「今日は日差しが強いからね。帽子をかぶって行こうね」
 そう言って、アカリは屈んで少し大きめの麦藁帽子を息子の頭にしっかりかぶせると、
顎の下の紐を軽く結ぶ。
「ねえ。ママは一緒に行けないの?」
 一昨日あたりから、一緒に行けそうにないと聞かされていたけど、それでも望みを捨て
切れずに、自分の目線に合わせてしゃがんでいる母親の袖を引っ張った。
「ごめんね。ネールの出産が近いのよ。目を離すわけには、いかなくて…。ごめんね」
 寂しそうな息子の頬をゆっくり撫でて、アカリは困ったようにほほ笑む。
「ほら、ワタル。また今度、みんなで一緒に行けば良いじゃないですか。今日は、父さん
と一緒に行きましょう」
 母子のやりとりを隣で眺めていたタオは、息子の頭をぽんぽんと軽く叩いて、出発を促
す。飼っている雌牛の出産が近いのだ。今日か明日か産まれそうなのに、のんびり釣りは
していられない。
「……うん……」
 無垢な瞳で父親を見上げて、それからすぐ目の前にある父親の手をぎゅっと握りしめた。
「じゃあ、行ってきます」
「はい。行ってらっしゃい」
 父親に手を引かれつつも、まだ気になるらしく、玄関先で手を振って見送る母親の姿を
二度三度振り返りながら歩いている。
「……きのう、産まれちゃえば良かったのに…」
 さっさと産まれてくれていたら、母親も一緒に行けたのに。幼い息子は小さく口をとが
らせて、ため息をついた。
「そうはいきませんよ。お母さんとはまた行けますから。今はネールにとって大事な時な
んですよ。お母さんがついていないとね」
「………うん……」
 大きく息を吸い込んで、そしてため息をつく。わかってはいても、それでも母親にも一
緒に来てほしかった。
「じゃあ、今日はお母さんに美味しいお魚を持って帰れるように頑張りませんとね」
「……うん」
 タオはゆっくりと歩いて息子の歩調に併せている。ワタルはそんな父親を見上げて、大
きく頷いた。
「今日は、滝に行くの?」
「まだワタルにカラメル滝は早いですよ。今日はメープル湖に行きましょう」
「お魚、たくさん釣れるかな」
「釣れると良いですねえ」
 釣り好きのタオは、まったく釣れない日がある事もよく知っている。自分は釣れなくて
も何とも思わないが、息子も釣り好きになってほしいから、今日みたいに生まれて初めて
の釣りには、ザリガニでも良いから釣れて欲しい所である。
 カラメル川を見下ろす自宅から、メープル湖までの道程はそれほど遠くはない。木々の
緑は色濃く、セミがせわしなくあちこちで鳴いている。強い日差しが降り注ぐ道を、息子
の手を引いて歩いていると、なんとも幸せな気持ちになってきた。すぐ隣にいる息子を見
下ろすと、彼はそれに気づいて愛らしい顔付きで、自分をのぞき込んでくるものだから、
なんだか嬉しくなってしまう。
「あついねえ」
「そうですねえ」
 しかし、タオにとってはこの暑さも悪くない。確かに暑いけど、それを不快だとはあま
り思わないのだ。夏は暑くて、当然なのだから。
「ねえ、お茶飲んでもいい?」
「え? もうですか? まだ湖に着いてませんよ?」
「だめ?」
「だめというか…。喉が乾いたんですか?」
「ううん。でも、飲みたいの」
 どうやら、母親が持たせてくれた水筒が嬉しくて仕方ないらしい。喉が乾いたというよ
り、水筒を使って飲んでみたいようだ。
 タオはちょっとだけ息をつく。
「メープル湖まであともうちょっとですよ。そこに着いてからにしましょう」
「…………うん。わかった」
 ワタルは素直に頷いて、お弁当と一緒に持たせてもらった首から下げた水筒をいじくっ
た。
 湖には、幼いワタルの足でもそんなに遠くない。水面は太陽の光を反射して、キラキラ
と輝いている。安全で絶好な釣り場所を、以前この付近に住んでいたタオは知り尽くして
いるので、釣り場所に迷う事はなかった。
「さあ、着きましたよ」
「うん。水筒飲んで良い?」
 そんなに喉が乾いているわけでもないだろうに、よほど水筒を持たせてもらったのが嬉
しかったらしい。タオも苦笑してしまった。
「ちょっとだけですよ。今日は暑いですから、後で喉が乾いてしまいますよ」
「うん」
 大きく頷くと、ワタルは小さな手で水筒の蓋を開けて、おぼつかない手つきで蓋のコッ
プにお茶を注ぐ。入れ過ぎにならないよう、適当なところでタオが手を出して水筒を上げ
させて止めた。
「へへー」
 にこーっと笑い、ワタルはなんだか美味しそうにお茶を飲む。
「つめたいよ、パパ」
「はいはい」
 母親は冷たいお茶を水筒につめてくれたようだ。息子の笑顔に釣られて笑顔になる。
「さて、釣りの準備をしましょうか。ワタル、ちょっと竿を貸してごらん」
「ん」
 子供でも使える小さな竿を持たせており、それを受け取るとタオは慣れた手つきで仕掛
けやエサをつけていく。その鮮やかすぎる手つきに、ワタルはそれをじっくり見つめてい
ても、何がどうなったのかよくわからなかったくらいだ。
「ワタル、これはウキ。これが沈むと魚が食いついた証拠です。まあ、釣れた時の手ごた
えが一番気持ち良いんですけどね。それから、これがエサ」
 一通り釣竿の準備が整うと、タオはひとつひとつ指さして、息子に教えていく。
「みみずー」
「そうですね。母さんの畑には良いミミズがたくさんいますから。それと、釣り針は危険
だから、今は触らないでくださいね」
「いたいの?」
「痛いですよ。もう少し大きくなったら、自分でできるようになりますよ」
「まだだめ?」
「だめです。まあ、もってごらん」
「ん」
 タオには小ぶりの竿でも、ワタルにとってはなかなかに長い竿だ。緊張した手つきで、
ワタルは竿をぎゅっと握り締める。
「そんなに強く握らなくて大丈夫。ここと、ここを持って、そう、で、湖に向かって思い
きり振ってごらん」
「んん!」
 目をつぶり、言われた通りに思い切って竿を振り下ろすと、エサと浮きはポチャンと音
を立てて水面に沈んだ。
「わ! いった!」
「ワタル、魚がいそうな、そうですね、あのあたりにウキを動かしてごらん」
「こ、こう?」
「ええ」
「つ、つれるかな?」
「すぐは無理だと思いますよ。釣りは待つのがほとんどですから」
「そうなの?」
 竿を握り締めたまま、ワタルは父親を見上げる。
「そうですよ。ずーっと待ってても釣れない時もしょっちゅうですから」
「ふーん……」
「竿の手ごたえは…まだかな、ワタル。あのウキを見てるんですよ。魚がかかったら、沈
んでしまいますから」
「わかった」
 ちょっと息子の様子を見ていたが、大丈夫そうだと判断すると、タオは自分も釣りの準
備をする。慣れたもので、さっさと用意をしてしまうと、慣れた手つきで竿を振った。
 今日も暑い夏の日である。
 蝉の鳴き声は暑さを助長させるし、風はあんまり吹かない。この暑さにもメゲないのか、
白い蝶がひらひらと通り過ぎていく。
 ワタルが腰を下ろした場所は大きな樹が影を作っている場所で、この炎天下の中、なか
なかに気持ち良い涼が届けられていた。
 さっきから見つめ続けているウキに変化はない。
 子供の割に随分と気の長いワタルは、かなりの時間ウキを見つめていても、そんなに苦
とも思わなかった。時々、タオが隣でアドバイスをしてくれ、それに従いエサを動かして
みたりしている。
 そんな時。
「ん!」
 竿を動かした途端、糸が引かれる感覚にワタルは思わず釣竿を握り直した。
「かかったんですか?」
「んー!」
 生まれて初めての感覚に、ワタルは夢中になって竿を振り回し、釣り糸の先にいるもの
を引っ張り上げた。
「えやあ!」
 掛け声とともに竿を振り上げ、水面から何かが飛び出した。
 魚だったらと網を手にしたタオだが、息子が吊り上げたものに一瞬、目を開かせる。
「ぱ、パパ、パパ、な、なんか釣った!」
「え、ええと…」
 息子の竿の釣り糸を手にして、タオはその吊り上げたものを引っ張ってみた。
「なにこれ!?」
 黒くて、なにやらモジャモジャしていて、ぐちょぐちょに濡れていて、なんだかキモチ
ワルイものが、釣り糸に引っ掛かってぽたぽたと水をたらしている。
「も、藻…かな?」
「も?」
「藻」
「おさかな!?」
「い、いやあ、これは魚じゃないですねえ」
「なにこれ? いきもの?」
「う、うん…。確かに、生き物といえば、生き物ですねえ」
「僕、いきもの釣ったの!?」
 目をキラキラさせて興奮する息子に、どう説明したものやら困ってしまい、タオはなん
とか言葉を捜した。
「そ、そうといえば、そうかな……」
「わー」
 ワタルはとても喜んでいる。
「これ、ここに入れて良い?」
 魚を入れるためのクーラーボックスに藻を突っ込もうとしている息子を前に、タオは珍
しく焦った。
「えっ? ええと…」
 そんなもの持って帰っても困るだけなのだが。
「いれるね」
 どうとも返事をする前に、息子はすごく嬉しそうに藻をクーラーボックスに突っ込んで
しまう。
「あ……」
「パパ! 僕、いきもの釣ったよ!」
「う、うん」
 眩しい笑顔全開の息子に、それがいらないものだとかゴミだとか言えようか。
 ……まあ、後で息子が見ていない所で捨てようか……。そう思い直して、タオは息子の
笑顔に応える事にした。
「そ、そうですね」
「えへへー。これ、ママへのおみやげにしようっと」
「えっ!?」
「だってママ、僕が釣ったものを楽しみにしてるって、言ってたよ!」
「え、ええ……」
 これは後で妻に説明しなくてはならないな。そう思い、タオは藻をつっこまされたクー
ラーボックスを横目で見た。
「パパ、パパ。エサつけて」
 藻を釣って楽しみを見いだしたのか、嬉しそうに釣竿を差し出されては、わざわざ子供
の夢を奪うような事をしてはならないと、思い直させられる。
 実は釣り針にはまだミミズがぶら下がっていたものの、タオはすぐに新しいエサをつけ
てやり、息子に竿を手渡した。
「こう? パパ、こう? ねえ、パパー!」
 おぼつかない手つきで竿を振り回して、スイングの仕方を聞いてくる。その愛らしい様
に、タオも顔がほころんできた。
「そうですねえ。肘をまげて、こんなふうに…」
 小さなワタルの背後にまわって、竿の振り方を指南する。密接すると子供の高い体温が、
そこはかとなく漂ってきて、なんとも頬がゆるんできた。
 どこの家もそうなのだろうが、やっぱりウチの子が一番である。
 ワタルが釣り糸を垂らして、どれくらい経ったのか、彼が騒ぎだした。
「ぱ、パパ、パパ! な、なんか、なんか引っ張ってる引っ張ってる! 動いてるー!」
 ああ、これは本物が来たかなと、タオはすぐに網を持って息子に近づく。
「な、なにこれなにこれ! さ、竿が、震えて…」
「ワタル、しっかり竿を握って」
「う、うん」
「慌てると逃げられますから、落ち着いて。竿を引いて、そう」
 竿を振り上げて、釣り糸の先の物をゆっくり引っ張りあげさせると、水面に浮かんでき
たそれをタオは網でさっとすくい上げた。
「ああ、ワタル。すごいじゃないですか。テナガエビですよ」
「てながえび?」
「ごらん」
 跪いて網の中身を見せると、ワタルはかけよってきて、のぞき込む。
「…これが、てながえび?」
 網の中には、中くらいの大きさのエナガエビがビチビチと撥ねていた。
「そうですよ。ここのハサミがついている腕の部分が長いでしょう? だから、テナガエ
ビ。茶わん蒸しにすると美味しいんです」
「ちゃわんむし? ぼくそれすき!」
「ええ。お母さんに後で作ってもらいましょう」
「うん!」
 笑顔満面で頷いて、タオにぎゅっとしがみついてくる。その時だった。
「ワタルくん!」
 背後からの声に振り向くと、くせっけを二つに結い上げた少女が立っていた。
「ユイちゃん」
 近所の子で、ワタルもわりと遊んでいる女の子である。明るくて、くるくるとよく動く
子で、のんびりペースのワタルは、どちらかというと振りまわされている感がするものの、
本人は気にしていないようだが。
「なにしてんの?」
 彼女の家はメープル湖に近いから、よくこのへんを散歩しているのを見かける。
「パパと釣りだよ。みて! これ、僕が釣ったんだよ!」
 父親の持っている網を自分も持って、中にいるテナガエビを見せた。ユイはひどく興味
をそそられたようで、すぐさま寄ってくる。そして中でエビが撥ねているのを見ると、目
を丸くさせる。
「ええー!? なにこれ、ワタル君が釣ったの? すごーい」
「えへへへへへへ」
 褒めたたえられ、ワタルはなんとも照れ笑いをして、後ろ頭をかいた。
「ね、ね、これってエビでしょエビ?」
「うん。てならえびだよ!」
 なんか間違った発音している気がするが、タオは聞き流す事にする。
「えー、すごーい、なにそれすごーい」
「へへへー」
 すごいと連発されて、ワタルはますます上機嫌になっていく。
「ねえねえ、どうやったの? どうしたら釣れるの? ユイもやりたい!」
「え……」
「ねえ、どうするの?」
 のぞき込まれるように詰め寄られて、ワタルはわずかにのけぞった。そして、自分が手
にしている釣竿に目をやる。
「…パパ、ユイちゃんに釣竿かしてもいい?」
 どうしようか迷ったようで、ワタルをタオの顔を見上げて釣竿を少し持ち上げた。
「…かまいませんけど……」
 ワタルが良いというなら、別にどうこう言うつもりはない。タオが頷くと、ワタルは釣
竿をユイに差し出した。
「これで釣ったんだよ」
「へー! へー! どうやって? どうするの? どうすれば良いの?」
「あ、ちょっと待ってください」
 タオはとりあえず、藻が入っているクーラーボックスにテナガエビを急いで突っ込むと、
釣り針の先にエサをつけてやる。
「これを、投げればいいのね?」
「あ…」
 タオの説明もよくよく聞かないまま、ユイは釣竿を振り回して、エサを投げ入れた。
「うわー! すごいわ! ユイ釣りしてるのね!」
 釣りをしている自分に感動して、ユイは調子に乗って竿をぶんぶん振り回す。
「ユイちゃん、竿はそんなに動かしたら……」
 だめですよ。
 そう言いかけた時、ユイの竿が止まった。どうやら、釣り針を何かに引っ掛けたようで
ある。しかし、ユイは魚がかかったと思い込んだ。
「あ! な、なんかかかった! かかったわ! おもい! おおものだわ!」
「あー、ユイちゃん、竿を引っ張らないで、ちょっとかして…」
「んんーっ!」
 やっぱりタオの言うことなんか聞かずに、ユイは力任せに竿を引っ張り上げて、そして
…。
 プツン!
「わあ!」
「あー」
 釣り糸が切れてしまい、ユイは勢いよく尻餅をついた。
 まるでスローモーションのように、切れた釣り糸は宙を舞って、それから力無く釣竿の
先から揺れている。
 唖然とした顔で、ユイは切れた釣り糸の先を見つめた。
「ああ、切れちゃいましたか」
「大丈夫?」
 まるで時間が止まってしまったかのように、尻餅の体勢で硬直したまま、ユイは切れた
釣り糸を見つめている。ワタルが声をかけてやるが、まるで反応がない。
「あ、ああ…あああ……」
「ユイちゃん?」
 動かないユイに、タオとワタルがちょっと心配して顔をのぞき込むと、ユイは目を見開
いたまま、タオとワタルを見た。
「ご……ごめんなさいっ!」
 凄い勢いで頭を下げて、その風でタオとワタルの前髪が軽くたなびく。
「ああ、いえ、いいんで……」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!」
 よくある事だからとタオが慰めようとしたが、ユイはうつむいたまま謝り続けた後、突
然あげた顔には涙が浮かんでいた。
「ユイちゃん…」
 大丈夫だと声をかけようとしたのだが。
「ごめんなさーい!」 
 釣竿を放り投げて泣きながら走り去ってしまった。
「………………」
 後には、肩に手をかけてやろうとして行き場を無くした手をしたタオと、何が起こった
のかよく理解できないまま茫然と突っ立っているワタルが残された。
 しばらく、突然の事に対応できないまま動けなかった親子だが、やっと硬直から開放さ
れてタオはユイが放り投げた釣竿を拾い上げる。
「…別に、釣り糸なんてよく切れるんですけど……」
「ユイちゃん、泣いてたなあ…」
「あわてん坊さんですねえ…」
 すでに見えなくなっているが、彼女が走り去ったあたりをながめ、タオは小さく苦笑し
た。
「……ユイちゃん、大丈夫かなあ…?」
「多分大丈夫ですよ。なんでしたら、あとで、ユイちゃんのお父さんかお母さんに様子を
聞いておきますから」
 泣きながら走り去ったユイを心配している息子の頭を軽くなでて、タオは釣り糸の修復
にかかる。
 結局、この日はタオが釣ったコイとウグイ、そしてワタルのテナガエビが釣れたのみで
あった。
 あんまり遅く帰るわけにもいかなかったし、まったく釣れない日だってある事を知って
いるタオは、初めてで幼いワタルが一緒だったにしては良い方だと思う。
 なにより、ワタルが釣りを楽しいものだと思ってくれた事の方が大きい。タオの手を握
って、釣れた時の竿の触感を何度も話す息子を見ていると、嬉しくなってくる。

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