってしまいましたが。
ロメリア女王見て、アルベルがかーちゃん思い出しているのは、私が色んな所から影響受
けているせいです。無印版ではINTが無意味に高かったり、DC版では詠唱時間が一番
短かったりと、施術の祝福は受けているようなので、それも面白いなぁと、他から影響を
受けております。女王=母親ってのはちとありえなさそうなんですが、近親だと面白いな
とは、思っています。
ところで、エリクールに写真なんかねーだろとか思ったんですが、それと似たような技術
があるって設定があったんですね…。アーリグリフ城の主のいない部屋をテキトーに調べ
てたら、なんか出てきてちょっと驚きました。