目の前が真っ赤に燃える。左手が熱い。見ると、左手が腕ごと燃えている。肉の焼ける
嫌な匂いが鼻につく。
 あのときの自分は何が起こったか把握できなくて、呆然としていた。
 目の前で焼け焦げる、人だったモノ。焼けていく自分の左腕。慌てる周囲の声。
 何が起こったか判じるのに時間がかかり、わかった途端に恐慌状態に陥った。
「うわああああああああああああぁぁ!」
 喉が張り裂けるばかりに叫んで、炭となっていくモノに駆け寄ろうとして、周囲に押し
止どめられた。
 やめろ。
 はなせ。
 あれは自分だ。
 自分がそうなるモノだったんだ。
 愚かで弱い自分がなるハズだったものだ。
 なのに何故。
 父親が燃えている。
 目の前が真っ赤に染まる。赤に塗りたくられ、赤以外何も見えない。やっと目が慣れて
きた。赤の中に見えるものは、真っ黒に焼け焦げたモノだ。

「うわあああっ!」
 たまらなくなって、アルベルは跳び起きた。
 心臓が激しく脈打っている。脂汗がとめどなく流れ落ちている。
「ハーッ、ハーッ、ハーッ…」
 荒い呼吸を繰り返し、握っている白いシーツに目を落とす。
 夢だ。
 またあの夢だ。
 最近はだいぶ見なくなっていたあの夢だ。
「クソッ…」
 胸糞ワリィ…。
 小さく悪態をついて、落ちてきた前髪をかきあげる。遠慮がちに触れる指に気づいて、
隣を見る。
「…どうしたんだい? うなされていたようだけど…」
 薄暗い光の下。ネルの心配そうな瞳が浮かび上がっている。
 そうだった。今夜は彼女が隣で眠っていたのだ。急にそれを思い出して、なんともいえ
ない苦い気持になる。
「…なんでもねえ…」
「何でもないって、あんた…」
 そんなわけあるはずないのだが、いらぬ心配をかけたくなくて、突き放す。
「うるさくして悪かったな…。もう寝てくれ」
 そっけなく言って、アルベルは横になる。彼女には背中を向けて。背後の気配が戸惑っ
ているのがわかる。
 しばらくして、白い手がのびてきて、ひたりと額に当ててくる。それがとても冷たくて、
今の自分はそれが、気持ち良かった。
 そこで、はたと目が覚める。少し身を起こし、額に乗った手を握り、思いきり引っ張っ
た。
「うわ」
 引っ張られ、ネルは自分の胸に落ちてくる。柔らかくて、冷たい肌が直に伝わってくる。
「おまえ…なんでこんなに冷たい…」
 布団に入っていたならこんなに体が冷たくなるはずがない。下半身はそうでもないが、
上半身は凍えるほどに冷たいではないか。
 カルサアでも冬の夜は寒い。布団もかぶらずにいれば凍えて、下手すれば死んでしまう。
ましてや今は、お互い服は一枚も身につけていないのだ。
「あんた、あったかいじゃないか…」
「答えろよ」
 強く抱き締めると、まるで氷を抱いているような感覚を覚える。
「………何でもないよ。もう寝なよ」
 ささやくような声で、自分が言った言葉を返してくる。冷たい手が背中に伸びてきた。
アルベルはため息をついた。
「…わりぃな…。…心配かけたみたいだな…」
「……時々、あんたうなされてるから…。今夜は特にひどいみたいだね……」
 落ち着かせるように、背中の手は優しくなでてくる。
 瞳を閉じて、彼女を掻き抱くと、馬鹿みたいに安堵が広がってくる。このときほど、自
分がこの女にこんなに参っている事を痛感させられた事はなかった。
 そんな自分に、またため息が出てくる。
「なんだい、ため息ついてさ…」
「ついて悪いか」
 想いとは裏腹に、口から出るのは憎まれ口ばかりだ。そう言うと、ネルの方もため息を
つく。そして、小さくボソボソとなにやら愚痴りはじめた。
「…なんだよ」
「なんでもないよ」
 自分の胸の中で、小悪魔っぽく微笑んで、胸に擦り寄ってくる。
 参った。
 アルベルはまたため息をついた。そして、彼女の顔をつかまえて、唇に口づける。その
頬を優しくなでて、さらにため息をつく。
「悔しいな…」
「何がさ」
「教えねえ」
「なんなんだい、さっきから」
 あきれたようなネルの声。こんな事を口に出して言えるほど、アルベルは気障な男では
なかったし、器用でもない。
 ふと気づけば、さっきまでのどうしようもない気分はどこかへ霧散していた。そういえ
ば、あの夢は彼女と付き合いだしてからだいぶ見なくなっている事に今更気づく。
 なのに、今夜に限ってどうしてあの夢を見たのか。
 答えはわかっている。
 あの儀式が近いのだ。
 アルベル自身もあのときの事を克服したくて、望んだ事だ。
 忘れて良い出来事ではないが、いつまでもこのままではいられない。忘れるのではなく
て、乗り越えていきたい。
 幾度も自分を責め続けてきた。己の弱さを憎み続けてきた。己に鞭打ちすぎて、目的も
見えなくなって、何をして良いかわからなくなって、目的も手段も混同して、混乱して。
それでもあの夢に責め立てられて。
 いつも綱渡りをしているような、ギリギリとした感覚だった。
 壊れなかったのは、壊れきれなかったのは。わかっているけど、心の奥底では認めてい
るけれど。それは悔しくて照れ臭くて表に出した事はないけれど。いつだって悪態をつく
相手の存在だ。
 己の未熟さも包み込むというか、丸め込むというか。そんな人間がアルベルには幾人か
いたりするから、踏みとどまっていられたのだが。
 過ぎ去った事は戻りはしない。代わりに命を差し出す覚悟があっても、事実差し出した
としても、死人は生き返らない。だから差し出すだけ無駄なのはわかりきってはいるのだ
けれど。
 いい加減時間が経っているから、いくらかショック薄れどうにかはしているけれど。完
全な克服などしていない。
 だから、今度のあの儀式でもう少し自分を変えたいと思っているのだが…。
「まだ寒いか…?」
「だいぶあったまってきたよ」
 抱えるように抱き締めると、ささやくような声が返ってくる。確かにさっきまでの冷た
さは感じない。
「あったかいね…」
 ホッとする声までも愛しい。この泥沼なほどな気持を認めるのは何とも癪で、そんな自
分にため息をつきたくなってくる。
 けど、さすがにもうため息をつくのは我慢して、なんとか飲み込んだ。
 人間、変われば変わるものだ。自分が自覚する程丸くなるなんて、誰が予想しただろう
か。

 薄暗い部屋の中。ゆっくりと自分の左手をかざしてみる。
 赤黒く醜く焼けただれ、細かな作業は一生無理だと言われている。確かに、ぎこちなく
動くこの指では細かい仕事は難しいだろう。
 いつもはガントレットの中だったり、包帯の下だったりする腕が、今日は剥出しであっ
た。理由なんて、なんてことはなくて。単に風呂の後、改めて包帯を巻くのが面倒だった
だけだ。包帯よりも先に彼女が欲しかっただけとも言う。
ゆっくり、手を握ったり、開いたりを繰り返す。その左手に白い手が伸びてきて、きゅ
っと握ってくる。
少し驚いて隣を見ると、にこっと微笑まれた。思わず鼻白んで、彼女を見つめていたが、
やがて目を半開きにして、息を吐き出す。
「おまえも知ってるか…」
「なにがだい?」
「この左手の事だ…。どーにも有名みたいだな…」
「ああ…。でも、くわしく知ってるわけじゃないけど…」
少し、彼女の声が沈む。知っているのだろう。何故こんなに大火傷を負っているのか。
「慢心して命を落とすのは、ある意味当然だ。自業自得なんだ。てめぇの馬鹿さと弱さの
ツケを払うだけで、他を呪うだけ阿呆ってもんだろう。けどよ…」
 アルベルの言葉が途切れる。
「死ぬのは、俺だったハズなんだ…」
「アルベル…」
「どうして、俺が生き残って…。死んじまったのが……」
「…………」
「俺はどうして生きている…」
 左手を見上げて、つぶやく。
 悪夢の原因はそれなのか。
 ネルはそれを理解して、複雑な気持で隣のアルベルを見る。
 儀式の時、彼をかばって父親が焼死したのは割合有名だった。戦時中に、ちょっと調べ
たらすぐにわかった事だったし。まあ国の大将軍にあたる男の死に様だ。いやが応でも有
名になるだろう。
 敵ながら、他人事ながら、大変だろうなとか、その時ちょっとだけ思った事を思い出す。
もし、自分と父親がそういうふうになっていたら、ネルは生きていられないくらいにショ
ックを受けるだろう。
 人を責めるより、自分を責める方がつらい。そうしてこの男がこの10年近く生きてい
た事を彼女は知っている。元々ひねくれ者だったらしいが、その出来事は彼の性格を確実
に歪めたであろう事は容易に想像がつく。
 どうすればこんなに歪んだ性格ができあがるのか。出会った頃は怒ったり呆れたり、し
まいにはもうそれが不思議でならなかった。
 思っている事を言葉にしても、この男には逆効果だろう。そう考えてネルは黙って彼の
左手に右手を添える。
 父親の分まで生きろだの、父親に助けてもらった命を大事にしろだの。きっと、ふてく
されるくらいにかけられた言葉だろうし。
 握り締めた火傷でただれた手は、力をなくしてゆっくりと下に落ちる。
 間抜けにも寝てしまったのか。アルベルは長い間何も言わなかった。
「私は…あんたが生きててくれて…良かったと思うんだけどね…。でなきゃ、こうしてこ
こにいないわけだし…」
 いい加減何も言わないので、寝てしまったと判断したネルはぽつりとつぶやいた。
「…別に、あんたの父親が身代わりになって良かったとか言うわけじゃないけれど…。…
いや、良いとか悪いとかの問題じゃないか…」
 アルベルの左手をしゃくるように握り締めてみる。
「…確かに、良い悪いの問題じゃねえんだよな…」
 寝ていたと思っていたアルベルの低い声がして、ネルは思わずギョっとした。
「あ、あんた、起きてたの?」
「まあな。色々…わかっちゃいるんだけどな…。ふっきれるもんでもなくてな…」
「……………」
 ネルは仰向けから、横に寝て、隣のアルベルを見る。
「…ふっきれなくても、良いのかもしれないよ…」
「は?」
「お父さんの事だろう? ふっきって良いものでもないような気もする…。普段何も考え
ないようなあんたには、悩む機会が何度もあって良いじゃないか」
「おまえ…」
 アルベルの瞳が剣呑そうに細くなる。
「悩んでるあんたって、はたで見てると結構可愛いしね」
「おまえな…」
 ネルは睨みつけるアルベルに向かってにっこり笑うと、アルベルの上に乗っかってきた。
白くて柔らかい肉体が彼の上にのしかかってくる。
「お互い仕事で忙しいし、会ったからって何ができるわけでもないけどさ。…そばにいて、
あんたの話くらいなら聞いてあげられるよ。というか、それくらいしかできないけどね」
 言って、冷たい唇が落ちてくる。
 何てこった。
 アルベルは頭がくらくらしてきた。
 このこ憎たらしい女は、自分の心を根こそぎ持って行きやがった。ここまで何にも残さ
ず持って行かれるとは思ってもみなかった。
 無償に悔しくなった。
「………おい」
「え?」
「やるぞ」
 相手の返事も待たずに、体をひっくりかえす。
「え? あ、ちょ、ちょっと…! あんた明日早いんじゃ…」
「知るか。起こせ」
「なに、自分勝手に…ちょ、あ、んんっ!」


「ほう、アルベルの儀式が成功したと?」
 アーリグリフ王、アルゼイは報告を聞いて、顔をほころばせた。このところ、仕事が忙
しすぎて、微笑む暇さえもなかったのだが。
「はっ。滞りなく儀式は終了いたしました。アルベル様は明日登城なさるそうです」
「ふむ。わかった。下がれ」
「はっ」
 騎士は頭を下げて、御前から引き下がる。
「そうか…。あのアルベルがあれを成功させたか」
 アルゼイは口元に笑みを浮かべながら、その上に手を重ねる。
 グラオの最期や、アルベルの様子を聞いた時はひどく心を痛めたものだが。
 あの戦争は結局のところ、痛み分けでしかなかったのだが。こうして改めて見てみると、
あの戦争によって体内の膿みを出したような気がする。
 その中での一番の好例がアルベルか。
 あの若者達に加わり、見識を広め己の未熟さをだいぶ克服したようだ。おまけに性格も
かなり丸くなって帰ってきた。配下の兵士たちの受けも良くなっているようだ。
 問題は山積みではあるけれど。
 アルベルの将来が楽しみになってきた。
 そして、アルゼイは自分の年齢を思い出して苦笑した。
 俺も歳をとるわけだな。
 妙に老成した気持になって。苦笑いはしばらく止まりそうになかった。

                                                                         おわり。























あとがき
なんか、すごくありがちな話です…。焔の儀式ネタって多いですよね…。まあいいや。
なんでネルさんの体が冷たいかとか説明してないですが。単に布団もかぶらずに上半身を
起こしてアルベルを観察してたからなんです。それだけですよう。
ところでアルゼイ王ってもしかしなくってもクリフとどっこいどっこいなトシなのかな。