「ママー! ママ、ただいまー!」
 家に帰るなり、ははしゃいだ様子で母親を呼ぶが、返事がない。
「ママ、どこかな?」
「動物小屋じゃないですかね?」
 釣り道具を片付けているタオに聞いてから、は動物小屋の方へ駆けて行く。程なくして、は母親にまとわりつきながら、一緒に家の方に帰ってきた。
「おかえりなさい」
 タオを見て、妻は笑顔で出迎えてくれる。
「ただいま。どうでしたか? ネールの様子は」
「うん。元気な子牛を生んでくれたわ。様子を見ていたけど、大丈夫そうよ」
「そうですか。それは良かったですね」
 元気に生まれてくれる事に越した事はない。タオも安心した。
「ねえ、ママ! 僕、ママにおみやげあるんだよ!」
 さっきからずっと母親にまとわりついて、は興奮してアカリのズボンにしがみつく。
「あら、なにかしら」
「僕が釣ったヤツ!」
 そう言って、はタオが置いてあるクーラーボックスの所に駆け寄った。いつもは、のんびり屋の彼があそこまではしゃぐのはなかなかに珍しい。
「よっぽど楽しかったみたいね」
「ええ、なによりです」
 心の奥底からそう言って、タオははしゃぐ息子を眺める。
 そのうちにも、はもどかしげな手つきでクーラーボックスを開けると、中の物をつかんで母親に掲げて見せた。
「えっとね、これ、これ、おみやげ!」
「え?」
「あ…」
 が誇らしげに掲げて見せるそれは、真っ黒い藻であった。
「ね、ママ、これあげる!」
 未だポタポタと水が滴るそれを、母親の手に持たせて、満面の笑みを浮かべる。
「……藻…?」
「……も……藻……」
 目を点にしながら、隣にいるタオに確認すると、さすがのタオも顔を多少引きつらせながら頷いた。
「それね、僕が釣ったんだよ! 初めて釣ったの!」
 この無邪気で無垢で愛らしい笑顔を浮かべる息子に向かって、こんなゴミなどいらないなどと誰が言えようか。
「あ、あー…う、うん。あ、ありがとう…」
 アカリも多少顔を引きつらせながら礼を言うと、はますます顔をほころばせた。
「あとね、あとね、てならえびも釣ったんだよ! ……あれえ? えび、いないなあ…」
 クーラーボックスに顔をつっこまんばかりにのぞき込むが、が釣ったテナガエビが見当たらない。
「…か、カメにあげようかしら……」
「そ、そうですね……」
 小声で藻の宛て先を相談する両親に気が付かず、はクーラーボックスの中をくまなく捜す。
「……あら?」
「おや」
 ふと、手にした藻がなにかもじゃもじゃ動くので、よく見ると、藻の中にテナガエビがこもっているではないか。
。テナガエビってこれ?」
「あ、そこにいた!」
 アカリがつかんでいるエビを指さして、は顔を上げる。
「あら、じゃあ、ちゃんとしたのも釣ったんじゃない」
「え?」
「あ、ああ、何でもなくって…ええと、テナガエビも釣ったのね」
 思わず口にした言葉を慌ててごまかして、アカリは息子が釣ったエビを眺めた。
「うん! ねえ、ママ。それでなんか作って!」
「あ、そうね。いいわよ。テナガエビっていったら、やっぱり茶わん蒸しかしらね」
「うん!」
 にこにこ笑顔ではしゃぐ息子を見ていると、つられてこちらも笑顔になる。
「あとね、パパの釣ったお魚も2ついるんだよ」
「コイとウグイです」
「そう…」
 魚の名前を聞いて、アカリはさっと脳内で今夜の夕食のメニューを巡らせた。
「んー…。みそ煮かしら……」
「いいですねえ」
 嫁の作る物は大概美味しいので、何だって大歓迎である。
「さて、じゃあごはんの用意をー……」
 言いかけて、アカリは手にした藻の始末に困った。とりあえず、エビはクーラーボックスの中にいれておくとして、これはどうしようか…。
 思わず藻を両手で広げてみて、ふと違和感に気づく。
「これ…」
「え?」
「これ、藻じゃなくて…………、これ、カツラじゃない?」
「え?」
 手にした時から違和感は感じていたが、広げてみてわかった。これは藻ではなく脱ぎ捨てられた(?)カツラであると。
「だ、誰のでしょうか…?」
「え? そ、それはわからないけど……」
 この島でカツラをしていそうな人間など思い当たらないが、一体誰が使っていたのだろうか。
「ああ、でも確かにメープル湖で藻が釣れるって考えてみれば変ですよね」
 よく釣れる藻は海に生息しているものである。メープル湖には生えていない植物だ。
「って、でも、なんでカツラがメープル湖に?」
「え、そ、それはわかりませんよ」
「ていうか誰の? 誰がつけてたの?」
「い、いやあ……」
 海で釣れたものなら、誰かが船上から落としたものなのかもしれないが。
「……ママ、それ、もじゃないの?」
 ふと気が付くと、息子が見上げているではないか。そこで、我に返り、アカリはどう答えようか考える。
「そ、そうみたいね。藻じゃないね、これ」
「じゃあ、いきものじゃない?」
「うん。生きていないなあ、これは」
「……そっか……」
 とりあえず生き物ではないものを釣ってしまったという現実に、はちょっとテンションが下がってしまったようだ。
「ま、まあ、テナガエビも釣った事ですし。お母さんの美味しい夕ごはんを待ちましょう」
 とりなすようにして、タオは息子の背中を優しく押して、家の中に入るように促す。少し残念そうな息子の背中を見送って、アカリはぱっぱっと周囲を見回すと、急いでカツラを集荷箱の中に投げ入れた。

 チリリーン。
 夕食中。タオがのために、魚の小骨をとってやっているところに、チャイムが鳴らされる。
「誰だろう? この時間に」
「ですねえ」
 ちょっと顔を見合わせると、アカリは椅子から立ち上がり、玄関へ向かった。
「あ、。この、骨の回りの身が美味しいんですよ」
 骨のまわりの身ごと残そうとしているに気が付いて、タオは注意する。
「お父さーん、ー! ちょっと来てー」
 玄関で何があったか、アカリが呼んでいる。タオは机の上に置いてあるティッシュで手を拭くと、息子と一緒に玄関へ向かった。
 玄関には、思い詰めた顔のユイと、少し困った顔の彼女の母親が立っていた。
「ユイちゃん!」
 が驚いて声をかけると、ユイは涙目になりながら頭を下げる。
「……あの、ごめんね、くん…。その……つりのどうぐ、壊しちゃって…」
 どうやら、あの後、ずっと気にしていたようである。
「なにがどうなったのか、ユイの説明じゃわからなくて。でも、なんかウチのユイが悪い事しちゃったみたいで、謝りに来たの」
 ユイの母親のマイが苦笑しながら、涙目の娘の肩を持ちながら、そう言った。
「いやあ、全然気にする事ないですよ。ちょっと引っかけて釣り糸を切ってしまったくらいで。釣りをしていれば、割とよくある事ですし、釣り糸くらいならすぐに直せますから」
 タオが驚いてそう説明すると、マイはほっとした顔を浮かべる。
「なーんだ。良かったー。君の釣竿をぼっきりやっちゃったのかと思った〜。ユイってば、けっこうおっちょこちょいなところがあるから」
 そこのところあなたにそっくりですから、などと思ってもおくびにも出さずに、タオは笑顔で頷いた。マイはアカリ達とも仲が良いので、基本的にフランクである。
「……だ、だいじょうぶ…なの? おじさん…君も、怒ってない?」
「大丈夫ですよ。私もも怒っていません。ただ、もうちょっと落ち着いてくれると、いいかな」
 腰を低くして、少しユイの目線にあわせてタオが言うと、ユイは滲んできた涙をぬぐって、タオと、彼の後ろでうんうんと頷くを見つめた。
 女の子も可愛いなあとタオが思っていると、隣で立っていたアカリもしゃがんでユイに目線をあわせてくる。
「ユイちゃん、ずっと気にしてたの?」
「うん……」
 ぐいぐいと目をこすって、それから小さく頷いた。
「そっか。人の物を壊しちゃうのは良くない事だけど、でも、それできちんと謝れるのは大事な事よ。ユイちゃん、偉いじゃない」
「……え、偉い?」
「そうよ。悪いと思ったらきちんと謝る。時々、大人でもできない人がいるくらいだから。それができるユイちゃんは偉いのよ」
「……うん……」
 怒られるかと思ったのに、褒められて、ユイの泣き顔に笑みがさしてくる。
「よし! じゃあ、ちょっと待っててね」
 それを見て、アカリはにこっと笑うとさっと立ち上がって奥の方へと歩きだした。何をするのだろうと彼女が消えたあたりをみんなが眺めていると、程なくして手に何か持ってやって来る。
「はい。じゃあ、これ。今日、ウチでとれた産みたての卵!」
「わあ!」
 よく見る鶏の卵ではなく、少し珍しいアヒルの卵を、アカリはユイの小さな両手に乗せてやった。
「ユイちゃん、ちょっとおっちょこちょいなら、直さないとね。卵は落としたら割れちゃうから。気をつけて持って帰れるように、練習」
「い、いいの、もらって?」
「いいわよ。持って帰ってお父さんになにか作ってもらうといいよ」
 アカリの飼育する動物からとれるものはどれも評判が良く、傑作な酪農物が多い。味覚に対しては両親ゆずりらしく、アカリの家の産物はどこよりも美味しいとよく知っているユイは思わず感動したようだ。見れば、卵は色艶もよく、美味しそうである。
「そのかわり、慌てちゃったりしたら、悲しい事になるわよ〜」
「う、うん。気をつける!」
「ほら、ユイ。人から物をもらった時に言う事はー?」
「ふえ?」
 傑作なアヒルの卵に夢中になってしまったようで、ユイは母親に小さくこつかれて、彼女を見上げた。
「え?」
「ありがとう、だよ」
 がこそっと小声で教えてやるが、もちろん全員聞こえている。
「あ、うん。ありがとう!」
 そうだと思い出して、ユイは満面の笑顔で礼を言った。
「はい、どういたしまして。これに入れてもって行くと良いよ」
「ありがとー」
 どうやら用意していたようで、アカリは新聞紙でさっと卵をくるむと小さな手提げ袋に卵を入れて渡してやる。
「本当にごめんねぇー。じゃあ、お邪魔しましたー」
「ごめんなさい。それから、ありがとう。じゃあね、君」
「うん。ばいばい」
 手をばたばた振って、ユイは母親の手に引かれて去って行く。それをしばらく眺めていた一家だが、やがてやれやれと食卓へと引き戻った。


 と風呂に入り、寝付くまで側にいてやり、落ち着いたようなので、タオは居間に向かう。
 居間では、風呂上がりのアカリがソファに座ってテレビを見ていた。風呂からあがってすぐのようで、肌が桜色に染まっている。髪の毛は乾かしたばかりらしく、少し濡れていて、彼女のうなじがよく見えた。
 彼女の肌を見ていると、ああ見えて着痩せするタイプだとか、あれの時はあれであれだとか、実は〇〇〇が××だとか、夫でしか知りようがない事を色々知っている事をぶわっと思い出したタオは思わず生唾を飲み込んだのだが。とりあえず、今は我慢しておく。
、寝た?」
「え…、ええ。疲れてたみたいで、すぐにぐっすりでした」
 なんとか頭を切り替えて、タオもソファに腰掛けてアカリの隣に座った。すると、風呂上がりの彼女から、発せられる石鹸の香りやら熱やらがただよってきて、何ともいえない気持ちになる。が、またぐっと我慢した。
「あんなにはしゃいでいたからね」
「とにかく、釣りを楽しいと思ってくれたようで、本当に良かったです」
 息子と釣りにいくという前々からの夢がかない、さらに楽しんでくれて、タオも本懐である。
「今度は私も行くからね」
 アカリも釣りが好きで、実はかなりの腕前なのだ。彼女の、何にでも楽しんでのめり込む性格が、上達を速めているのだろうと、タオは思っている。
「家族で釣りですかー。良いですねー」
 みんなでのんびり釣りをするなんて、考えるだけでも嬉しくなってきそうだ。
「けど、ユイちゃん、どうしたの? 釣り糸を切っただけって?」
「ああ。私たちが釣りをしていたら、あの子、湖付近を散歩中だったようで近寄って来たんですよ。で、がエビを釣ってすごく喜んでいたから、自分もやりたくなったんでしょうね。の釣竿を借りてやったんですけど、ほら、あの子あわてん坊な所がありますから。針を何かに引っかけちゃって、私が止める間もなく引っ張って切っちゃったんですよ。釣りの事もよくわからなかったみたいだし、まあ釣り糸も釣り道具には変わりないですから。釣り道具を壊しちゃったって、思い込んだんでしょうね」
「ああー…。マイに似てあの子、妙なところでチャレンジャーになって失敗するよね…」
 とりあえず勢いでやってみて、勢いで失敗するとは、彼女の母親を見ているようである。
「はは…」
「まあ、チハヤ君が言うには、料理に関してはそのチャレンジャー精神は引っ込むらしいけど」
「いやあ。チャレンジする事は悪い事じゃないですよ」
「うんまあそうなんだけどね」
 マイの手料理を過去に食べた事のあるアカリは、苦笑いしながらタオの言葉に頷いた。あの凄まじい味はなかなか忘れられそうにない。マイの事は好いているけれど、彼女の手料理だけは悪いが本気で勘弁してもらいたい。
「けど、ユイちゃんは可愛いですねえ」
「そうだね。あんな子だったら、ウチも欲しいよね」
 何のきなしに言ったアカリの言葉にタオがわずかに反応した事には、気が付かなかったようだ。
「…そうですねえ」
『……しまして、低気圧が接近中で、明日の天気は崩れる事と……』
「え? 明日は雨? ……放牧できないな…」
 流れているテレビから不意に入ってきた情報に、アカリは視線をテレビの方に走らせる。暑いからだろう。パジャマの上の方のボタンをきちんとしめないで、振り返った拍子に少しだけ胸元がのぞいた。彼女の少し濡れた髪の毛が、またなんとも言えない様子でうなじを彩っている。
 タオにとってはそれが決定打となったのだが、当のアカリはまったく気づいていないようだ。もうさっきからずっと、隣から発せられる石鹸の香り漂う熱に、今まで我慢していたのだが、自分達の間柄を思えばそれも馬鹿馬鹿しくなってくる。
「……アカリ」
「はい?」
 急に名前を呼ばれて、アカリはタオの方を振り返った。
「女の子、欲しいと思いませんか?」
「え?」
 突然言われた言葉を理解できず、アカリはタオを凝視する。
「……え、えーと? あ、うん。そうだね。もう…一人くらい、家族欲しいよね」
 ちょっとしてから、やっと言われた事に気がついて、それに対して少し考えながら言った。確かに、一人っ子では寂しいと感じているので、それに異論はないなと思う。
 そして、なんだかどうやら旦那がそういう気になっていると、ようやっと気が付いた。
「…って、え……、ま、まさか……、い、今から?」
 彼のそういう雰囲気を感じて、多少なりともたじろぐ。
「嫌ですか?」
「いや、嫌っていうか………、だからその、なんでそう突然なのよー」
 軽くぱしんとタオの肩を叩いてふざけてみせるが、タオの感情は変わらないようだ。別にそれが嫌とか、そういう事ではないのだが、突然言われて、彼女としては心の準備もなにもできていないため、戸惑うのである。
「………………本気?」
「本気です」
 少しだけ引きつった笑顔で首を傾けると、タオはあっさり頷いた。
「………………あの……だ、だから、その、ちょ、ちょちょ…」
 気が付けばあっと言う間にソファ押し倒されて、アカリは少し慌てる。
「そ、その、だめじゃないけど、こ、ここで?」
「ええ」
 タオは相変わらず、あのいつもの穏やかな表情をしている(ように見える)というのに、いや、それだからこそなのか、やっぱり何を考えているのかわからない。
 別にタオとしてはそうなるにはそれなりに段階があるし、それなりに考えてはいるのだけど、単に気が付かれないだけで、それが突然の行動と思われてしまうらしい。
 突然と思われるところに、タオは少しだけ心外な気もするのだけど、まあ、今はそんな事はどうでもよくて。
「いや、あの…」
 あきらめの悪い事を言っている妻の唇を塞いでも、彼女の手はまだあきらめ悪く、落ち着かなげにもがいている。
 しかし、その手もやがてタオの背中あたりに落ち着いたようだ。
 テレビの音が少しうるさいような気がするけど、これからの音消しにはなったりするのだろうか。
 というか、もう、テレビの事なんて、どうでも、よくて……。


END






























とりあえずほのぼの釣り一家を目指してみました。カミさんは釣りしてないけどな。
最初はマイどころかユイも出す予定はなかったんですけどね。チハヤが出てこないの
は単に仕事中だからです。多分この日は月曜日です。漁協が休みで酒場は営業中の日、
みたいなー。というか私、これを書いた時はチハヤ婿バージョンしかやった事なくて、
タオ婿バージョンどころかユイも見た事ないんで、彼らの言動で「違ぇ!」とかあっ
たらすみません。
ちょっと遊んでこのページのみは息子の名前入力をやってみたんですが、ちょっと面
白かったです。ただ、小説用に表示を調整するのが面倒だったですが…。